ポテトはいかがですか?

はくすや

第1話 店長 江尻克巳




 夏休みに入るとファーストフード店は毎日盛況を呈する。

 江尻克巳えじりかつみが店長を務めるクイーンズサンド明葉あけはビル店も例外でなく、ランチタイムから小中学生や幼児を連れた若い母親たちで溢れかえり、店内はときおり嬌声が聞かれるくらい賑わっていた。その上、今日は土曜日だったので、江尻はオーダーを受けるカウンターを四つとも開いて対応することにした。

 こういう状況に対応するため、夏休み体制を組んでいた。大学生、高校生の短期アルバイトを男女含めて十二名採用し、七月朔日から研修を組んできたのだ。特に接客するカウンター係は、江尻が自ら面接して採用した大学生二人、高校生五人の精鋭で、明葉ビル店の目玉だと自負していた。

 江尻は高校時代からクイーンズサンドの系列店でアルバイトをし、大学卒業後は常勤パートになってさらにスキルアップを果たし、この春、三十歳にしてようやくこの明葉ビル店のマネージャーを任されるようになった。それまで系列店を十箇所以上も渡り歩いた挙句の店長就任である。

 明葉ビル店は、東京西部のベッドタウンの最寄り駅徒歩三分のところにある明葉ビルの一階にあり、二階に書店、ビデオ店、地下にはゲームセンターがあることもあって、朝夕は通勤通学の客が多数利用し、昼は主婦層、子連れ層で賑わう優良店だった。必然的に繁忙期はスタッフを多数配置することになる。しかしファーストフード店は低自給の肉体労働であるため、アルバイトスタッフの定着は難しく、出入りが激しいために常に募集をかける必要があった。それが店長となって以来の江尻の悩みの種の一つだったが、夏休みという高校生アルバイトが最も供給される時期になって、ようやく精鋭を揃えるということが実現したのである。

 江尻が認める精鋭、それはとりもなおさず彼の好みのタイプの人間をさしていた。江尻は自らアルバイトの面接に加わった。よその系列店では店長自ら面接を行うことは少なく、たいていはスウィングマネージャーと呼ばれる常勤スタッフの中でチーフと呼ばれる存在が面接にあたっていたが、この明葉ビル店では、チーフの松原康太まつばらこうた、同じくスウィングマネージャーの宮本遥みやもとはるかと江尻の三人で面接を行い、採用を決めた。

 応募が多かったので選考の困難は嬉しい悲鳴となったが、接客業である以上外見とコミュニケーション能力で決定されることになる。結果的にはきはきと喋ることのできるプリティな娘たちばかりを採用することができた。顔で選んだという揶揄が聞こえてきても構わない。要は少しでも売り上げをあげることにつながれば良いのだ。中には女性である宮本遥の目に疑問符として映る子もいたが、江尻は松原とともに遥を押し切って採用することにした。

 本日はその彼女ら七人がたまたま全員同じ時間帯に揃った。ふだん大きな顔をしている主婦アルバイトがひとりもいないところが、フレッシュな雰囲気を作り上げ爽快感をもたらす。一方でトラブルがないかと常に緊張を強いられることにもなった。

 毎日のように繰り返される彼女たち新規アルバイトのミスを少しでも少なくするよう目を光らせなければならない。以前ドライブスルーのある店舗でチーフをしていた時に、渡し漏れていたポテトを十キロも離れた客の自宅まで届けに行ったこともある。さすがにこの明葉ビル店にはドライブスルーがないので、何十キロも離れたところへ届けるというサービスを行うことはないだろうが、それでも新人の多い時期に、一日十件程度のミスはあっても仕方のないことだった。

 特に混雑してくると、カウンターに四人並ぶだけでは対応できなくなり、うしろでサポートするスタッフが増える。これがベテランならまだしも新人なものだから連携がうまくいかずミスを誘発するのだ。オーダーをとり品物を用意するところまでひとりでマイペースにすれば間違いないのだが、慌てている上にオーダーをとった者と用意する者が異なるわけだからとんでもない間違いすら起こる。江尻は客の誘導を行いながら客側から彼女らを監視し、宮本遥はカウンターの内側から彼女らをサポートしていた。

