3

 雪がチラつく公園で、その人は、泣いていた。


 きれいな女の人……黒い髪に色白だけど、周りの大人とは違う、黄みがかった肌の色は、自分の養親に近い。


『大丈夫?』


 英語で話しかけると、その人は顔を上げた。


『ありがとう。大丈夫よ』


 その泣き顔が、懐かしい人を思い起こさせた。

 切れ長な目や、あまりえらの張っていないつるんとした頬、小さめの口。


『シンヤ……』

『……今、なんて?』


 女の人の言葉が、日本語に変わる。


『ううん、何でもないです』

 その人に合わせて健太も日本語に変える。


『あら、あなた日本語も話せるのね。日本人?』

『たぶん……』

『たぶん?』

『わかんない。でも、シンヤは、そう言ってた』

『……今、シンヤ、って言ったよね?』

『……うん』

『それは、誰? あなたのそばにいる人?』


 それまで悲しげに涙をためていた眦が見開かれ、強い光を灯した。


『……いない。シンヤは、インドにいる』

『インド? インドのどこ? その人は日本人なの? 年はいくつくらい?』

 女の人は、矢継ぎ早に言葉を重ね、健太の肩をつかんで揺さぶる。

 その鬼気迫る様子に、幼い健太は恐れを抱いた。


『……ない! わかんない!』

 全力でその手を振り払うと、健太は女の人に背を向けて走り出した。


『待って……!』


 必死で懇願する声を振り切り、走り続け、気が付くと公園の端まで来ていた。


 チャイムの後、ゴーン、ゴーン、という正時を知らせる鐘の音が四回鳴り、見上げればビックベンの時針が斜め逆さのⅣを示していた。もう四時である。

『帰らなくちゃ……』

 抜け出してきたことがバレないうちに。健太は寄宿舎に向かって、全力で走り出した。





 弓子の過去を知り、遠い記憶が呼び起された。

 日本の小学校に編入する前の一時期、健太はイギリスで寄宿学校ボーディングスクールに入っていた。ほとんど体験入学というか短期留学のような扱いで、本当に一時的で、おそらく日本に戻った際の箔付というか、つじつま合わせのためだったのでは、と思う。

 日本で私立の小学校の帰国子女クラスに転入した時の触れ込みは「生まれた時からイギリスで育ち」であったから。インドにいたとしても、それは時折旅行で一時滞在した程度だと説明するように養父母から言明されていたので。小学生に無理な話である。おかげで健太は小学校時代、極端に無口な子供として過ごさなければならなかった。


 イギリスにいた時も、英語は話せたので会話は問題なかったが、読み書きスペルが分からなかったので、テキストを読んだり筆記テストには苦労した。寄宿舎なのである程度行動も制限されていて、インドで自由に過ごしてきた健太にとっては、とても窮屈な生活だった。


 裸足で過ごすことが多かった健太にとっては靴を履く生活も苦痛だったが、それでも季節が夏から秋に変わるころには何とかなじんだ……というか、冬に近づくと寒くて素足ではいられなかった、というのも本当である。

 とはいえ、窮屈なことには変わりない。息抜きのために、たまに学友や寮監の目を盗んで抜け出し、近くの公園で景色を眺めていた。見える景色は大して変わらなかったが、周囲の目から逃れている、と思うだけでホッとしていた。


 そんな密かな楽しみの時間の一コマに、あの女の人がいた。


 ほんの数分の、短い出会い。記憶の片隅に追いやられて、きっかけがなければ思い出しもしなかった、あの時出会った、あの女の人。


 ……あの人は、弓子だったのだろうか?


 顔も声も、はっきり覚えているわけではない。日本的な顔立ちだった、という以外、特徴も覚えていない。初めて弓子に出会った時にも思い出さなかったくらい、おぼろげな記憶の風景。  

 ほとんど会話だけ、と言ってもよいくらい、端的な記憶。


 あの女性が弓子だったとしても、彼女の方も覚えていないかもしれない。でも、聞いてみれば、思い出すかもしれない。


 なぜ、泣いていたのか。そしてそれは、真矢に関わることなのか。

 それを知りたい。


「あ……」

 健太は、走りながら、弓子が今日徹夜明けなのを思い出した。

「……こんな日に訪ねて行ったら、さすがに怒られるよな」

 足を止め、周りを見渡す。


「結構来ちゃったな。もう和矢たちの学校のそばじゃないか」

 無我夢中で走り続け、かなりの距離を進んでいた。健太の暮らすマンスリーマンションから徒歩圏内とはいえ、早歩きで十五分以上かかる距離だ。こんなに夢中で走ったのは、高校の体育祭以来かもしれない。

「和矢に電話してみるか……って、スマホ、部屋に置きっぱなしだ」

 我ながら、迂闊すぎて泣けそうになる。


 そもそも、当の和矢すら、真矢の死については記憶がない、と答えたきりで、できれば弓子の前でその話題は出さないでほしい、と懇願された。

 弓子が真矢の死を知ったのは、つい最近、和矢たちを引き取ることになった時なので、平気そうに見えてまだショックが大きいから、と。

 そう言われてしまえば、健太は黙するしかなかった。だから、和矢と旧知の間柄であったことも、まだ弓子には話していないし、実は美矢にも知らせていない。


 勢いのまま飛び出してきてしまったが、よく考えたらストレートに弓子に問うことは避けた方がよいのかもしれない。そう思いいたって、聞きたくて仕方がない気持ちを、何とか胸の奥に押し込める。


