三 若葉

 とは、言うものの。

 そう決めた泉ではあったが。

 泉のできることなど、限られている。

 大姫の方は、泉が戻った後から順調に回復していった。

 それでも昼間はよく寝ているし、相変わらず食も細い。

 とりあえず、泉ができることは、大姫が朝起きた時木戸を開けることと、食が細い大姫に何が食べたいのか聞くことと、三幡と千幡が、大姫の部屋に頻繁に来るように策を練ることぐらいだ。

 本来ならば、大姫の部屋の掃除や食事作りもしたいのだが、それでは下女の仕事を奪ってしまうことになる。

 彼女達にとって、「仕事」は命を繋ぐものだから、おいそれとは手出しがしにくいし、よけいなことをして、反感を買ったら、それこそ大姫によけいな心労を与えてしまう。

 どうしたもんだろうと思いながら、泉は大姫の部屋へと続く控えの間で、縫い物をしていた。

 縫い物は、里にいた頃からしていたから、特に困ることはない。

 ただ、大姫や三幡、千幡の服を繕うのだが、衣装はとても上質な物だった。

 正直、泉は見たことも触ったこともないものばかりだから、縫う時には緊張してしまう。

「泉殿」

 と、その時だった。

 縁側の方から声をかけられた。

 「はい」と返事をして、泉は縫っていた物を置くと、部屋の外へと出る。

 すると庭の方に、頼時が立っていた。

「お仕事中申し訳ないのですが、私と共に来てもらえないでしょうか?」

 軽く泉に礼をすると、頼時はそう言った。

「どちらにですか?」

「政子様がお呼びです」

 そうして、泉の問いかけに曖昧に答える。

「確か本日は、大姫様は政子様に呼ばれてお部屋に伺っているはずですが……」

「ええ。その政子様がお呼びなのです」

 頼時は、生真面目な顔をして泉に言った。

「わかりました」

 だが泉はさして気にせずに、頼時の言葉に頷いた。

 大姫は、政子の部屋に固い表情をして出かけていた。

 実の母親に会うのに、である。

 そのことがとても気になっていたので、大姫の元に行くことができるのならば、この申し出はありがたかった。

―父上や母上は姉上に何とか元気になってもらおうとして、あれやこれやと世話を焼こうとする。まあ……償いのおつもりなんだろうが、毎日生きることですら必死な姉上には、傷口に思いっきり塩を塗られているような感じがするんだろう。

 泉は、頼家がそう言っていたことを思い出す。

 そうであるならば、大姫にとっては、母親の部屋に行くことは、苦痛以外の何物でもないのだ。

 政子達には、大姫を傷つけてしまったという負い目がある。

 けれど、夢と現の間で生きている大姫には、母達が償おうとすればするほど、現実を思い知るのかもしれなかった。

 義高がいない、という現実を。

「近いので、こちらからお願いします」

 そのまま廊下を歩き出そうとした泉を、頼時がそう言って止めた。

「え、でも履物が……」

 頼時の言葉に戸惑っていると、

「持参しております」

 そう言って、草履を庭先に揃えて置く。

「ありがとうございます」

 その手際のよさに呆気になりながらも、泉は礼を言って、庭先に下りた。

 大姫の部屋の前にある庭を出て、前を歩く頼時に着いて行く。

 すると、見覚えのある庭へと出る。

 そのまま、政子の部屋へと近づいていた時だった。

「失礼します!」

 大姫のきつめの声が聞こえた。

 はっとなって声がした方を見ると、大姫が政子の部屋を出て行くのが見えた。

「急ぎましょう」

 頼時は、急ぎ足で政子の部屋へと近付いて行く。

 泉も、とりあえずその後に従った。

「政子様。頼時です」

 そうして、政子の部屋の近くまで行くと、頼時は片膝を地面に付き、そう声をかけた。

 泉はそれに倣い、後ろの方で両膝を付いて、頭を下げた。

「ごめんなさいね、頼時。せっかく泉を呼んで来てもらったのに、あの子は部屋に帰ってしまったの」

 二人が庭先にいるのに気付いた政子が、縁の所まで来て、そう声をかける気配がした。

「そうですか。それでは、泉殿にはまた大姫様の部屋に戻ってもらいます」

 泉は黙って頼時が言うことを聞いていたのだが、「まあ、待て」と、ふいに、落ち着いた声がそれを遮った。

「政子、その子か?」

「はい。木曽から預かっている子です」

「そうか。大姫が世話になっておるな。おもてを上げるがよい」

 言われて、泉は顔を上げた。

「なるほど。面差しがあるな」

 その人物は、縁まで来て泉の方を見ていた。

「海野小太郎が娘、泉でございます」

 泉は、政子や阿古夜にした挨拶を、その人物にもした。

「……そうか」

 そんな泉に対して、その人はこくんと頷いた。

 一瞬。

 その人の目は、違うものを見ていたような気がした。だが、それも一瞬のこと。

「幼いながら、とても頼りになると聞いている。体をいといながら、仕事に励むように」

「ありがとうございます」

 そう言われて、泉は頭を下げた。

「戻りましょう、泉殿」

 それを待っていたかのように、頼時がそう声をかけてきた。

「手間を取らせたな、頼時。申し訳ない」

 その人は、ぺこりと頭を下げた。

「大丈夫です、御所様。では、失礼します」

 頼時は立ち上がると、その人に頭を下げ、歩き出した。

 泉も立ち上がると、ぺこりと頭を下げて、頼時の後を追う。

「あの方が、頼朝様です」

 そうすると、ふいに頼時がそう言った。

「あの方を見て、どう思われましたか?」

 そうして、そんなことを聞いて来た。

「良いのでしょうか?」

 泉がおずおずと言うと、

「構いません。聞いているのは私だけです」

 そう、頼時は言った。

「お寂しそうな顔をされていました」

「あなたにはそのように見えたのですか?」

「はい」

 頼時の言葉に、泉はこくんと頷いた。

「御所様は征夷大将軍せいいたいしょうぐんになられた方。常人じょうじんの我々とは、相容れぬこともあるのでしょう」

「せいいたいしょうぐん?」

「武士の頂点に立たれている方です。あの方のおかげで、我々武士は、都の貴族の支配から逃れることができました。なれど、頂点に立つ方は、常に孤独でなければなりません」

「それは、お寂しいってことですよね?」

「それに耐えられる方だからこそ、征夷大将軍となられることができたのです」

 頼時は、当然のことのように泉に言った。

「はあ……」

 だが泉は、頷くしかなかった。別に「せいいたいしょうぐん」と言うものに興味はないし、父にずっと「寂しい」という気持ちを持ったまま、生きていって欲しいとは思わない。

「だから、大姫様のあの態度はないのです」

 けれど。この言葉には、引っ掛かった。

「大姫様は、御所様の一の姫です。本来一の姫の方は、父である御所様を手助けし、一族を支える役目を担う立場にあります。それなのに、あの方はいつまでも自分の殻に閉じこもっていらっしゃる」

 頼時とてそこまで言うつもりはなかったのだろう。

 ただ泉を相手に、日ごろは口に出さない言葉を、言ってしまったのだ

「それが、ご本人でもどうしようもなかったら、どうなのですか?」

 でも、泉には聞き捨てならないことだった。

「大姫様にとっては、それはとても大きな傷で、生きていくのがやっとなのです」

 頼時は、驚いたように泉を見た。

「それを責めるのは、違うと思います」

 大姫は、望んでああなってしまったのではないのだ。ただ、「婚約者」として与えられた男の子よしたかを素直に受け入れて慕っていたのに、「大人の事情」で、奪われて、そのことが、大姫には大きな傷となってしまったのだ。

「頼時様は、心の底から大切な方を亡くしたことがあるのですか?」

 泉はじっと頼時を見た。

 頼時は、気まずそうに視線逸らす。

「ご自身の考えだけで、人を責めるのは違うような気がします」

 それは、常に泉が父から言われている言葉でもあった。

『一人の考えが全てだと思うな。そして、一つの考えが全てだとも思うな』

 人智の及ばぬ「力」を持つ泉に、父はそう言い続けた。

 そう。

 泉がまだ、幼い頃から。

 泉が、その「力」を浅はかに使ってしまわぬように、と。

「……戻りましょう」

 視線を逸らして前を向いた頼時は、そうポツリと呟いた。

 気まずいものを、彼も感じたのかもしれない。

 泉も、それ以上は何も言わなかった。

 一御家人の娘である自分が、御台所の甥である頼時に意見して良いとは、さすがに思わなかった。

 だけど。

 大姫が苦しんでいることを、「自分の殻に閉じこもっている」と言うのは、あんまりだと思った。

 大姫だって、好きでそうなったのではないはずだ。

 それからは、ずっと頼時は黙ったままで、泉も何もしゃべらなかった。

 頼時にしてみれば、これは自己嫌悪に陥っていたのだ。

 自分は、やがては御所を、いや鎌倉幕府を支えていく人間だと思っていた頼時にとって、泉の『ご自身の考えだけで、人を責めるのは違うような気がします』という言葉は衝撃だった。