 入り口からクイーンズサンドの紙袋を手にした客が入ってきた。これは何か手違いがあったなと江尻はさっとその客の前に行き声をかけた。

「何かございましたでしょうか?」

「あの、さっき、ハンバーガーを買ったんですけど、ソースがないんですけど……」

 人と喋るのがあまり得意でなさそうな若い男だった。細い体と落ち着きのない下半身のゆらめきから神経質な性格が窺われた。何年もこの仕事をしていると、印象で客の性質を読んでしまうのだ。

 ナゲットのソースを入れ忘れたのかと思ったら、驚いたことにハンバーガーの中身のソースが欠損していた。ビーフとレタスだけが挟まれているのだ。これはカウンターではなくキッチンのミスだった。

「大変申し訳ありません、すぐに代わりのものをお持ちします」

 江尻はキッチンへ行き、チーフの松原に報告、すぐに代替品とハンバーガーの半額券を用意して客のもとへ取って返し、詫びを入れた。

 客はもごもごと何やら言って、特に怒りの表情も見せずに帰っていった。どうにか事なきを得たが、キッチンの方も戦場のような忙しさだと理解した。自分も経験しているだけに、頭ごなしにスタッフを叱ることはできない。あまり叱ると最近の若者はすぐにやめてしまうこともよく知っていたからだ。

(俺も若者のつもりなんだけどな)

 江尻は苦笑した。ここでは十年違うと大人と子供以上に世代の違いを感じてしまう。女子大生アルバイトが高校生を見て世代の差を嘆く時代なのだ。

 ふとカウンターの一番にいる蒲田美香かまたみかを見た。そこは入り口から最も近いがために客がまず最初に並ぶ場所である。学生アルバイトの最年長の蒲田美香はやはり落ち着いていた。彼女は高校時代からこの店で夏休みや春休みなどに短期アルバイトをしていて、今回も新規採用として面接をしたわけだが、経験者として頼りになる存在だった。何より愛嬌のある可愛い顔立ちにはきはきとした好感を持てる話し方、清潔な身だしなみが魅力的だった。同じ格好をしていても清潔感が異なるのは、その所作にあるのかもしれない。悪い姿勢や落ち着きのない動きはみっともないものだが、彼女は常に背筋をしゃんと伸ばし、マニュアル通りのお辞儀をすることができた。聖麗女学館大学の三年生と聞いているが、どちらかというと童顔で、高校生たちの中に混じると高校生に見える。ときどきもぐりの高校生が彼女にナンパをしかけるところを見たりするが、「ごめんね、私、彼氏もちなの」とにっこり笑って切り抜ける余裕があった。

 カウンター係を務める七人の短期アルバイトクルーの中で彼女が最も信頼できる人間だった。それだけに彼女の後ろにサポート用のスタッフは必要だった。にもかかわらず後ろに控えて足を引っ張りかねない動きをしているのが、泊留美佳とまりるみかという地元の公立高校の一年生だった。もちろんアルバイトは初めてである。留美佳がトラブルメーカーであることは、現時点で間違いはない。目に見えるミス、トラブルの大半が彼女を起点に始まっていた。

 江尻は七人を選考する際に、はじめは極端にルックス重視の考えですすめていた。しかしあまりに可愛い子が揃って応募してきたために、これでは少し露骨過ぎるのではないかと宮本遥に指摘されたのだ。確かにそうだと江尻は松原と顔を見合わせたものだった。そこで将来性も考え、地元の市立押坂おしざか高校一年生の女子を二人採用したのである。そのうちの一人が泊留美佳であり、もう一人が森沢富貴恵もりさわふきえといった。ふたりとも絶世の美女には程遠いが、素直で真面目、そして清潔感が漂うタイプで、中高年のパート主婦たちから可愛いといわれる存在になるはずだった。しかし実際に研修を行い、本番のシフトに入った後、留美佳にミスや勘違いが多いことが判明したのだ。