 仕方がない。せっかくなので和矢の学校でも見に行こう、そういえば校門のそばの遊歩道、コスモスが見事だって言っていた、まだ咲いてるかな。そう気持ちを切り替えて、見当をつけて歩き出す。

 地図や土地勘がなくても、何となく目的地につくことができるのは、健太のひそかな特技だったりする。多少迷って、遠回りすることもあるが、まあ、それも楽しみのうちだと開き直っている。太陽の位置で方角も見当がつくが、あいにく今日は曇り空ではっきりとは見えない。まあ、二、三度通りかかったこともある場所なので、きっと大丈夫。


 生来の楽天的思考で気を取り直して、健太は散歩を楽しむことにした。

 まだ和矢たちは学校が終わっていないかもしれない。和矢に会えたら、もう一度話してみよう。再会した時よりも、ずいぶん思い出したことも多いし、本当は、真矢の死後、和たちがどのように生活してきたのか、知りたい。

 おばあや町の人は「連れ去られた」という言い方をしていたけれど、きちんと弓子のもとに引き取られているということは、事実は違うのかもしれないし。


 つらつらとそんなことを考えながら歩いていくと、コスモスの群れが見えてきた。

「……しまった、カメラも持ってきていないじゃないか」

 カメラマン失格だ。思わず手のひらで目を覆い、天を仰ぐ。


「ま、いいか。今回は縁がなかったということで」

 良い被写体に出会えるには、積極性も大事だが、巡り合わせの運もある、と健太は考えている。何気ない瞬間に極上の風景に出会うことも多い。それは、意図して狙って取った時よりも、格段上の素材であることもままある。まさに縁、運命の出会いである。

 もちろんその運をつかむためには、カメラを手放してはいけないのだが。

 カメラを持たない今、もし極上のシャッターチャンスに出会ったとしたら、それは縁がなかったと諦めるしかない。そう自分を慰めて、遊歩道を歩き続ける。

 

 まだ咲き残っていたコスモスが風にあおられると、湿り気を帯びた土のにおいが鼻孔をくすぐる。


 ……天気が崩れそうだな。風の中に雨の気配を感じ、そういえば、洗濯物も干しっぱなしだったな、と思い出して、回れ右して帰ろうかと、足を止める。

 

 ふと、風の中に不穏な空気を感じた。その気配に誘われるまま、健太は再び歩き出した。

 行く当てもわからずどんどん早足になり、気が急いてくる。

 何かに追われるように、切羽詰まった感情に支配される。まるで、数か月前、急に日本に帰国しなければ、という焦燥感に囚われた時のように。


 あの時よりも、もっと切実に。


 

 コスモスの群生が途切れ、車道に出る。


「ぅあ……な、に……ぅお……ぁあ!」


 突然、耳に届く、うめき声。迷うことなく方向転換し、足を進める。

 道端で、四つん這いになった少年とその肩に手を置く男性の姿が目に入った。 


「あの、大丈夫ですか?」

 健太が思わず声をかけると、少年は顔を上げた。苦痛にゆがむその口元からは、ゼイゼイと粗い息遣いだけが漏れる。


「……君? 大丈夫か?!」

 思わず手を差し伸べると、少年は焦点の合わない視線を、かろうじて健太に向けてくる。

 と。


「……逃げ……ろ……」


 粗い息の下で、絞り出すような声が届く。


「逃げ……ろ……ムル……ン……」


 半分閉じかけていた少年の瞼が開き、視線が交わった。その目は、青く揺らめいていた。


 そして。


「今、なんて?」


 ムルガン、とそう、聴き取れた。

 逃げろ、ムルガン、と。




『いつか、本当にムルが守るべき人が、本当に苦しくて困っていたら、また守ってあげてほしい』

『約束だよ』



 耳もとで真矢の声がこだまし、健太は……ムルガンは少年に向かってさらに手を伸ばす。少年の目と同じく、自分の手が、指先が、青い靄に包まれていくのが目に入る。



 その刹那。




 二人の姿は、その場から消え失せた。








 気が付けば二人は青白い靄に包まれ、『シバ』の目の前から消え失せていた。 


「まさか、あいつは……? 生きていたのか」


 先ほどまでの皮肉めいた笑みは消え、驚愕に取って代わられていた。


「いや、死んだはずだ、シンヤと一緒に……」

 

 脂汗が額を走り、『シバ』は思わず髪をかき上げる。

 露わになった右の額には、引き攣れたような痛ましい傷痕があった。


 その傷痕を、『シバ』は爪を立てて掻きむしる。指先が血だらけになっても、狂ったように掻き続けた。

 ぽたぽたと血の雫が頬を伝い、風にさらされる。その冷たさに、ハッと我に返って、『シバ』は手を止めた。



「……生きていたんだ……イェット」


 別人のように穏やかな声音で、『シバ』はつぶやいた。



 顔を半分、朱に染めながら、不思議なほど穏やかなまなざしで。

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