 「自分達が常に正しい」という考えを、その生まれ持った立場から、知らず知らずのうちに持っていた頼時にとって、泉の言葉は、誰からも聞いたことがなかった。

 しかもそれを言ったのが、自分よりも小さい少女だったのだ。

 ただの、敗者側の一御家人での娘で、侍女として働いているごく平凡な少女。

 目から鱗と言うよりも、晴天の霹靂ぐらいの衝撃だった。

 結局二人は黙ったまま、大姫の部屋の庭に戻って来てしまった。

「それでは、私はこれで」

 ぺこりと頼時は頭を下げて、さっさと行ってしまった。

 泉は履物を返そうとしたが、そんな暇もなかった。

 縁側に腰掛けて、履物を脱ぐ。

 それを見て、泉は軽くため息を吐いた。

 頼時に言ったことは、まちがっていないと思う。

 けれど、そのことを頼時がわかるかは、また別問題だったかもしれない。

 頼時は自分とは違う立場にいる人間なのだ。

 泉とは、考え方や感じ方は違うのは当然だ。

 でもやっぱり、泉は「自分の殻に閉じこもっている」という言葉は、違うと思った。 

 縁側から大姫部屋と続いている控えの間に入る。

「大姫様?」

 そうして、大姫の部屋の入り口から声をかけるが、返事はなかった。

 部屋の中に入って、大姫の姿を探したが、どこにもいなかった。

 どこに行かれたのだろうと思い、先日、頼家が言っていた言葉を思い出す。

―御所にある俺の部屋に来られる。そうして、そこで眠ってしまわれるんだ。

 おそらく、大姫は頼家の部屋にいるのだろう。

 そこで、体と心を休めてまたこの部屋に戻ってくるつもりなのだ。

 ならば、と泉は大姫の部屋へと続く控えの間へと戻った。

 自分にできることは、大姫を待つことだ。

 大姫が現で生きていく力を取り戻すためにしばしの休息が必要ならば、それを守ることが今の泉にできることだった。

 幸いにして、泉が大姫の傍に控えている間は、他の侍女達も大姫の部屋には訪れない。

 もちろん、大姫の身支度が必要な時は泉だけではなくて他の侍女達も手伝ってくれるし、必要があったら阿古夜の指示なのだろう、どこからともなく、数人の侍女達が現れる。

 だけど、今は泉一人だ。

 だから。

 泉は部屋の端に置いたままにした、縫い物を手に取って、大姫が戻って来るのを待つことにした。

 と、その時だった。

「泉?」

 ふいに、頼家の声がしたと思ったら、頼家本人が控えの間に現れた。

「あれ、頼家様」

 針と着物を持ち直して、さて始めようかとしていた泉は、立っている頼家を見上げる。

「どうされたのですか?」

「……何だ」

 そんな泉の態度に拍子抜けしたように、頼家は泉の近くに座った。

「姉上が不在だと、気付かなかったのか?」

「いえ、気付いておりましたが、頼家様のお部屋にいらっしゃるのでしょう?」

 泉の言葉に、頼家は力が抜けたような顔になった。

 そうして、少し拗ねたように言った。

「騒ぎになると思って、急いで来たんだぞ」

「前に、おっしゃっていたじゃないですか」

 泉が小御所に戻って来た日に、頼家は大姫が自分の部屋にちょくちょく来ていることを、言っていたのだ。

「まあ、そうだけどさ。やっぱり、心配すると思ったんだぞ、俺は」

「頼家様に教えていただいていなかったら、阿古夜様にお知らせしていたと思います」

 それでもやっぱり拗ねた表情をしている頼家に、泉はそう付け加えた。

「そうか?」

「はい。大姫様のお傍にいるのは私だけですから、そのことは内密にできます」

 実際、「大姫付き」とされている侍女には他にもいるが、控えの間にいつもいるのは、泉だけである。

 泉が黙っていれば、大姫が頼家の部屋にいることは、誰にも知られない。

「侍女達、お前に姉上の世話を押し付けているんだな」

「違いますよ。私がまだ子どもで、出来ることが少ないから、私でもできる仕事をさせてくれているんです」

 泉はそう言うと、手にもった小袖を頼家に見せた。

「そうなのか?」

「そうです」

 そうして、頼家の言葉に、こくんと頷く。

「お前が納得しているのなら、いいけどさ」

 それに対して、頼家はぽりぽりと頭を掻きながら、そう呟いた。

「でも、お前だけが姉上の侍女として傍に控えているのなら、確かに楽だな。よけいな気を使わなくてすむ」

「そうですか?」

「うん。お前がいてくれたら、百人力だ」

 そう言って、頼家は笑った。

 その時。

 泉は、気付いてしまったのだ。

 頼家が、ずっと一人でそのことを守って来たことに。

 「頼家の部屋」という大姫にとって、この現を生きるために必要不可欠な避難場所を、頼家は誰にも知られないように守ってきた。

 周りの者達には姉弟仲は悪いように思わせて、実の両親ですら、欺いて。

 それは全て大姫のためだった。

「そうですね。これからは、私もお手伝いさせていただきます」

 泉も笑って頷いた。自分のできそうなことが、一つ見つかったような気がした。

          ★

 そうして。

 季節は、春から夏へと移り過ぎる。

 泉は、その間自分のできることをやって過ごした。

 毎日大姫の部屋に続く控えの間に行って、大姫が起きるのを待つ。

 大姫が起きたら、部屋に入って木戸を開ける。

 それからは大姫のお世話をして、大姫の部屋に来る三幡や千幡の相手をして、時々いなくなる大姫に、「頼家の部屋にいるんだな」と思い、さも大姫がいるように振舞ってみせた。

 だいたい頼家がすぐに大姫の部屋に来て、自分の部屋に大姫がいることを教えてくれるから、心配することもなかった。

 今日も泉は控えの間で、大姫が起きるのを待っている。

 泉が鎌倉の小御所に来てまだ半年も経っていないのに、今や大姫のことは、泉に任されていた。

 もちろん、阿古夜の指示の基ではあるのだが。

 だがそのおかげで、大姫が頼家の部屋に行っていることを知っているのは泉以外では頼家しかいない。

 実は昨日も、大姫は頼家の部屋に行っていた。

 いつもだったら夕刻前には自分の部屋に戻って来る大姫が、いつまでも戻って来ないので、さすがに泉は阿古夜に知らせた方が良いのか、と思っていた。

 しかし夕闇が暗闇に変わる直前に、頼家がこっそりと大姫を背負って部屋に連れて来てくれた。

 なかなか起きず、とうとう背負って送ることにしたらしい。

『さすがに、俺の部屋にそのままにしといたらまずいからな』

 泉は縫い物の手を動かしながら、昨日頼家が言っていた言葉を思い出した。

『ただ、最近の姉上は今まで以上に眠っている時間が長くなられたような気がする』

 そう言う頼家の表情は、暗いものだった。

 確かにここしばらくの大姫は、眠っている時間が増えたような気がする。

 そんなことを考えながら針を動かしていると、大姫の部屋の方から布ずれの音が聞こえた。

「お目覚めですか? 姫様」

 泉は縫い物を床の上に置くと、立ち上がり、大姫の部屋に入った。

 眠っている大姫の目覚めの助けになれば、と少し前に木戸を開け放った大姫の部屋は、明るい光で満ちている。

「……泉」

 大姫は泉の名前を呟くと、ゆっくりと起き上がった。そうして、

「泉、今何刻?」

と、泉に尋ねて来た。

「あと一刻(だいたい二時間)でお昼です」

「もう、そんな時間なの?」

 泉が開けた戸から差し込む光は明るく、昨日の夕刻からこんな時間帯まで眠っていたとは、さすがに自分で自分が情けなくなるのか、大姫は少し情けなさそうな顔になった。

「起こしてくれれば良かったのに」

「昨日、姫様をお連れになった頼家様が、『姉上はお疲れのようだ』と言ってらっしゃったので。それに、体が休みたがっている時は、休まれたらいいのですよ。その分、明日早く起きられたらいいじゃないですか」