 その第一が聞き違いである。客が「コーラ」と言っているのに、「コーヒー」だと聞こえたり、「二つ」が「一つ」に聞こえたりすることが相次いだ。押坂高校はそれなりに偏差値の高いことで地元では知られている。進学率も高く、さすがに帝都大への進学者はいないが、明鏡大や叡智大などへの進学者を毎年数名出しているわけで、そこに通っている留美佳の知能に問題があるとは思えない。むしろ彼女の場合はメンタルに問題があるようだった。

 精神的な緊張が留美佳に第二の問題点を呼び出させる。間違いを指摘されてパニックになった彼女はたちまち頭が真っ白になり、より大変なミスを起こすという悪循環にいたるのだ。

 江尻はむしろこちらの方を危惧していた。だから留美佳にはなるべく遥の監視をつけていたのだが、さすがに今日のような混み方では、留美佳ひとりのために遥を張り付かせるわけにもいかない。おそらく遥は、蒲田美香の仕事をよく見て勉強するように留美佳に言ったに違いなかった。それが美香の足を引っ張ることになっている。留美佳が用意した品物を美香はもう一度点検する必要に迫られていた。これなら美香が一人で用意した方が断然速いに決まっているのだ。

 留美佳に落ち着きが出るまでにはまだ当分時間がかかるだろうと江尻は思った。基本的には単純作業である。時間をかけて熟練してくればたいていの人間にはできる仕事なのだ。今までにも留美佳のようなタイプはたくさんいた。そのうちの多くは時間をかけることによって仕事をこなせるようになっていったのだ。しかし問題は夏休みが終わるまでにその域に達することができるかどうかだった。

(来年以降の投資だと考えよう)

 江尻は自分にそう言い聞かせて、熱くなりそうな心を冷やそうと努力した。


 間が悪いことに、そういう時に限って、本社の人間がふいに視察に来るものだ。

 江尻は店の窓の向こうに、こちらへ向かって歩いてくる本社の人間の姿を見つけた。本社地域開拓部門営業部の吉田部長と、たびたびクルー教育のためにやって来るトレーナーの柚木璃瀬ゆずきりせだった。

 抜き打ち視察の形となるが、このタイミングを狙ったのは柚木璃瀬だと江尻は舌を噛んだ。彼女はシフト勤務表をみて今日の状態を知っていたはずだ。それでわざわざ部長を連れてきたのは、自分を陥れるために違いないと江尻は思った。

(そんなに俺が気に入らないのか)

 江尻は思った。

 五月頃、柚木璃瀬がスタッフクルーのトレーニングを行うためにこの店にやって来た。彼女はあちこちの店舗に順に顔を出している本社のスタッフだった。どう見ても二十代半ばの娘で、江尻はおろか松原、宮本遥にとっても年下の人間である。しかし店長をはじめ現場のスタッフは本社の人間に頭が上がらない。可愛いと感じた美貌も、たちまち鬼軍曹の様相を呈して行った。特にクルーは厳しい指導を受けるからなおさらだった。嫌だと感じた者はやめていき、現場には叱咤されても何もいえない従順な人間だけが残る。江尻は店長としてクルーが辞めていかないよう細やかな配慮をする必要があった。

 ある夜、反省会と称して江尻は松原や宮本遥とともに柚木璃瀬を囲んで夕食をとった。璃瀬の意見に耳を傾けつつ味を感じることのできない夕食をとり、一時間ほどで松原と宮本は店に戻った。璃瀬がまだ話したりない様子だと感じた江尻は、近くの居酒屋でその続きを承ることにした。そこでもてなす事に気を遣いすぎた江尻は少々璃瀬に飲ませすぎた。彼女は少し足元がふらつくようになった。鬼軍曹が、か弱い美少女の足取りになっているように江尻の目に映った。このまま一人で帰すのも忍びない。タクシーを呼ぼうか。しかし彼女の自宅がどこなのかわからない。あまり遠くだとタクシーは無理だろう。などと考えているうちに、ふとラブホテルのネオンが目に入った。