 だから泉は、ふわっとした笑顔を浮かべるとそう言った。

「泉、私手水使うから、用意してくれる?」

 でも、大姫は泉から視線を逸らすと、そう言った。

「はい、朝餉の用意も頼んできます」

  泉はその大姫の不自然な仕草が少し気になったが、すぐに気を取り直した。

 とにもかくにも、朝餉の用意である。

 大姫は、あまり食が進まない。ならば食べ易い、水飯が良いだろう。

 水飯は、冷たい水をご飯にかけて食べる。

 そこに茗荷みょうがねぎを刻んだものを載せてくれるように下女に頼んでみよう、と泉はそんなことを考えながら、台所へと歩いて行った。

             ★

「姉様、起きていらっしゃいます!?」

「おきていらっしゃいます!?」

 大姫が手水で顔を洗い、身支度をすませて朝げをとっていると、三幡と千幡が部屋の中に入って来た。

「三幡、千幡」

 器に盛られたおかずに、二、三度箸をつけたものの、あまり食が進まず、水飯も半分以上残っているがそれ以上食べられず、大姫は、妹と弟の訪問をきっかけに箸を置いた。

「もういいんですか? 姫様」

 傍に控えていた泉は、少しだけ顔をしかめて言った。

「ごめんね。夕餉は余分に食べるから」

 いつもの大姫なら、もう少し食べているのだが、暑さのせいか、食欲がわかないらしい。

 まして三幡と千幡が来た以上、ゆっくりと食事をすることはできそうになかった。

「ねえさま、あのね」

 案の定、箸を置いた大姫の膝に、千幡が飛びついてきた。

「あ、ずるい千幡」

 遅れを取るまいと、三幡も続いて大姫の膝に飛びついてきて、膝取り合戦が始まった。

 その様子を見て、泉は笑いながら立ち上がった。

 そうして大姫に頭を下げると、部屋を出た。

 縁に出てから、膳の上に残っている物を見て、ため息を吐いた。

 大姫は、昨日はご飯を食べずに寝て、今日は遅くに起きたのに、ほとんど食べていない。

 残った物は下女達が食するらしいが、それにしても残しすぎた、と泉は思った。

 大姫の残した物を下女達が食べるということにも驚いたが、これはまた、台所の下女達は内心ほくそ笑むかもしれない。

 でも、それが彼女達の働いている報酬の一つであるならば、泉が口を出すことではない。

「おや、泉様」

 台所の方に行くと、この数ヶ月で馴染みになった年嵩の下女が、泉に声をかけてきた。

「また、食が進まないのかい、大姫様は」

「すいません、無理を言って手を加えてくださったのに」

「いいんですよ。泉様が考えるお食事は、美味しいから、皆大姫様の残り物を楽しみにしていますし」

 気の良い彼女は、笑いながらそう言う。

「ありがとうございます」

 泉はぺこりと頭を下げたが、うーむと考え込んでしまった。

 食事を作っているのは彼女達だから、喜んでもらえるのはうれしい。

 だけど、彼女達を喜ばせるために色々と考えているわけではないのだ。

「それでね、泉様。私ら考えたんですけど、今度はひしおを使ったらどうでしょうか?」

 醤とは、この当時の調味料である、現代で言うならば醤油に近いものだ。

 米や麦、豆などを発酵させてから塩を含ませたものである。

「少し濃い目に味を付けたら、食が進むかもしれないよ?」

 やはり、いつも食事を作っている彼女達の視点は、泉にないものだった。

「よろしくお願いします」

 泉は笑顔を浮かべて、彼女に頭を下げた。

『一人の考えが全てだと思うな。そして、一つの考えが全てだとも思うな』

 こういう時、父の言葉を実感するのだ。

 泉にとって、「主人の残り物を食する」ということは、あまり信じられることではなかった。

 木曽では、下人達の分もちゃんと作っていたし、同じ物を食べていた。

 皆で分け合っていたから、大姫のように「残す」ということも、考えられなかった。

 だけど。

 ここは、鎌倉である。

 そうして、泉が今いるのは、鎌倉御所の中にある、小御所なのだ。

 だから泉は、できるだけ下女の言葉でも聞くようにしていた。

 もう一度下女にぺこりと頭を下げると、泉は大姫の部屋へと戻ろうと、歩き出した。

 と、その時である。

「泉殿」

 泉は、呼び止められた。振り返ると、頼時が立っていた。

「頼時様」

「私とあなたの立場は同じなのですから、『様』とは付けないでください」

 が、開口一番、頼時はそう言った。

「え……」

 泉は、思わず固まってしまう。

「政子様が大姫様のお部屋に行かれましたので、小さい方々の面倒を、とのことです」

「あ、はい」

 それでは、と言って泉に頭を下げると、頼時は泉に背を向けて行ってしまった。

 泉はその後ろ姿を見送っていたが言われたことを思い出して、すぐさま政子の部屋に向かった。

「あ、泉」

 泉が政子の部屋に付くと、早速三幡が近寄ってくる。

「三幡様」

「姉様に会いに行ったのに、母様ったら酷いのよ!『大切なお話がありますから、母様が戻るまで待っていらっしゃい』ですって!!」

「じゃあ、それまで何をしましょうか?」

 母への不満を訴えかけて来る三幡に、泉はそう言った。

「えっ? 泉遊べるの?」

「はい。政子様が戻って来るまでは、お相手いたします」

「それではよろしくお願いします、泉殿」

 三幡の言葉に頷く泉に、二人に付き添っていた侍女が頭を下げて、部屋を出て行く。

「……何かされましたね?」

 それを見送って、横目で三幡を見つつ、泉は問うた。

「えーと……」

「あのね、三幡ねえさまはね、泉といっしょにあそぷときは、出て行ってくれなきゃ、言うこときかないって、はるのに言ったの」

「あ、千幡!」

「三幡様……?」

 慌てて口止めしようとする三幡に対して、泉はじろっと視線を向けた。

「でどろ《わがまま》をかく《言う》のはやめり止めなさいと言いましたよね?」

 この時。

 三幡は、確かに泉の後ろに吹く冷たい風を見た、と後で姉の大姫に報告をした。

 三幡と千幡は、満面の笑みが時として怖いということを、この時初めて知ったのだった。

          ★

「お前、何かしたのか?」

 その日、夕闇が完全に闇に変わる前に大姫の部屋に来た頼家は、大姫の部屋に続く控えの間で縫物をしていた泉に、そう聞いて来た。

「何がですか?」

「いや……チビ共が、侍女に謝っていたみたいでさ。俺は、あいつらが侍女に謝っているのを、初めて聞いたぞ」

「そうなんですか?」

「あいつらに、何をしたんだ?」

「何かわがままを侍女の方におっしゃったみたいなので、きちんと謝らなければ、次は一緒に遊べませんよ、とお伝えしただけです」

 泉がそう言うと、「ああ、なるほど」と、頼家は納得したように頷いた。

「それで、あんなに必死に謝っていたのか」

 そして、くくっと楽しそうに笑う。

「あのチビ共がねえ……」

「頼家様……」

 笑い続ける頼家に、バツが悪い泉は顔をしかめた。

 と、その時だった。

「頼家?」

 大姫の部屋の方から、大姫の声が聞こえた。

「姉上、起きていたのか」

 頼家はそう声をかけて、ずんずんと大姫の部屋へと歩いて行く。

 「今日は俺の部屋に来なかったのに」

「さすがに、連続では行かないわよ。ちょうど良かった。聞きたいことがあったのよ」

 大姫の部屋からは、姉弟が仲良く話す言葉が聞こえてくる。

「あ、泉。もう、今日は下がっていいわよ」

 その言葉を聞きながら大姫の衣をしまっていると、部屋の方から大姫が声をかけてきた。

「あ、はい」

 大姫の言葉にそう頷いたが、いつも下がる時刻よりは、少し早めだ。

「何かあったら、俺が知らせるから」

「わかりました」

 頼家の声も聞こえて来て、そう言われたら、泉は頷くしかない。

 べこりと座ったままおじぎをすると、立ち上がって、控えの間から出た。

 そうして、できるだけ静かに歩いて自分の部屋がある棟へと向かった。

 主人に命じられて下がったが、何かしらの用事はあるかもしれないので、阿古夜に聞こうと思ったのだ。

「それ、本当?」

 と、その時だった。

 大姫の部屋から少し離れた縁で、侍女達が数人固まって話しているのが見えた。

「あ、泉」

 その内の一人が、泉が通りかかるのに気付いて、声をかける。

「はい」

「お前、大姫様がご結婚なさるっていうお話お聞きした?」

「いいえ」

 それは、泉も初耳だった。

「駄目よ。泉には、まだ早いわ」

 そんな泉の様子を見て、他の侍女達が笑う。

 侍女達は、泉を小さい子ども扱いする。

 別に泉は、それは気にならない。

 本当のことだと思うからだ。

 と、その時だった。

「何をしているのですか?」

 ピンっと空気が張り詰めるような声がした。

「あ、阿古夜様……」

「仕事は終わったのですか? 噂話をしている暇があるならば、各々ご自分の仕事を終わらせてからにしなさい」

 阿古夜の言葉に、侍女達は体を強張らせて頭を下げるとそれぞれの場所に散って行った。

「泉、お前はどうしたのですか?」

「大姫様は、今夜はもう下がって良いと言われましたので。何かお手伝いすることはないかと、阿古夜様に聞きに行くところでした」

「そうですか……ならば、ちょうど良いです。お前に聞きたいこともありますから、一緒に夕餉をもらいましょう」

「あ、はい」

 阿古夜の言葉に、泉はこくんと頷き、阿古夜の後を着いて行った。

 阿古夜とは、今でも部屋が一緒である。

  だから、食事は共にしているが、それでも夕餉の時は阿古夜も忙しいのか、泉が一人で食べることも多い。

 阿古夜と共に台所に行って、自分達の分の食事を整えてもらうと、泉は阿古夜と共に部屋に戻った。

 それから自分の分の食事が乗った台を床に置くと、部屋の隅に置かれた水の入った器の前に行き、手を清める。

「それでは、いただきますか」

 それから、食事を置いた台の前に座ると、阿古夜の言葉に頷いて、食事を始めた。

「お前は大姫様から何か聞いていますか?」

 すると、おもむろに阿古夜がそんなことを尋ねて来た。

「何をですか?」

「ご自身の、ご縁談のことです」

「大姫様のご縁談?」

 その言葉に、泉は目を丸くする。

「お前は、何も聞いていないのですね」

「ご結婚のお話があるのですか?」

「ええ。お相手についてはまだ言えませんが、申し分のない方です」

「そうなんですか……」

 微笑みながら言う阿古夜の言葉に、泉は頷くことしかできない。

 里にいた頃は、「結婚」というものは、とてもおめでたいことだった。

 父に挨拶に来る、結婚した二人はとても幸せそうだった。

 だけど、その「結婚」の話を聞いて、大姫が喜ぶとはとても思えない。

「泉、この話は他言無用です。大姫様からお話を聞いても知らなかったふりをしなさい」

 ただ、自分がそのことを言っても、おそらくは何も変わらないであろうことは、泉もわかっていた。

 だから阿古夜の言葉に頷いて、自分ができることを考えようと思った。

         ★

 それから数日の間は、何もなかった。

 泉はいつも通り、ぱたぱたと働いた。

 ただ、阿古夜は忙しいのか、最近は夜遅くにならないと部屋に戻って来ない。

 今日朝餉を共にとっている時に、「お忙しいのですか?」と尋ねてみたら、「近々大切なお客様が来るのですよ」と阿古夜は微笑みながら、教えてくれた。

 どうもそのお客が、大姫の縁談のお相手らしい。

 だがくわしいことは、まだ泉は教えてもらっていない。 

 泉が子どもだということもあるだろうし、もしかしたら、周りの侍女達に質問されて困ることがあってもいけない、との配慮もあるのかもしれない。

 けれど、やっぱり小御所の皆が何となく浮き足立っているのは、そのことを薄々感じとっているせいだろう。

 でも、泉のやる仕事は変わらない。

 だから今日も、大姫の部屋にぱたぱたと小走りで行った。

 朝の光の中を、庭の木々が青々と光を受けて輝いているのが見える。

 それを見て、今日も一日がんばろうと泉は思った。

 そうして、大姫にもそのことを話してみようか、とふと思い付いた。

 大姫は眠ってばかりで、あまり外の景色を見ることはない。

 光を取り入れるばかりじゃなくて、「こんな風景が綺麗でした」ということも、少し話してみれば、元気が出るかもしれない。

 そんなことを考えながら大姫の部屋に行くと、何かいつもと様子が違った。

「大姫様?」

 荒い息使いが、控えの間から続く大姫の部屋から聞こえてくる。

 泉は慌てて大姫の部屋に入った。

 暗い部屋の中で、大姫は寝苦しそうに荒い息をしている。

 泉は大急ぎで木戸を開けると、まず部屋を明るくした。

 それから、ばたばたと大姫の部屋を飛び出し、下女達が確実にいる台所へと向かう。

「どうしました、泉様」

「すいません、お水を分けてもらえませんか!? 大姫様がすごいお熱で」

 すっかり顔なじみになった下女の一人が声をかけてきて、泉はその下女にそう頼んだ。

「大姫様が!? わかりました、すぐに準備をしましょう。阿古夜様にも、私達の方からお伝えします」

「すいませんが、よろしくお願いします」

 下女とは言え、長く勤めているらしい彼女は、すぐさまてきぱきと動き出してくれた。

 泉は水の入った桶を受け取ると、ぱたぱたと小走りで廊下を走った。

「どうしたの? 泉」

 ぱたぱたと走っている泉を見て、侍女達も声をかけて来る。

「大姫様が、すごいお熱で」

「そうなの!?」

「阿古夜様にはお知らせしたの?」

「ハツさんが知らせてくれるそうです」

 そこまで言うと、泉は頭を下げて大姫の部屋へと急いだ。

 泉が父の鎌倉の屋敷に戻っていた時に、大姫は熱を出した。

 それからしばらくは、毎日をほとんど眠って過ごしてはいるものの、熱を出すことはなかった。

 泉は大姫の部屋の前まで行くと、足を止めた。それからそっと部屋の中に入る。

 荒い息をしている大姫は、とても苦しそうだった。

 泉は桶を大姫の枕元近くに置くと、手ぬぐいを水に浸して軽く絞り、大姫の額に置く。

「……義高様……」

 と、その時だった。

 ぽつりと、小さく息をするように、大姫がその名を呼んだ。

 それからすぐに、荒い息をして、寝返りを打った。

 泉は、大姫の額から落ちた手ぬぐいを拾うと、汗をかいている大姫の額を、丁寧に拭った。

 大姫が義高の名を呼ぶのを聞いたのはこれが初めてだった。

 悲鳴が聞こえたような気がした。

 「返して!」と言う、大姫の心の底からの悲鳴が。

 どうしてだろう。

 そう思った。

 どうして大姫は、こんなにも心の傷をむき出しにしながら、生きようとしているのだろう?

「泉、大姫様の様子はどうですか?」

 ぱたぱたと、廊下の方から阿古夜の声が聞こえる。

 泉はそっと立ち上がりながら、大姫の寝顔を見つめて、そんなことを考えていた。

        ★

 一条高能いちじょうたかよし

 彼は、頼朝の同母妹の子である。

 頼朝とは二つ違いで、明るく屈託のなかった彼女は、都の公家の一条能保よしやすに嫁ぎ、高能を産んだ。

 彼の母は、彼が幼い時に亡くなったが、亡き母とよく似た容貌で、なかなかの美男子らしい。

 地位においても、その若さで右兵衛督うえもんとくである。

 わかりやすく言えば、この時代の、顔良し、地位良し、家柄良しの、若きエリートの一人だった。

「その方が、縁談のお相手なんですか?」

 その日の夕刻。夕闇にまぎれて大姫の部屋を尋ねて来た頼家は、大姫の看病をしていた泉に、大姫の縁談について己が知っている限りのことを、泉に教えてくれた。

「姉上には、そんな話は行っていないが、十中八九、そうだろうな。今は、その相手をもてなすための準備とやらで、御所も小御所もてんわやんわだ」

「そうですか……」

 今は熱も下がって、穏やかな呼吸で眠っている大姫を見つめながら、頷いた。

 大姫は何も知らされていないかもしれないが、聡い彼女のことだ。

 薄々今回の縁談のことを、感じ取っているに違いない。

「俺のせいかもな」

 大姫の額から手ぬぐいを取り、桶の水に浸して絞っている泉を見ながら、ぽつりと頼家が言った。

「頼家様?」

「昨日、姉上が俺の部屋に来て、色々と一条高能殿のことを聞くんだよ。で、さっき言ったことを俺も姉上に教えたんだけど、その後で、言ってしまったんだよな……」

「何をです?」

「『姉上は、それで良いのか』って」

 それは、もしかしたら、頼家が一番言いたかった言葉なのかもしれなかった。

「俺はさ、別にかまわないんだ。姉上が嫁に行かなくて、ずっと鎌倉にいてもさ。姉上の一人ぐらい、俺が面倒見るつもりだ。でも―姉上は、それでいいのかって思ったんだ」

「頼家様……」

「確かに、姉上にとって義高殿のことはつらい思い出だと思う。でも、結婚をして、出産をして、子どもを育てて―そんな当たり前の、でも優しい時間を過ごしていたら、もしかすると―と、思うんだよな」

 それは正しいやり方ではないかもしれないが、心を癒す一つの術ではある。

「こんなことを聞くのは何なんだけど。どうして小太郎達はお前を鎌倉にやったんだ?」

「御台所様に、頼まれたからだそうです」

「憎い、自分の主人を殺した仇なのにか?」

「お父もお母も、そんなことは私に一言も言っていませんでした」

 泉がそう言うと、

「そうか……」

 頼家は頷いて、ため息を吐いた。

「何が……違うんだろうな?」

 そうして、ポツリと呟いた。

「姉上と、小太郎達と」

 それは、この小御所にいる者達ならば、誰もが知りたいことなのかもしれない。

 けれど誰よりもそのことを知りたいと思っているのは、頼家なのだ。

 「姉」をこの世に留めるために、両親ですら欺く彼だからこそ、いつもそう思っていたに違いない。

「私が、いたからだそうです」

 だから。

 頼家の問いに、泉はそう答えた。

「遺された私がいたから、お父もお母も、乗り越えることができたと言っていました」

 それは、鎌倉に来る前に聞いたことだった。

「泉、お前は……」

「私の実の父は、甲田那智こうだなちと申します。義高様と運命を共にした、と聞いております」

 驚いて自分を見つめる頼家に、泉は言った。

「どうして、そのことを知っているんだ?」

「全て、この鎌倉に来る前にお父とお母から聞きました。人伝てに聞くよりは、事実を知っておいた方が良いだろう、と」

「それなのに、お前は鎌倉に来た。なんで、鎌倉に来たんだ?」

「それは、前にもお話したとおりです」

―どうしてお母は、鎌倉を離れたの?

―幸せだったからよ。私はね、泉。憎しみのあまり、あの幸せだった日々まで否定したくなかったの。

 泉の問いかけに、そう穏やかに笑いながら言う母が不思議だった。

―お父もお母も、鎌倉が憎くないの?