「少し休んで行かれますか?」と何気に彼女の肩に手をかけた瞬間、彼女は豹変した。

「私の体に触らないでください」と、璃瀬は江尻を睨みつけ、その背後のラブホテルを見遣ってから、「私を誘ったことは本社には言いませんが、今度同じことをしたら間違いなくあなたを告発します」

 江尻は呆気にとられて動けなかった。

 彼女が立ち去ってからようやく我に返り、なんと自意識過剰な女なのだろうと思うことで自分が受けた衝撃を和らげようとしたのだった。

 その日以来、璃瀬の自分を見る目が明らかに変わったと江尻は痛感している。何事もなかったように淡々と業務をこなしているが、江尻は彼女から敵意を浴び続けた。

 その仕打ちの一環として、今日の抜き打ち視察が計画されたのだ。

 江尻はさっと宮本遥を呼び寄せ、吉田部長の姿を見せ、現場にスクランブルを発令した。



 ミスの多いクルーは客席清掃にまわった。宮本遥がカウンターの前列に立つ。これで客と直接顔をあわせるのは、蒲田美香、宮本遥に、女子大生の赤塚亮子あかつかりょうこ、高校二年生の高見澤神那たかみざわかんなの四人となった。その場しのぎに最適なベストの布陣。

 店内に姿を見せた吉田部長は思わず顔を綻ばせた。真っ先に目に飛び込んでくる最前列のスタッフの明るく、爽やかで、美しい姿と、その接客態度。まるでテレビのコマーシャルを見ているかのようだった。

 吉田部長の脇にいる柚木璃瀬の顔が思わず強張った。

 江尻は、部長の視線がオーダーを揃える後列のクルーに行く前に、キッチンの中へと部長を導いた。後列には金髪のアルバイト瀧本たきもとあづさがいたからである。

 クイーンズサンドのクルーは原則金髪禁止である。金髪の応募者がいたら、採用面接の時にたいてい染めてくるように指導する。瀧本あづさはまさに例外中の例外だった。彼女は母方にアメリカ人の祖母を持つクォーターで、それを聞いた江尻たち面接官は地毛なら仕方がないと納得して採用したのだ。確かに彼女は英語もネイティブと思えるほどペラペラに喋ることができたし、見かけはヤンキーの印象だが押坂高校の二年生で成績優秀だと後輩に当たる泊留美佳と森沢富貴恵が言うものだから、髪が目立たないようにまとめてキャップをすることを条件に採用通知を渡したのだった。

 ところが柚木璃瀬は彼女を見た瞬間、「あなた、それ、染めてるでしょう?」とストレートに指摘し、あづさもあっさりと「はい、そうです」と認めたものだから、江尻ら常勤スタッフは面目を失った。

 幸い、その頃には瀧本あづさも仕事に慣れ、彼女目当てに来る客も多くいたので、璃瀬は敢えて彼女を辞めさせるよう主張しなかった。

 しかし本社にはいまだに報告はされていないはずだ。彼女の姿を見せるとややこしい事態となるので、江尻は急いで吉田部長を厨房へと案内した。

 キッチンの中はエアコンが効いているはずなのにポテトをあげる油が空気にしみ込んでいて、思った以上に暑かった。松原を促して、適当な挨拶をさせる。吉田部長は熱気と活気を体験して真剣な顔を向けていた。