 だから。

 泉は、そう尋ねたのだ。

 頼家が、泉に対して思っていることと同じことを、両親に問いかけてみた。

―大事な人達がいるから。

―そうだな。

 だけど、父と母はそう言った。

 だから、泉は鎌倉を見てみたいと思ったのだ。

「……俺は、どうすればいいんだろうな?どうすれば、姉上は救われると思う? 泉」

 泉の言葉を聞いて、頼家は目を伏せた。

「頼家様……」

 頼家の問いかけに、泉は答えることができなかった。

           ★

 幸いなことに、それから三日後、大姫は意識を取り戻した。

「気が付かれましたか?」

 泉が声をかけると、大姫はぐるっと視線を泉の方に向けた。

「泉……私……」

 何故自分がこんな状態で寝ているのかわからないらしく、大姫は額の布を手で取りながら、起き上がろうとした。

「だめですよ、まだ熱は完全に下がっていないんですよ」

 それを、泉があわてて止める。

 しかし、大姫の方は、泉の言葉に大きく目を見開いた。

「熱って泉……」

「覚えていらっしゃらないんですか? 三日前の明け方からすごいお熱で、それからずっと眠っていらっしゃったんですよ」

「―そうなの?」

 ぼんやりとした表情で、大姫は言った。

「変だな……」

 しかも、夢現ゆめうつつの表情でぽつりと呟く。

 その表情を見て、泉はぞくりとしたものを感じた。

「変だな、じゃありませんよ。たとえ覚えていらっしゃらなくても、熱があるのですから、ちゃんと安静にしてください!」

 泉は、思わず大姫を叱り付けるように言う。

「―ごめんなさい」

 だがその無礼差に気付く前に、大姫が首をすくめながら謝った。

 そうしてくすっと笑う。

「姫様?」

 自分の無礼差に気付き、あわてて謝ろうとしていた泉は、怪訝に思って大姫を見た。

「どうかなさいましたか?」

「さっきの泉の言い方、鈴とよく似ていたの。やっぱり、親子なのね」

 その言葉に、泉は何とも言えない気持ちになった。

 だが、すぐに気を取り直し、

「薬を飲んだら、横になってくださいね」

 と言って、大姫が半身を起こすのを手伝い、薄い夏用の羽織を大姫の肩にかけた。 そして、大姫が顔をしかめながら薬湯を飲み始めると、

「水をもらってきますね」

 と着物の裾を翻し、パタパタと小走りで廊下に出て、台所の方へと向かった。

 下女に水が入った器を渡してもらうと、また小走りで大姫の部屋へと戻る。

「大姫様、お水をお持ちしました」

 そう言って部屋に入ると、大姫はじっと手に持った扇子を見ていた。

 それは泉が、大姫が眠っている間、暑くないようにその体を扇ぐために使っていた物だった。

「泉、これで私を扇いでくれたの?」

「あ、えーと……」

 どう答えたものかと考えていたら、

「ありがとう、泉」

 ぺこりと頭を下げて、大姫は泉に礼を言った。

 泉は、大姫の侍女だ。

 侍女である泉が、大姫のためにあれこれとするのは当たり前のことなのに、お礼を言ってくれたのだ。

「いいえ。それよりも、昨日のご看病は、御台所様がされたんですよ。お礼は、御台所様にもおっしゃってください」

 だから。

 泉は首を振って、優しい笑顔を浮かべて、そう言ったのだ。

 本当は、政子は大姫の看病はしていなかった。

 京から来る客人をもてなす準備で忙しい政子には、そんな時間はなかった。

 だけど、その忙しい中、直接自分で大姫の様子を見に来たり、阿古夜に様子を見に行かせたりしていた。

 そこには、娘を案じる心が確かにあった。

 その思いは、わかって欲しいと泉は思った。

「そう。母上が……」

 扇を見つめながら、大姫はそう言った。

 そこには、複雑なものが宿っているようだった。

          ★

「泉殿」

 薬を飲んだ後、大姫はまた眠り込んでしまったようだった。

 額に手を当てると、まだ熱がある。

 たらいに入った水で手ぬぐいを濡らし、絞って大姫の額の上に置いていると、庭の方から声をかけられた。

「頼時様」

 庭先には、久しぶりに見る頼時が立っていた。

 この人は、いつも庭の方から来るんだな、と泉は縁の方に出て、頼時に頭を下げた。

「お仕事中に申し訳ないのですが、政子様がお呼びです」

「大姫様は、今お熱があって……」

「阿古夜殿が采配してくださるそうなので、急いで来て欲しいとのことです」

「わかりました」

 そこまで言われると、泉は頷くしかない。

 一度大姫の部屋に戻り、大姫の額に置いた手ぬぐいをもう一度手に取って、しっかりと水に浸し、絞った。

 それからまたそれを大姫の額の上に置くと、立ち上がる。

「庭からご案内しますので、これをどうぞ」

 再び縁のところに出て来た泉を見て、頼時は履物を庭の土の上に置いた。

「以前お借りした物は、私の部屋にあります。これもお借りして良いのですか?」 

「それは、かまいません。次の時にでも返してくださればけっこうです」

「わかりました」

 頼時の言葉に、泉は頷いた。

「時に、泉殿。私は前にも申したはずですが、『様』と呼ばなくてけっこうです」

 そうして、頼時はそう言葉を付け加えた。

「はあ……」

 言われた泉は、呆気に取られてしまう。

 泉が頼時に「様」を付けるのは、御台所である政子の甥で、自分より身分が上だと思うからだ。

 実際、泉の父は御家人とは言え、下位の立場にいる人間だ。

「確かに大姫様や頼家様は、私たちよりも身分が上のお方です。ですが、あなたは御家人の娘。私も、御家人の息子です。同等の立場の人間に『様』を付けるのは、返って失礼になります」

「はあ……すいません、頼時殿」

 だが、「失礼だ」と言われると、泉は頷くしかなかった。

 しかし、何故にここまで頼時は「殿」に拘るのか。

 それはそれで頼時なりの理由はあるのだが泉に察することはできない。

 聡い彼女ではあるのだが、自分の知らない感情には、なかなか気付くことはできないのだ。

 とにもかくにも、泉は前と同じように、庭を通って政子の部屋へと連れて行かれた。

「あ、泉」

 縁側に腰をかけて、足をぶらぶらしていた三幡が、泉に気付いてぱっと庭に下りてきた。

「……三幡様」

「あっ、ごめんなさい。泉!」

 ごごごごっという泉の後ろの音が聞こえたのか、三幡は急いで縁側の上に戻った。

「泉殿は、いったいどんな稀有な神力をお持ちなのですか」

 そんな三幡の姿を見て、頼時が呟く。

 そんな頼時の呟きに、泉は「えっ?」と 驚いてしまう。

 泉にとっては、それはごく当たり前の光景だった。

 履物を履かないで庭に降りると、足の裏が汚れる。

 その足で部屋の中に入ると、今度は家の中が汚れてしまう。

 三幡は、部屋を汚れても掃除をすることはない。

 それをするのは、下女達の仕事だ。

 でも、だからと言って汚して良いわけではない。

 むしろ、仕事を増やさないように、気をつけなくてはならないのだ。

「そこで驚かれることにも、私は驚きます」

 だが、やはり頼時は遠い目をしてそんなことを呟き、泉は首を傾げるしかなかった。

「泉、早く来て!」

 だが、縁側にいる三幡がじれったそうに泉を呼んで、「泉、来たの?」てってってっと、千幡も部屋から出てくる。

「それでは、よろしくお願いします」

 それを見て、頼時は泉に頭を下げると、また通って来たところへと通って、戻って行く。

「頼時、行った?」

「行ったよ、姉様」

 三幡と千幡は縁側で話をしている。

「三幡様……千幡様?」

 泉がけげんに思いながら二人に近寄ると、

「兄様、もう大丈夫よ」

 三幡の言葉と同時に、部屋の影から頼家が出て来た。

「頼家様!」

 縁側から部屋に入ろうとした泉は、驚きの声を上げてしまう。

「し、静かにしろ、泉。まだ頼時が近くにいるかもしれないだろう」

「あ、すいません」

「いらっしゃっていたんですか」

「まあな」

 泉は縁側から部屋に入って、座って頭をぽりぽりと掻く頼家を見下ろした。

「別にお隠れにならなくてもよろしいのに」

「頼時は、繋がっているからな」

 誰に、と頼家は言わなかった。

「でも、ご自身のお母様のお部屋を訪ねるぐらい、隠すようなことではないでしょう?」

 だけど泉としては、それはやり過ぎのようにも思えた。

 実の親子までが遠慮がちになるのは、やっぱりおかしい。

「いいんだよ。俺は。母上は苦手なんだ」

 けれど、飄々とした表情で、頼家は言った。

「そうなんですか?」

「父上は、いいんだけどなあ。母上はなーんか、いつも小言ばっかり言ってくるからな」

「そうなの? 母様、優しいよ」

「やさしいよ」

「そりゃ、お前らにはな」

 口々に自分に言う弟妹達に、頼家は苦笑いした。

 その表情に、一瞬泉は何か言いようのない寂しさを感じる。

「それよりも泉、姉上のご様子はどうだ?」

 自分の前に座った泉に、頼家はそう尋ねた。

「お熱はまだあられますが、一度目覚めて、お薬を飲まれました」

「そうか……じゃあ夕方に行ってみるかな」

「もしかして、わざわざそれを聞くために、こちらに来られたのですか?」

「いや、お前が来るとは思っていなかったんだが、こいつらが、泉が来るって言うから、ついでに姉上の様子も聞けるかな、と思って待っていたんだ」

「兄様に姉様のお見舞いを届けてもらうの」

「お見舞い?」

「ああ、昨日今日で、京から来た客人のために、三浦まで舟遊びをしに行ったんだよ。その時、こいつらが姉上のお土産にって、貝を探していたから。受け取りに来たんだよ」

「もしかして、京からのお客様がいらっしゃっていたんですか?」

 頼家の言葉に、泉は目を見張った。大姫の看病にかかりっきりで、そのことは、全然気付かなかった。

「何だ泉、お前知らなかったのか」

「はい。阿古夜様はお忙しそうにしていらっしゃいましたけど……」

「まあ、この小御所に客人が滞在するのは、今日からだから、準備を万端にするために、阿古夜に留守を任せたんだろうな。それで、お前の方は姉上の看病があったから、あえて言わなかったんだろう」

 頼家は、肩をすくめながら言った。

「で、こいつらは、今日の歓迎の宴は欠席で、ここに待機ってわけだ」

「待機、ですか……」

「母様から『お部屋に千幡と一緒にいなさい』って言われたから、泉と遊べるならいいよって言ったの。ねえ、泉何して遊ぶ?」

 一方の三幡はあまり気にしていないようで、無邪気な表情で、泉にそう話しかけてきた。

 確かに、日頃の三幡や千幡の態度を考えると、その大切な宴会で、二人が大人しくしているとは思えない。

 と言うか、飽きて大騒ぎすることぐらいは、想像に難くない。

「お前、三浦でそう言って三浦の者達さんざん困らせただろう。泉にも迷惑かけるなよ」

 しかし、この頼家の言葉は聞き捨てならなかった。

「三幡様……千幡様……それは、どういうことですか?」

 再び、背中に炎を灯し始めた泉に、

「兄様、言わないでって、言ったのに!」

「待て、落ち着け、泉! こいつらはその後で、さんざん母上に怒られたから!」

 慌てて、妹の嘆きを聞いた頼家が、泉を止めに入った。

「……そうなのですか?」

 とたんに、泉の背中に燃えかけていた炎は収束する。

 確認のために千幡の方を見ると、彼も必死になってこくこく頭を動かしている。

「そうでしたか……」

 政子からの注意を受けている以上、自分が言うことは何もないと思った泉は、そう言って、頷いた。

「今後は、なさらないでくださいよ?」

 泉が確認するように言うと、涙目になっていた三幡と千幡は、一緒になって、必死に頷いた。

 そんな弟妹達達の姿を見て、頼家は笑っていたが、「そろそろ行くわ」と言って、立ち上がった。

「宴には出られるんですか?」

「めんどくさいが、鎌倉将軍の子ども達が一人も出席しないのも失礼だろ?」

 笑って言われる言葉に、泉は何も言えなくなってしまう。

「じゃあ、泉。チビ共を頼むな」

「兄様、必ず姉様に渡してよ!」

「わかった」

 頷いて、政子の部屋を出て行く頼家を、頭を下げて見送りながら、泉は頼時の言葉を思い出していた。

―あの方のおかげで、我々は、都の貴族の支配から逃れることができました。なれど頂点に立つ方は、常に孤独でなければなりません。

 あの時見た頼朝は、とても寂しそうな顔をしていた。

 頼家も、そうなのだろうか?

 いずれは、「寂しい」という気持ちを抱えた大人になって、「せいいたいしょうぐん」と言うものとして、生きていかなければならないのだろうか?

 そんなものに、頼家はなりたいと思っているのだろうか?

「泉、早く遊ぼう!」

 だけど。

 泉の思考は、そう言って自分の腕を引く、三幡と千幡によって絶たれてしまう。

 はっと我に返った泉は、自分がここに来た理由を思い出した。

「そうですね、遊びましょう」

「お庭に行きたいな、泉。そして、水に色を付けて遊びたい!」

「千幡も、おにわに行きたい!」

 わっと歓声を上げて言われる言葉に、泉はどうしようかな、と考えた。

 だけど、庭で遊ぶことはかまわないと、前に政子に言われていたことを思い出し、

「そうですね。でも、草履をきちんと履いてくださいよ。それから、あまり長い時間は出ませんからね」

 と言って、立ち上がった。

          ★

 一条高能は、鎌倉に滞在し始めてから、毎日のように大姫に会いに来ていた。

 滞在場所が小御所であり、年も近いので、自然時間のある時は、大姫の部屋に足が向くらしい。

 そして京のことや、鎌倉を見て思ったことなどを話して、小半時もしないうちに帰っていく。

「体の弱い姫君に、ご無理をさせるわけにはいきませんから」と、いうことらしい。 

 実際、一条高能という人物は、知れば知るほど、優しく、穏やかな人物であった。

 けれどその一方で、大姫の体調はあまり良くなかった。朝のぜんを前に、さじを持った大姫は、深いため息を吐きそうになっている。

「―姫様」

 それに目ざとく気付いた泉は、じろっと真正面から大姫を見上げた。

「だって、泉……」

「だってじゃありません!」

 大姫に言葉を返す泉の声は、冬の風よりも冷たかった。

「食欲がなくて……」

「そう言って、昨日は丸一日何も食べていらっしゃいませんよね」

「でも、気分は悪くないのよ?」

「そう言って昨日は、高能様が帰られた後、お倒れになったのは、どなたですか?」

 泉の冷たい声の鋭い指摘に、大姫はぐっと詰まった。

 だが、実際にそうなのだ。

 大姫の食欲はここ数日の間に、みるみる落ちてしまっていた。

 小食でも必ず日に二回は食べていた食事も、昨日は全く食べなかった。

 そのせいか昨日は一条高能が帰った後、大姫は寝込んでしまったのだ。

 大姫はすがるような目で泉を見るが、泉は冷たい視線を崩さなかった。

「健康な生活は、食事からです」

 それに押され、大姫はしぶしぶ手に持ったさじで、水飯を口に運び始めた。

「どうしちゃったんだろう、私……」

 だけど、食は進まず、ふいにそんなことを大姫は呟いた。

 そんな大姫は、どこか儚くて、消えそうだった。

「どうもこうもありませんっ。食べないから、体の調子が悪いんです!」

 そんな不安を打ち消したくなって、泉は容赦のない突っ込みを入れた。

「泉~~」

「変なことを考えないで、食べてください」

 泉が冷たい表情のまま言葉を続けると、大姫はあきらめたような表情になって、匙で水飯を救って食べ始めた。

 それから半分ぐらい食べたがそこが限界らしく大姫は、「だめ?」と、許可を求める表情で、泉を見た。

 泉は、とたんに顔をしかめるような表情になったが、「仕方ないですね」と、ため息を吐き、大姫の膳を持って立ち上がった。

 泉としても、主人が精一杯の努力をした結果だとわかっているので、それ以上のことは強く言えないのだ。

 と、その時である。

「泉、姫様の食事はすみましたか?」

 阿古夜が、大姫の部屋に入ってきた。

「阿古夜様」

「食べ終わったわよ、阿古夜」

 問われた泉に代わり、大姫はそう答える。

「また、残されましたか」

 ちらっと泉が抱える膳を横目で見て、阿古夜が言った。

「食欲が湧かないのよ」

「御台所様も、御所様も、御心配なされておいでです」

「―用件は何なの? 阿古夜」

 政子が十代始めの頃から付き従ってきた阿古夜は、年が近いせいか、主人と侍女と言うよりは、仲の良い女友達という関係を、長い間政子と続けてきた。

 そのせいか、両親に心を閉ざしがちな大姫に、よくさっきのようなことを言うのだ。

 ゆえに、大姫の態度も、阿古夜に対するものは、両親の時と同様、固いものになりがちだ。

 泉も、困った気持ちで二人を見つめた。

「高能様がおいでですので、お支度を」 

 しかし、やはり長年侍女として仕えている阿古夜の方が、大人であった。

 何事もなかったようにそう言い、大姫を促すと、

「それを下げたら、他の者達にも声をかけてね、泉」

 泉にも、指図を与えた。

「はい、わかりました」

 泉は、笑顔を浮かべると、ぱたぱたと駆け出した。

 今日も、一条高能が大姫を尋ねて来るのだ。

 そうなると、大姫は念入りにだが手短に準備をしなくてはいけない。

 台所に大姫の膳を下げに行くと、泉は通りがかりの侍女達に、阿古夜が大姫の準備のために呼んでいることを告げた。

 一条高能が大姫に会いに来る、と聞くと年頃の侍女達は、一斉に色めき立つ。

「やっぱり、一条高能様は、大姫様に求婚なされるおつもりなんだわ!」

 そんな侍女達を尻目に、泉はくるり背を向けると、大姫の部屋へと戻り始めた。

「待ってよ、泉」

 軽い足音を立てながら小走りに縁側を走る泉を、侍女達が慌てて追いかけてくる。 泉にしてみれば、一条高能なる人が、大姫に求婚するかどうかは、問題ではなかった。

 確かに、優しそうな人だな、とは思う。

 大姫が一条高能と対面する時は、泉も対面する部屋までは付いて行って、外の縁で待っているから、その優しげなお顔をちらっと見たこともあるし、話している口調も柔らかくて、大姫を気遣っていることがわかった。

 けれど、その一方で。

 大姫は、全然楽しそうではなかった。

 一条高能と会っている時は、それなりに話しているし、一条高能が会いに来たら、一度として「会いたくない」と言ったことはない。

 でも、部屋に戻ると疲れたような表情をして、眠ってしまう。

 けれど、大姫は一条高能に嫌な思いをさせてはいけない、と思っているようだった。

 ―姉上は、お優しい人だぞ。

 前に頼家が言っていた言葉は、本当だと思った。

 大姫は、とても優しい人なのだ。

 だから。

 大姫が少しでも元気になってくれるならば、一条高能が大姫に求婚しなくても、別に問題なかった。

 泉は、大姫が休んで、少しでも食欲を出してくれる方がうれしかった。

「阿古夜様、戻りました」

 そんなことを考えながら急いでいると、何時の間にか大姫の部屋に戻っていた。

 泉は入り口の近くに座ると、そう言って阿古夜に声をかけた。

 泉を追いかけて来た侍女達も、同じように縁に正座をして、頭を下げる。

「急いで手伝いなさい」

 部屋の中から聞こえる阿古夜の声に、皆一度頭を下げると、立ち上がって部屋の中に入って行った。

 泉は最後に大姫の部屋に入った。

 そうして、侍女達は一斉に阿古夜の指示の基、大姫の仕度に追われた。

 化粧をする者、衣装を整える者、その他細々とした用事をする者。

 そんな中、泉は大姫の髪をすくように阿古夜から言われ、いつものように大姫の黒くて艶のある髪を、櫛でといた。

 いつもだったら、大姫の身支度の準備は、泉だけで行っていた。

 一日を寝て過ごしている大姫は、化粧なんてすることはなかったし、衣装も着心地の良い動きやすい物を身に付けるようにしていたから、泉だけで十分だったのだ。

 それが今、阿古夜の指示の下、たくさんの侍女達に囲まれて、身支度をしている。 それだけでも、大姫には大きな負担をかけているのかもしれなかった。

 けれど、大姫は、目を閉じて侍女達にされるがままだった。

「お仕度が整いました」

 やがて全ての準備が整い、阿古夜がそう言うと、大姫はゆっくり目を開けた。

 その美しさは、他の侍女達から思わず感嘆のため息が出るほどだった。

「それでは、参りますよ」

 阿古夜の言葉に大姫は頷くと、ゆっくりと立ち上がった。

 そうして、部屋の前に待機していた侍女に先導されて、部屋の外へと出て行った。 

 それを見送った阿古夜は、

「泉、後はお前に頼んで良いですか?」

 と、言った。

 それは、仕度でごった返した大姫の部屋を片付けつつ、大姫が戻って来るのを待つように、という意味だった。

「はい、わかりました」

 泉が頭を下げて返事をすると、

「他の者達は、私に付いてくるように。」

 阿古夜はそう言って立ち上がり、他の侍女達を引き連れて大姫の部屋を出て行った。

 頭を下げたまま、それを見送った泉は、最後の一人が部屋を出て行った後、ようやく顔を上げた。

 いつもだったら大姫の部屋を皆で片付けてから、一条高能と対面をしている部屋に行くのだが、今日は違うようだった。

 ただ、皆と一緒に片付けをしているから、どこに何を、どうやってしまうのかはわかっているから、泉としては、殊更大変だとは思わなかった。

 それよりも、いつもよりばたばたとしている雰囲気が、大姫の部屋の外からも伝わって来て、そちらの方が気になった。

 阿古夜も何か急いでいる感じがした。

 いったい何があるのだろう?とも思ったが、とりあえず、今自分のするべきことをしよう、と泉は手早く大姫の部屋を片付け始めた。

「何だ、泉は留守番か?」

 と、その時だった。

 そんなことを言いながら、頼家が大姫の部屋に入って来た。

「頼家様」

 泉はたたんでいた衣装をそのままにして、顔を上げた。

「お前は、姉上に付いて行かないのか?」

 だが頼家は泉の前に座ると、開口一番そう尋ねて来た。

「何のお話ですか?」

 しかし、泉には何のことかわからず、頼家に尋ね返した。

「ああ、お前知らないのか。一条高能殿が姉上を連れて、鶴岡八幡宮に行かれるんだよ」

 だが、この言葉には目を丸くしてしまう。

「でも、昨日大姫様は一条高能様がお帰りになられた後、寝込まれました。今日も朝はあまりお食べになられてないのに……」

 その「お出かけ」が、大姫の体の負担にならないと良いのだが、大姫の体の調子を目の当たりにしている泉は、心配になってしまう。

「姉上の調子はお悪いのか?」

「昨日は、全くご飯を食べられませんでした。今日は、少しご無理をして、朝餉は少し食べられたのですが……」

「そうか……」

 泉の言葉に頼家はため息を吐き、座り込む。

「頼家様?」

 そんな頼家の様子に、泉は心配になった。

「お心当たりでもあられるのですか?」

「……似ていらっしゃるんだそうだ」

 泉が尋ねると、やがて長いため息と共に、頼家は言った。

「え?」

「考えみれば、不思議ではないんだよな。木曽義仲殿は、我らの父と祖父を同じくする方。そして一条高能殿の母君は、父の妹に当たる方。お二人は、はとこになられるのだから、似ていらっしゃっても全然不思議ではない」

 最初、泉は頼家が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。

「一条高能殿は、義高殿とうり二つらしい」

 だがこの言葉には、はっとなった。

「一条高能様が?」

「ああ。俺は、義高殿がこの鎌倉にいた時はチビだったからな。お顔とかは全然覚えていないんだが乳母の一人が言っていた」

 そう言いながら、頼家は横になった。

「俺は、姉上がお幸せになられるのなら、義高殿を忘れるためなら、他の方と結婚する方が良いと考えていた。……一条高能殿とならば、姉上も承知されるかもしれないな」

 本来ならば喜ばしいことのはずなのに、頼家の口調は重かった。

「お気になることでもあるのですか?」

「いや……」

 だが、泉の問いかけには、首を振った。

「泉、お前はどう思う?」

 そうして、逆にそう泉に尋ねてくる。

「私には、よくわからないのですけど……」

 泉は、たたんだ衣装を檜の衣装箱に入れながら、言った。

「大姫様が、ご飯を食べられるようになるな

らば、それで良いと思います」

 その瞬間。

 頼家は弾かれたように起き上がった。

 そうして。

 まじまじと泉を見る。

「泉…お前……」

「おかしいですか?」

 だけど、泉は思うのだ。

 もし、幼くして失ってしまった婚約者と面差しが似ている一条高能殿と一緒にいることで、大姫の心が癒されて元気になるならば、それでも良いし、逆にそれが大姫の心の負担になるならば、それは断った方がいい。