 出番がない柚木璃瀬が部長から離れたところに立っていたので、傍へ歩み寄り、横顔に向かって囁いた。

「まさか、今日、部長がお出ましになるとは思いませんでした」

「夏休みのアルバイトがたくさんいるところを見てみたいと仰られて、それで今日お連れしました」

 璃瀬は平然とした顔で言った。それなら予めひと言くれても良いではないかと江尻は言ってやりたかった。

 吉田部長が客席の方へ移動することになったので、二人の会話はそれきりになった。


 指示通り店内のダストボックス、空きテーブル、そしてトイレなどの目だったごみや汚れを、富貴恵と留美佳が処理していたので、どうにか格好がつく形となった。彼女らも自分のペースでなら仕事をこなせる子たちなのだ。

 吉田部長は何のコメントを発することもなく、盛況な店内を満足そうに見て帰って行った。何がしたかったのかわからない。何かあれば後で璃瀬が報告するだろう。



 平日なら二時を過ぎたあたりから徐々に閑散としてくるものだが、さすがに夏休みの土曜は客が途切れる兆しが見えなかった。それでもランチタイム真っ盛りに比べると比較的余裕が出てくるもので、カウンターの四人は、蒲田美香、瀧本あづさ、森沢富貴恵、泊留美佳の四人にした。留美佳の背後に指導役として宮本遥がついた。

 早朝からのシフトだった赤塚亮子は勤務を切り上げ、昼から勤務の高見澤神那と古木理緒が客席清掃に回った。夕方からは遅番シフトの主婦パートがやってくることになっていた。

 そろそろ問題の時間帯だと江尻は構えた。明葉ビル店を悩ませる要注意人物が、どういうわけか午後二時から四時に集中して来店することを江尻はこの数ヶ月で学んだ。

 その一人目がやって来た。

 駐車場にその大型アメリカ車が停車した時点で、江尻のエマージェンシーサインが点灯する。この近隣の地主の孫で、確か二浪中の身だったはずだ。二十歳を過ぎているのでタバコを銜えていても悪くはないが、店の前でポイ捨てするのは止めて欲しい。肩をいからせて歩く様子はチンピラにも見えるが、駅前にいくつもの土地とビルを所有する裕福な家の御曹司なのである。二代目は土建会社を経営し、彼はその三男にあたるのだが、上の二人の優秀は兄に比べると、不幸なことに学業に秀でる才がなかったらしい。医学部を目指しているわけでもないのに二浪、しかも宅浪だった。

 彼が一人で店にやって来るときは、たいてい勉強や遊びに飽きて、店の女の子にちょっかいを出すためだった。今のところ我が店の女子クルーに直接的な被害はなかったが、このまま放置しておいて良いものか、江尻はこのところ頭を悩ませていた。

 茶色や金色の混じった丈の長いシャツに真っ黒のだぼだぼのズボンを穿き、夏にも関わらずポケットに手を突っ込んでいる。店内に入るや、カウンターの女子クルーを舐めまわすように見た。

 カウンター一番の蒲田美香には、以前「彼氏がいるの、ごめんね」と軽くかわされた。二番の瀧本あづさは一見お似合いにも見えるが、ナンパのことばに訳のわからない早口のネイティブイングリッシュを返されて煙に巻かれた。従って今日の標的は三番目にいる森沢富貴恵のようだ。並んでいるのかはっきりしない立ち位置をとっていた彼は、不思議なタイミングで三番が空くとすっと富貴恵の前に並んだ。

「いらっしゃいませ。お店でお召し上がりですか? お持ち帰りですか?」

「持ち帰りだ」

 童顔に似合わず態度は大きい。これまでは店内飲食を選択することが多かったが、さすがに女の子のナンパに失敗することが続いて、このところ持ち帰りが多くなっている。いずれにせよ何か富貴恵に言いはしないかはらはらさせられる。しかし富貴恵はマニュアル通り、他の客と全く同じ接客をしていた。

 この森沢富貴恵という高校一年生。なかなか変わった娘だった。決して美人ではない。しかし中年の主婦層にはたいそう可愛がられるのだ。にっこり笑うと誰もが愛らしいと思う愛嬌のある顔になる。パートの主婦や、年配の客には「可愛いねえ」と絶賛されている。実は江尻も面接の際、あまりに美形ばかりを揃えると問題と考えて、十人並みの彼女を入れたのだが、これが予想外のヒットだった。