 もちろん、大姫のような立場になれば、父親である頼朝の考えもあるのだろうが、泉は大姫が、ご飯を食べられる精神状態になってくれるのが一番大切だった。

「いや」

 頼家はそう言って、首を振った。

「泉らしいよ」

 それは、頼家の心の底からの本心だった。

 泉には、ぶれがない。

 彼女の望んでいることは、何時だって単純で、でもとても必要なことだった。

 けれど、頼家は一条高能との結婚で、姉が幸せになるとは思えなかった。―否。思いたくなかった。

「それに、一条高能様がいくら義高様と似ていらっしゃっても、義高様ではありません。そのことに、大姫様も気付かれるはずです」

 そんな頼家の考えを気付きもしない泉は、そう言葉を続けた。

「そうか?」

 くるりと体を泉の方に向けて、問いかけて来る頼家に、泉はこくんと頷いてみせた。

 そんな泉を、頼家はじっと見つめる。

「頼家様?」

 泉はきょとんとなって、頼家を見た。

「泉は……姉上のことが好きか?」

「はい、もちろん」

 けれど、この問いかけには即答した。

「そうか……」

 その言葉を聞くと、頼家は小さく笑って目を閉じた。そのうち、寝息が聞こえてくる。

 頼家も、疲れているのかもしれない。

 いや、疲れているのだ。

 泉は立ち上がると、大姫が使っている褥を持って来て、頼家の上にかけた。

 少し休ませた方が良いかもしれない、と思ったのだ。

 泉には、頼家が背負っている立場とか、責任とか、そういうものはよくわからない。

 だけど、頼朝がとても寂しそうな表情をしていたのは、見ていて知っていた。

 だから。

 彼の後を継ぐ立場である、「嫡男」の頼家にも、「寂しい」と思うことは、あるのかもしれなかった。

 それなのに、彼は姉の大姫のことを考え、幼い弟妹のことも気遣っている。

 泉は、大姫が頼家のためにも、まちがった判断はして欲しくないな、と思った。

 自分にとって、「幸せ」になる道を選んで欲しかった。

 そうすれば、頼家の心配も一つは減る。

 安らかな顔をして眠る頼家を見つめながら、泉はそんなことを考えて。

 静かに立ち上がって、部屋の片付けを再開した。

          ★

 結論から言えば。大姫は、一条高能との結婚は断った。

 あの日。

 夕闇が大姫の部屋を支配する頃になって、戻ってきた大姫は、

『とても楽しかったわ』

 と、笑いながら泉に言った。

『どこにお出かけになられたのですか?』

 泉が尋ねると、

『鶴岡八幡宮に行ってね、一条高能様が京からお呼びした、白拍子しらびょうし達の舞を見てきたわ』

 白拍子とは、男装の遊女や子供が今様や朗詠歌いながら舞う遊芸者達のことだ。

 簡単に言うならば歌を歌いながら踊る舞姫達である。

『白拍子ですか……』

『泉は、白拍子達の舞を見たことない?』

『お話にはうかがったことがあるのですが、ないです』

 泉に馴染みがあるのは、田植えの時に豊作を祈って舞う田楽でんがくや、秋の祭りの時に神社に舞を奉納する神楽かぐらぐらいだ。

『私は、前にも一度だけ見たことがあるのだけど、男装をした女性が、今様いまようを歌いながら舞う姿は、とても綺麗だと思ったわ。今日見て来た白拍子の舞も綺麗だったけれど、あの時の方ほどではなかったわね』

 けれど、と大姫は言葉を続けた。

『やっぱり、とても綺麗だった。一条高能様は、あのようなことがお好きなのね』

『大姫様も、白拍子のような方が踊るのを見るのがお好きなのですか?』

『ううん』

 だが泉の問いかけには、大姫は首を振った。

『私は、海が好き。由比ガ浜の海がね、とても好きなの』

 それは、迷いなく言われた言葉だった。

 それからほどなくして、泉は大姫が一条高能との縁談を断ったことを、噂で聞いた。泉は若い侍女達にそのことに色々と質問されたが、

『よくわかりません』

 と言う以外に、答える言葉がなかった。

 実際、大姫は、泉には一条高能との縁談があるとは言わなかったし、泉が聞いているのは、

『一条高能様と一緒に、鶴岡八幡宮で白拍子の舞を見た』ということだけだ。

『一条高能様と結婚するぐらいなら、川に身を投げて死にます!って言って断ったって皆言っているのよ!?』とまで言われたが、泉にはどうでもよいことだった。

 大切なのは、大姫の気持ちだ。

 泉は大姫がご飯をきちんと食べて、元気になってくれればそれで良かった。

 けれど。

 そんな泉の気持ちを嘲笑うかのように、大姫の体調は良くなかった。

 今はもう八月も終わりだ。

 季節はもう完全に秋である。

 あと二月もすれば、鎌倉は冬になる。

 そして、今も大姫は寝込んでいた。

『楽しかったわ』

 と微笑んで泉に言っていた大姫は、一条高能との縁談を断った直後ぐらいから、寝込むようになってしまった。

 ただでさえなかった食欲はなくなっていくし、熱を出して、それが何日も続いた。 だが、昨日は大姫も熱が下がって、久しぶりに食事も取った。

 安心と言えば安心なのだが、それでも、泉は大姫の傍を離れることができなかった。

 下女に用意してもらった冷たい水が入った桶を持ち、泉が縁を小走りで行っていると、

「泉、姉上の看病か?」

そう、頼家が声をかけてきた。

「頼家様」

 庭の方から入ってきた頼家は、よっと軽い掛け声をかけると、縁に上がって来た。

「姉上のお熱は下がったんだろう?」

「はい。でも、まだお寝苦しそうなので、冷たい水で拭って差し上げようと思いまして」

「そうか……」

 泉がそう言うと、頼家は声を落とした。

 頼家は、毎日のように大姫の部屋を尋ねてきた。

 そうして、泉に大姫の様子を聞いて、眠る姉を見て、自分のいるべき場所に帰って行った。

「お見舞いに来られますか?」

 泉が尋ねると、

「もちろんだ」

 頼家はそう言って頷いた。

「じゃあ、参りましょう」

 泉はこくんと頷くと、また小走りで縁を移動し始めた。

 その後を、頼家が付いて来る。

 そうして、大姫の部屋まで来た時だった。

「いやあ!」

 そんな叫び声が聞こえた。

 泉は、はっとなって大姫の寝所に桶を持ったまま飛び込んだ。

「姫様!」

 そうして桶を横たわっている大姫の枕元に置くと、うなされている大姫に呼びかけた。

「姫様、姫様、しっかりしてください!」

 ほっぺたを軽く叩き、大姫に呼びかける。

「姉上!」

 頼家も泉の反対側に座り、呼びかけた。

「泉……頼家……」

 と、その時だった。

 目を見開いた大姫が、半ば呆然と二人の名を呼んだ。

「だいじょうぶか? 姉上」

 気遣わしげに、頼家が大姫に声をかけた。

 泉は桶に手拭を浸すと、寝汗をかいた大姫の顔や首筋を、よく冷えた手拭いで拭い始めた。

「私……?」

「うなされていたんだよ、姉上」

 後ろを向いてくださいね、頼家様、と、大姫の夜着の結び目を解き始めた泉に言われた頼家は、姉に後ろ姿を見せながらそう言った。

「そう……」

 弟の言葉を聞き、大姫は深いため息を吐く。

 そんな大姫の様子に、頼家も泉も、よけいなことは何も言わず、泉は大姫の体を拭き続け、頼家は部屋の隅に置かれた水入れに手を伸ばし、器に水を注いだ。

「飲むか? 姉上」

 そして泉が大姫の体を拭き終わったことを確認して、頼家は振り返りながらそう言った。

「あ、うん」

 頷いて、大姫は起き上がろうとする。

 それを、泉が慌てて手伝った。

 大姫は頼家からそっと差し出された器を受け取り、一口、水を飲む。

 そうして、ふうとため息を吐いた。

 とその時、心配そうに自分を見つめる泉と頼家に気付いて、微笑んだ。

「ごめんね、二人とも。心配かけて」

「いいけどさ、姉上……」

 何かを頼家は言いかけたが、結局、何も言わず黙り込んだ。

「頼家?」

「ご加減はどうですか?」

 その代わり、泉がそう尋ねた。

「もう、だいじょうぶ。さっきよりはだいぶんいいわ。変な夢を見たせいで、気分が悪くなったの。うなされたのも、そのせいね」

「そうか……」

「お膳の用意をしてきますね」

 大姫の顔色がさっきよりもいいのを見てとって、泉はそう言いながら立ち上がった。

「あ、泉……」

「―何ですか?」

 だが次の瞬間。

 大姫に呼びかけられ、泉は大姫が言いたい事を察してしまった。

「まさかと思いますが、食べたくない、とおっしゃるのではありませんよね?」

 振り向きざま、にっこりとした微笑みでそう言うと、大姫は言葉に詰まった。

「え、えーと……」

「お昼まで寝ておられて、お食事もきちんとされないのでは、また、変な夢を見る羽目になりますよ?」

 もし「いらない」と言えば、ただじゃすまないぞという気持ちを込めて言うと、

「か、粥がいいな、私……」

 大姫は観念したように言った。

「わかりました」

「あ、ついでに俺の分も頼むよ、泉。姉上と一緒に食べるから」

 一方頼家の方は、姉を庇おうとせず、ちゃっかりと泉にそう頼んでくる。

「あ、はい」

 泉は頼家の言葉に頷くと、軽い足音を立てて廊下を駆け出した。

 パタパタと小走りで台所まで行くと、ちょうど台所にいた下女に、粥の仕度を頼んだ。頼家の分も頼む。

「頼家様の分も?」

「はい、軽い物で良いと思うんですけど」

「別にかまわないけど、めずらしいね」

 下女がけげんそうな顔をした。

「頼家様と大姫様は、仲が悪いって思っていたけど」

「ご心配されたみたいで……」

 頼家が大姫のためにわざと姉弟達と不仲に見せているのを思い出して泉は言葉を濁した。

「じゃあ、汁物に握り飯を付けようかね」

 だが、あまり下女は気にせず、そう言葉を続けた。

 すぐに用意するよ、と泉に言って、手早く用意を始めた。

 朝炊いていたご飯を器に盛り、湯気を出している鍋からお湯を器ですくい、そこに醤を入れた。

 それから、ご飯の上に山椒の葉を乗せて、醤で味を付けたお湯をその上に注いだ。

「できたよ。頼家様の分は、すぐ用意するけれど、それを持って行ってくれますか?」

「はい、ありがとうございます」

 泉は粥を乗せた膳を下女から受け取り、縁を来た時と同じように小走りで移動する。

 ぱたぱたと軽い足音を立てて、泉は食膳を持って大姫の部屋に戻った。

「頼家様は、もう少しお待ちになってくださいね。すぐに持って参りますから」

 そう言って大姫の前に膳を置くと、せわしなく立ち上がり、再び出て行こうとしたら、頼家が泉を呼び止めた。

「あ、泉」

「何ですか? 頼家様」

「仕事増やして悪いんだけどさ、チビどもを呼んで来てくれないか?」

「頼家?」

 この言葉に、大姫は目をぱちくりとさせた。

「あいつらとも一緒に食べよう、姉上」

「わかりました、頼家様」

 その提案に、大姫本人よりも先に泉は諾を出して、そのまま部屋を出た。

 泉は縁を小走りで移動しながら、頼家の言い出したことは、良い考えだと思った。 

 夏も終わり心地よい風が吹くようにになった今でも、大姫の食欲は回復しなかった。

 むしろ落ちる一方なのだ。

 そのせいか、ここしばらく大姫の体調は思わしくない。

 だから、少しでも賑やかな雰囲気で、食事をして欲しかった。

 哀しい気持ちを抱いていても、食事は進まない。

 一条高能との縁談を断ると話していた時、大姫は迷いのない瞳をして微笑んでいた。

 けれど、今の大姫は哀しい瞳をして、生きることを、放棄している。それは、決して言いすぎではない。

「泉様、どうされましたか?」

 何時の間にか、泉は台所へと戻って来ていた。

 はっとなって、泉は我に返り、自分が台所へ来た目的を思い出した。

「すいません、追加で千幡様と三幡様の分もお願いしたいのですが」

「頼家様と同じ物でいいんだったら、すぐにできますよ」

 息を整えて言った泉を見て、下女達は笑った。

 その笑い顔は、木曽の里で一緒に働いていた下人達を思い出させた。

 木曽の里では、皆と一緒に食事をしていた。

 確かに自分達は板間で、下人達は土間で食事をしていたけれど、向かい会うように座って、皆と同じ物を食べていた。

 でも、ここはそうではない。

 皆が集まって食事をすることなんて、めったにない。

 それが良いか悪いかではなくて、皆が集まって食事する雰囲気を、泉は大姫に感じて欲しかった。

 そうすることで、自分は一人ではない、と気付いて欲しかった。

「あ、泉」

 小御所の政子の部屋に行くと、三幡と千幡が一緒に遊んでいた。

 大姫の熱がある時は、いつも政子は二人を自分の部屋に呼んで、遊ばせるようにしている。

 それぞれにしておくと、侍女達の目を盗んで、大姫のところに行こうとするのだ。 

 二人の傍にいる侍女達も泉を見て、ぺこりと頭を下げた。

「すいません、三幡様、千幡様。大姫様がお呼びです」

「え、姉様が!?」

「いくいく」

 二人は喜色満面の顔になって立ち上がった。

「まあ、泉殿。大丈夫なのですか?」

「あ、はい。熱も下がられて、今から食事をされるのです。だから、三幡様と千幡様とご一緒にされたい、とのことでした」

 本当は、頼家がそれを考えたのだが、泉はあえてその名は出さなかった。

「そうですか。それでしたら、泉殿、よろしくお願いします」

 侍女も納得したように頷いて、三幡と千幡は歓声を上げた。

 この幼い子達が姉を慕う気持ちが、頼家の心配する気持ちが、伝わって欲しい、と泉は思った。

 そうして、その人達と触れ合うことで、大姫に生きる力が戻って来て欲しいと、心の底から思った。

         ★

「おやつれになったな」

 眠る大姫を見て、頼家はそう呟いた。

 頼家や三幡、千幡と一緒に賑やかな食事をした後、大姫はしばらく弟妹達と一緒に過ごし、夕暮れになった頃、「疲れたから休むわ」と言って、床に入った。

 泉は、頼家に促されて三幡と千幡をそれぞれの部屋に送った後、大姫の部屋へと戻って来た。

 頼家はまだ大姫の部屋にいて、眠っている姉の姿を見つめていた。

 姉の寝顔を見て、「おやつれになった」と呟く頼家の声は、辛そうだった。

 実際、大姫はただでさえ痩せていたのに、ここ数日でさらに痩せてしまっていた。 

 今日は三幡や千幡がいたせいもあったのか、小さい器に盛られた粥を残さず食べてはいたが、大姫が今日取った食事は、結局それだけなのだ。

「でも、今日はきちんと残さずに粥を食べられました」

 ただ、それでも。

 大姫は、きちんと食事をしたのだ。

 何も食べないのではなく、ご飯を食べようとして、全部食べてくれた。

 今日は「食べたくない」と言っていたのに、である。

「頼家様達と一緒に食べることで、食欲が出られたのだと思います」

 と、泉は頼家に言った。

「俺には、何ができるかな?」 

「また、明日来られてください。三幡様や千幡様と一緒に、過ごしましょう」

 哀しげに呟く頼家に、泉は言葉を続けた。

「そうすれば、大姫様もお元気になられると思います」

 その瞬間。

 頼家は、泉の方を振り返った。

「泉も、そう思うか?」

「はい。私もできる限りご協力しますので、ご安心ください」

 泉は頼家に微笑みかけ、こくんと頷いた。

「そうか……」

 泉の言葉に、頼家は安心したように肩の力を抜いた。

 それを見て、泉は思った。

 頼家の力になりたい、と。

 自分にできることなど、限られていることはわかっている。

 けれど、頼家の抱えているものが少しでもそれで軽くなるならば、泉は自分のできることは、全てやって差し上げようと思った。

 だから。

 次の日からは、泉は大姫を一人にしないために、ずっと大姫の部屋に張り付いていた。

 大姫朝起きるとすぐに部屋に入ってきて世話をした。

 頼家が侍女達に頼んだのか、朝げがすんだ頃を見計らったように、三幡と千幡が毎日遊びに来るようになった。

 昼間はまったく部屋に来なかった頼家も、短い時間であるが、顔を出すようになっていた。

 そして、三幡と千幡が帰る頃に再び顔を出し、夕げを一緒に食べて、自分の部屋に帰っていくようになった。

 夜は夜で、泉は大姫が眠るまで大姫の部屋にいるようにして、大姫の世話をしつつ、話し相手になった。

 こんなふうに、入れ代わり立ち代わりに人が部屋を出入りするので、大姫は一人になる暇がなかった。

 だけど。

 そんな一日を数日過ごした後。

 泉は三幡と千幡をそれぞれの部屋に送って行かなければならなくなった。

 迎えに来てくれるはずの、お付の侍女達が、夕餉の頃になっても迎えに来ないのだ。

「泉、二人を送って行ってくれる? 夕餉の時刻だから、忙しいのかもしれないわ」

「わかりました」

 大姫の言葉はもっともだったから、泉も頷いた。

 そうして、三幡と千幡と連れ立って、二人の部屋へと向かったのだ。

 二人をそれぞれの侍女達に託すと、泉は小走りで縁を移動していた。

 そんな泉に、庭の方から、「泉」と、頼家が声をかけてきた。

「頼家様」

「姉上はどうしたんだ?」

「今お部屋に戻る所です」

「急ごう」

「わかりました」

 泉は、そのまま縁を小走りに移動し、頼家は庭に走り出した。

 二人ともさっきから嫌な予感がしてたまらないのだ。

 できるだけ、大姫を一人にしたくなかった。

 今の大姫は、ぎりぎりの線でこの世に留まっている。

 そのことを、泉も頼家も十分に感じていたのだ。哀しみを抱えながらも生きていた大姫が、今は、そのことを放棄しようとしているのだ。

 それでも優しい大姫は、泉や頼家、三幡や千幡が傍にいれば、踏み留まるろうとしてくれた。

 だけど、それは危うい中で成り立っていたものだった。

 一歩まちがえたら、今の大姫は、「死」を選んでしまう。

 それを、必死な思いで、泉達は引き止めているにすぎない。

 ぞくりっと、泉は嫌なものを感じた。

 大丈夫だと思いたかった。

 大姫は、優しい人だった。

 自分達がこんなに必死に止めているのだから逝ってしまわない、と泉は信じたかった。

「返してください、義高様を。返してください、あの人達を。あの優しかった日々を。返して……みんな私に、返して!!」

 けれど。その叫びを聞いた瞬間、泉は何かが砕け散ったような気がした。

「姫様!」

 それは、大姫の心の底からの叫びだった。

 ずっと封印して出さないようにしていた思い。

 言わなかったのは、わかっていたからなのだ。

 一度それを口に出してしまったら、自分がどうなるのか。

 無意識のうちに、そのことを大姫は悟っていた。

 暗い……自分の心の深遠。そこはとても深かった。

 暗くて、寂しかった。あるのは―絶望のみ。

 けして、埋められることはない深い絶望しか、そこにはなかった。

「姉上!?」

 庭から大姫の部屋に、頼家が駆け込んだ。泉もそれに続く。

「いやあ―!」

「大姫!」

 大姫の傍には、頼朝がいた。

 だが大姫には、目の前の慌てふためく父親の姿など、見えていなかった。

 暗い瞳が映すのは、救いのない、己の絶望感のみ。

 泉の目の前で大姫は倒れた。

「姫様!?」

 泉は慌てて、大姫に近寄る。

「父上!?」

 一方、頼家は倒れた大姫を見て、呆然となっている父親の方に駆け寄った。

「姉上に何をなされたのです!?」

「……何もしておらぬ」

 呆然となったまま、頼朝はそう言った。

「しかしっ!」

「何もしておらぬ! ただ話しただけだっ。天皇の后になれるぞと!」

 涙を流しながら意識をなくした娘を見て、頼朝は叫んだ。

 頼家は、信じられないものを見るような目で、頼朝を見た。

「父上は、気付かれなかったのですか?」

 そうして、ぽつりと呟くように言った。

「姉上が生きるために、どれだけ苦しい思いをされて―それでも、生きようと努力されていたことを」

 だが、頼朝は何も言わなかった。

 ただ、呆然と倒れた大姫を見つめたままだった。

「泉、姉上が休めるように褥の用意を」

 頼家は、倒れた姉を抱き上げながら言った。

「わかりました」

 泉は頼家の言葉に頷いて、急いで褥の用意をした。

 そこに、頼家は抱き抱えた大姫を寝かせた。

 泉はその上に上衣をかける。

 その体は、火のように熱かった。

「お医者様を!」

 泉は、頼家を振り返りながら言った。

「俺が知らせて来る。泉は姉上を頼む!」

 頼家はそう言うと、部屋を飛び出して行った。

 それを背に感じながら、泉は大姫の帯を解き、衣の結び目を外して、少しでも大姫が楽になるようにしていると、

「泉!」

 近くに控えていたのか、阿古夜が大姫の部屋に入って来た。

「阿古夜様。大姫様がすごいお熱です」

「お医者様は呼びましたか!?」

「頼家様が呼びに行くと言われました」

「わかりました、では泉、水の用意を」

「承知しました」

 阿古夜の言葉に泉は頷くと、すぐに立ち上がって大姫の部屋を出た。

 泉がばたばたと部屋を出る時も、頼朝は呆然と座ったままだった。

 それは、泉が冷たく冷えた井戸の水を器に入れて戻って来た時も、医者が到着して、大姫を診立てている時も変わらなかった。

 ただ、大姫の衣装を夜着に代える時は、さすがに阿古夜が声をかけて、背を向けるようにはしてもらった。

 頼朝は、大姫が倒れたことも、そんな大姫を看病している泉達のことも、まったく見えていないようだった。

 だが、それに構っている暇は正直なく、泉達は頼朝の存在を感じながらも、それぞれが己のやるべきことをした。

「……しばらく、一人にしてくれぬか」

 そんな頼朝が、夕闇が夜に変わろうとする頃、泉達にそう言った。

 この鎌倉の主たる頼朝に命じられたら、頼家はもちろん、泉達も従うしかない。

 大丈夫だろうかと思いつつも、泉は頭を下げた。

「泉、今日はご苦労様でした。私が待機していますから、お前は下がりなさい」

 大姫の部屋へと続く控えの間にまで下がると、阿古夜がそう言った。

「私もいます」

 泉は、そう言ったが阿古夜は首を振った。

「体を休めることも、仕事の一つですよ。お前はまだ幼いのだから、無理はいけません」

 その言葉を聞けば、泉は頭を下げるしかなかった。

 一方頼家の方は、先に縁に出ていた。

「泉」

 そして、泉が控えの間から縁に出ると、話しかけてきた。

「頼家様」

「大丈夫か?」

「あ、はい」

 だが、自分にそう聞いてくる頼家の方も、青白い顔をしていた。

「頼家様も、今日は休まれてください」

 泉はそんな頼家も心配になってそう言った。

「俺は大丈夫だ」

 だが、頼家は微かに笑って歩き出した。

 泉も、それに従った。

「父上は気づいていらっしゃらなかった」  

 泉と並んで縁を歩いていた頼家は、そう呟いた。

 泉は、思わず頼家を見上げる。

「姉上が生きるために、どれだけ苦しい思いをされて―それでも、生きようと努力されていたことを」

 だがその言葉には、何も言えなかった。

 確かに、頼家が言うように、泉にも大姫が「生きること」にどれだけ大変な思いをしているのかは、見ていてわかっていた。

 だけど。

 頼朝には、それがわかっていなかったのだ。

 それが何故なのか、泉にはわからない。ただ、「頼朝ちちおやが気付かなかった」という事実は頼家を深く傷つけているようだった。

「三幡や千幡ですら気付いていたのにな」

 薄暗くなっている庭を見ている頼家の瞳は、とても暗いものを宿しているように見えて、泉は何も言えなかった。

          ★

「それは、仕方のないことかもしれません」

 泉の話を聞いた阿古夜は、そう言った。

「阿古夜様……」

 次の日。

 泉は朝餉の時に、部屋に戻っていた阿古夜に、昨日の頼家の様子を話してみた。

「泉。お前には、考えられぬことかもしれませんが、時に上に立つお方は、非情にならねばならぬことがあるのです。……御所様は、ご自身の弟君でさえ、討たれておいでです」

 その言葉に泉は、はっとなった。

 確かに、泉には考えられなかった。

 木曽にいる弟達の顔を思い出すけれど、どうして弟を討たねばならないのか、わからなかった。

 泉にとって弟達は、手はかかるが愛おしく、守らねばならない存在なのだ。

「お前の言いたいことは、わかります。ですが、御所様の弟君は……義経よしつね様は御所様のご命令に、それもとても重大なご命令に従わなかったのです。御所様の弟君というだけでその命令違反を許していたら、他の御家人の方々に示しが付きません。身内を甘やかしたら上に立つ者としての信頼が失われます。そうしたらまた新たな争いが起こることになります。だから追討の御命令をされたのです」

「おつらく……なかったのでしょうか?」

「それに耐えられる方だからこそ、征夷大将軍となられたのですよ」

 泉の言葉に、阿古夜は静かにそう言った。

 似たようなことを、頼時も言っていた。

「だからこそ、わからないー理解できないのかもしれません。大姫様が義高様を亡くし、いつまでも嘆かれていることが。頼朝様が、お強い方ゆえに」

 泉は、自分が持っている器を見た。そこには、熱汁あつしるが入っていた。

 中身の具は、魚が入っている。

 鎌倉は海が近いゆえに、海産物が豊富なところだった。

 ここで食べられる物は、泉が食べたことがないものばかりだ。

 おそらく、木曽のあの里では贅沢な物ばかりだろうに、大姫は食べることはしない。

 泉は毎日残さず食べる量の半分ですら、大姫にとっては「多い」のだ。

 けれど、大姫は食べられなくても、食べようとしていた。

 食べるための、努力はしていたのだ。

「……大姫様は、弱い方なのでしょうか?」

 ふいに。

 ぽつりと、泉はそう呟いた。

「お前は……どう思います?」

 そんな泉に、阿古夜はそう問いかけてきた。

「お強いかどうかはわかりませんけど……お優しい方だと思います」

「そうですね。大姫様は、お優しい方です。そうして、一途な方なのですよ」

 泉の言葉に、阿古夜はこくんと頷いた。

「一途な方……?」

「ええ。おそらくは、政子様に似られたのだと思います」

 そう言って、阿古夜は微笑んだ。

        ★

 大姫の母である北条政子は、伊豆で生まれた。

 伊豆の在庁官人であった時政は、伊豆に流されていた源頼の監視役であったが、時政が仕事のために在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまった。

 だから、二人を引き裂くために、他の男に嫁がせようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走った。

『私もご一緒しましたし、兄君の宗(むね)時(とき)様もご一緒だったのですが……やっぱり恐ろしかったですよ』

 嵐の夜で、強い雨が降っていたと言う。

 雷の音に馬が怯えるので、振り落とされないように必死に馬の背にすがっていたらしい。

 それでも、一人で馬に乗っていた政子は泣き言一つ言わなかったらしい。

『あそこまで政子様がお強くあられたのは、ひとえに御所様への思いゆえ。それと同じお強さを、大姫様もお持ちなのでしょう』

 そう言って微笑んだ阿古夜の顔を、泉は大姫の部屋に向いながら思い出した。

 阿古夜の言葉通りであれば、確かに大姫は政子似だ。

「失礼します」

 そんなことを思いながら、大姫の部屋に続く控えの間に入ると、阿古夜と泉が自分の部屋に下がっている間、大姫の看病をしていた侍女が、大姫の部屋から出て来た。

「大姫様の御様子はどうですか?」

「寝息は落ち着かれているわよ。熱がまだ下がられないけれど……」

「そうですか……」

 その言葉を聞いて、泉は下を向いた。 

「まあ、眠っていらっしゃるからあまり気負わないで。すぐに元気になられるわよ」

 そんな泉を励ますように彼女は言って、それじゃあ後はお願いね、と言って控えの間を出て行く。

 大姫の看病は、皆で交代でしていたが、昼間は主に泉がしていた。

 大姫が泉に心を開いていたせいもあって、誰とはなく、泉が看病していた方が、大姫は回復が早いと信じていたせいである。

 泉としては、別に問題はなかった。

 自分が子どもであるという自覚がある泉は、自分のできる仕事をしよう、と思っているからだ。

 だから。

 泉は侍女に頭を下げると、薄暗い大姫の部屋に入った。

 大姫の部屋は相変わらず暗かった。

 泉はまず木戸のところに行くと、木戸を押して大姫の部屋に光を入れた。

 そうして、眠っている大姫の横に座って、大姫の顔を見る。

 光の中で見る大姫の顔は、とても青ざめて見えた。

 その額には、先ほどの侍女が置いたらしい、水を浸した布が置かれていた。

『父上は、気づいていらっしゃらなかったんだな。姉上が生きるために、どれだけ苦しい思いをされて―それでも、生きようと努力されていたことを』

 この現は、大姫にとって、とてもつらいものなのかもしれない。

 泉にとっては、愛しい者達が溢れた世界でも。

 大姫にとっては、愛する者がいない乾いた世界なのかもしれない。

 けれど、泉はやっぱり、大姫には元気になって、この現で生きて欲しかった。

 そうして、眠っている大姫を看病しながら、いつものように縫物をした。

カナカナカナ……

 遠くで、ひぐらしの鳴き声が聞こえた。

 ふと気付くと、西の空は、朱色に染まっていた。

 泉は、縫い物をしていた手を止めて、大姫の寝顔を見た。

 相変わらず、青ざめた顔で大姫は眠っている。

 額に手を当てると、熱は高いようだった。

 泉は縫い物を交代に来た侍女が踏まないように部屋の隅に置くと立ち上がり、水が入った器を持ち上げた。

 そうして、縁から庭に降りると、草履を履いて井戸の方へと向った。

 今の時間帯は、夕餉の用意で台所はごったがえしている。

 そんな中、下女達に水の用意を頼むのは、さすがに躊躇われた。

 昼の光が混じり合う、ほんの束の間の時間。

 すべてが朱色に染まっている。井戸の前まで来ると、西の空にが朱色に染まりながら、沈んで行こうとする姿が、鮮やかに見えた。

 泉は桶を土の上に置くと、空に向かって手を合わせ祈った。

 農作業の後、父と母は夕闇の空に向って、必ず手を合わせて祈っていた。

『何をお願いしているの?』

 と泉が聞くと、『今日無事一日を終えた感謝と、明日も今日と同じように健やかに過ごせますようにとお願いしているんだよ』と、父は教えてくれた。

 鎌倉に来て、慌しい日々の中でそんなことも忘れていたが、泉は、天に祈りたかった。

 大姫が、無事にこの現に帰って来ることを。

 信じているけれど、天にもお願いしておこう、と思ったのだ。

「―泉!」

 そんな彼女を、呼ぶ声がした。

 泉は目を開け、声がした方に顔を向ける。

「頼家様」

 自分の名を呼んだ人物を認めたとたん、泉は笑みを浮かべた。

 だがそれは、どこか哀しげな笑みだった。

 一方、彼女を呼んだ頼家の方も、どこか哀しげな笑みを浮かべ、泉に近寄ってくる。

「ここにいたのか、泉」

「―はい」

「……姉上の熱、まだ下がらないのか」

「……はい」

 泉は、頼家の言葉にうつむきながら、こくんと頷いた。

「そうか」と、頼家の方も、それにつられるように、声を落とす。

「じゃあ、チビどもの見舞いは無理だな」

「……頼家様」

「あいつら、いつも『姉上のご気分が良くなってからな』と言えば納得していたんだ。でも……今回は『姉様のお見舞いに行く!』ってきかなくて。侍女達も困っていた」

「……」

 切なそうな頼家の声に、泉は目を細めた。

「なあ……泉」

「―はい」

「姉上にとって、俺達の存在は、意味がないのかもしれないな」

「頼家様……」

「亡くなった義高殿の代わりになるとは、俺だって思っていない。だけどその寂しさを、紛らわすことはできるかなと思っていた」

「―」

「でも……」

 そこで言葉を切って、頼家は自嘲的な笑みを浮かべた。

「俺の―俺達の思い上がりだったのかもな」

「そんなこと、ありません」

 しかし、泉は頼家のその言葉を、強く否定した。

 そう。そんなことは、ないのだ。

「泉」

 頼家は、びっくりしたように泉を見た。

「大姫様にとって、頼家様達の存在は、とてもお心の救いになっていたと思います。私の父も申しておりました。『人間は、どんな心の痛みを抱えていても、自分を案じている者達がおれば、生きていくことができる』、と」

 だから。

 泉は、大丈夫だと信じたかった。

 こんなにも案じている人達がいる現を離れて、大姫が逝くことはない、と。

「泉……」

「今はお心が混乱しておられますが、だいじょうぶです。きっと、戻って来られます」

 そう言った泉の手を、頼家は、ぎゅっと握りしめた。

「あ、いた。兄様、泉!」

 と、その時だった。

「まあ、三幡様、千幡様」

 泉は近寄って来た二人の姿に目を丸くする。

「お前ら、こんな所まで何しに来たんだ」

 その瞬間、繋いでいた手が離れた。

 泉は、それが寂しいような気がした。

 そうして、ふと主人に当たる人間、しかも男と手を繋いだことに、気付く。

 はっとなるが、頼家の方は三幡と千幡に向き直っていた。

「あのね、あのね、泉」

 しかし慌てている泉には構わず、千幡がぴょんっと、泉の膝に抱きついた。

「千幡様?」

「ねえさまのね、おみまいをしたいの」

 そして、無邪気な声でそう言った。

「千幡様、それは」

「無茶を言うな、千幡。姉上は熱が高いし、意識もない。見舞いは、まだ無理だ」

「う……ん」

 だが、頼家は厳しい声で制した。

 千幡は、不満そうに兄を見上げる。

「兄様、それはわかっているの。私も、千幡も、ちゃんとわかっている」

 そんな千幡の不満を、姉である三幡が、自分の気持ちを交えて代弁した。

「だったら、わがまま言うな。姉上のお加減がよくなるまで、見舞いはだめだ」

「うん。でも、今回だけはだめなの」

「三幡?」

「三幡様?」

 三幡の言葉に、頼家と泉は、怪訝そうな表情になる。

「なんか、違うような気がするの。うまく言えないけれど、姉様、このままじゃ私達のことを忘れて、違う場所に行っちゃうような気がするの」

「うん、そうなの」

「いつもだったらね、兄様の言う通り、姉様のご加減が良くなるまで待てるの。でも、今回だけはだめなの。待てないの」

「まてないの」

「三幡……千幡……」

 必死になって言い募る千幡と三幡に、頼家は返す言葉がないようだった。

「わかりました」

 その姿を見て、泉は頷いた。

「少しの間だけなら、お見舞いをしてもよろしいでしょう」

「本当!?」

「わーい!」

 泉の言葉に、三幡と千幡は歓声を上げた。

「いいのか?泉」

 頼家はためらいがちに、泉に尋ねて来る。

「ほんの少しの間だけなら、かまわないと思います。それに……」

「泉?」

「三幡様や千幡様にも呼びかけてもらった方が、大姫様も戻ろうとなさるのでしょう」

「泉……」

「大姫様は、優しいお方ですから」

 自分だけではなくて、頼家や三幡、そして千幡に呼びかけてもらった方が、大姫も戻って来る。

 そんな確信が、泉にはあった。

 そして、そのまま井戸の方に歩み寄ると、桶を採り、水を汲むべく、井戸の中にそれを放り投げた。

「泉、兄様、早く行こう!」

「はやく―!」

「少し待っていろ。泉が今、水を汲んでいるんだ。姉上の熱を下げるために必要なんだから、待てないのなら、見舞いはなしだぞ」

 落ち着きのない三幡と千幡は、彼らよりも少し離れた場所で、二人を呼んでいる。それに言葉を返しながら、頼家は空を仰ぎ見た。

 朱色の空は、半分近くが闇色に変わっている。

 頼家はしばらくの間、その空を見上げていたが、右手を上げ、目の前に持ってくると、そのまま目を閉じて空に祈った。

「行きましょうか、頼家様」

 それをしばらく見守っていた泉は、やがて頼家に声をかけた。

「そうだな」

 泉の言葉に頷きながら、頼家は歩き出した。

「兄様! 泉! 早くっ」

 歩き出した二人に、三幡と千幡が駆け寄って来る。

 その笑顔を見ながら、きっと大丈夫、と泉は心の中で呟いた。

           ★

 夕闇の闇に紛れて大姫の部屋は、とても暗かった。

 薄暗い庭先から部屋に入り込んだ泉達は、そっと歩いて大姫の枕元に座った。

「ねえさま」

 千幡がまわらない舌で大姫に呼びかけると、隣に座った三幡が、唇の前に指を立てた。

「心の中で、呼びかけてみましょうか」

 それを見て、泉は笑い、小さな声で言った。

「そうだな」

 泉の隣に座った頼家が頷いて、目を閉じた。

 それを見て、三幡と千幡も真剣な表情をして目を閉じる。

 泉も静かに瞳を閉じた。

 そして、心の中で大姫の名を呼ぶ。

 と、その時だった。

「―泉?」

 小さな声で、泉は呼ばれた。

「ねえさまが、おめめを開けたよ」

「えっ!?」

 千幡の言葉に、頼家も三幡も目を開けた。

 見ると、褥に横たわった大姫が、ゆっくりと目を開けて、自分の枕元に座った泉と弟妹達を見つめていた。

「大姫様……!」

「姉上!」

「姉様!」

「泉……頼家……三幡……千幡……」

 そうして、皆の名を呼んだ後。

「ただいま……」

 と、小さく微笑みながら言った。

「……おかえりなさいませ」

 泉は、あふれ出しそうになる涙を堪えながら、大姫に言った。

「おかえり、姉上」

 ぶっきらぼうな声で、でもうれしそうに頼家が言う。

 それを見て、大姫は微笑んだ。

 その微笑を、頼家は何か眩しいものを見ているような目で、見つめていた。






 



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