 面接のときは全く笑うことなくひたすら真面目な高校生、いや外見は中学生に見える、という印象だったのに、研修ではよく笑い、不思議なことを口にするキャラクターの持ち主だった。

「今日はおなかが空いて、ほっぺが落ちそうです」

「それを言うなら、おいしくてほっぺが落ちるだろ」

「たまにはラーメンをとりましょう。もうバーガーは飽きました」

「店の中で食うわけにもいかんだろうが」

「おへそもラーメンが食べたいと泣いています」

「どれどれ」と言うと、シャツを捲り上げて本当に臍を出した。

 とにかく周囲の空気を変える不思議な娘だった。

 その彼女の前に立った二浪の御曹司は、キングサイズのバーガーセットを注文した挙句、いつものようにひとことを付け加えた。

「……それから森沢バーガーを追加で一つ……」

 以前は「スマイル一つ」などとメニューに書かれたことを口にしていたが、最近は相手をみていろいろ言い換えている。蒲田美香を相手にしたときは「美香んジュース」と言ったこともあった。こういう台詞は祖父の代から受け継がれるものなのだろうか。二十歳そこそこの若者のギャグにしては古臭い。

 しかし富貴恵は、このふざけた注文に信じられない返事をした。

「おお、森沢バーガーをオーダーされるとは、お客様、なかなかの通ですね」と、愛らしい笑顔を彼に見せた後、後ろを振り返って、「フッキースペシャルひとつ!」と叫んだのだ。

 これにはその場にいた同僚たちがみな唖然とした。蒲田美香は目を丸くし、留美佳を補助していた宮本遥は瞬時にポーズの状態になった。瀧本あづさだけが、横目で見てクックックと笑いを堪えている。

 二浪の御曹司は何が出てくるのかと、自分の蒔いた種がどのような花を咲かせ実を結ぶか成り行きを見守った。

 富貴恵は近くにあった赤のサインペンを握ると、用意されたキングサイズバーガーのボックスにラブピースを思わせるような単純な似顔絵を描きこんで、御曹司の前に差し出したのだった。まさに堂々とやらかしたマニュアル破りの禁じ手に、遥が慌てて富貴恵の傍に駆け寄った。

「お客様、失礼いたしました。ただちにお取替えいたします」と頭を下げる遥に対して、彼は全く目を向けず、その目は富貴恵のにっこりとした笑顔に注がれていた。

「やあ、ありがとう」

 彼は満足そうな笑みを浮かべて包みを受け取り、「また来るよ」と言い残して、颯爽と店を出て行った。

 富貴恵が遥に引っ張られて奥へ引っ込んだのは言うまでもない。

 仕方なく、江尻は二階から古木理緒を呼び寄せ、三番のカウンターに配置した。


 江尻のブラックリストに載る人物が次々とやって来る。次は三十代の小太りの男だった。頻繁に姿を現す問題クレーマーだった。とにかくねちこくまとわりつく粘着質の性格で、クレームは必ず自分より弱いと位置づけたクルーに向ける。だから男性クルーや中年主婦パートの多い時間帯に彼が姿を現すことはなかった。

 彼はいつも歩いてくるので、店内に入って来ない限り、出現したと認識することはできなかった。だから彼の姿を認めたときには、すでに彼は四番の泊留美佳の前にいた。

 現在のカウンターの顔ぶれを見て、明らかに意識的に留美佳を選んだのである。すでに遥は富貴恵を連れて奥へ行ったのでこの場にはいない。ここは自分が背後でフォローしなければなるまいと江尻は考えた。

 この男はとにかく波長を合わさないようにすることにかけて天才だった。まさに不協和音のスペシャリスト。留美佳がオーダーを打ち込んでいるその瞬間に次のオーダーを小声で口にする。聞き逃した留美佳が聞きなおすと、すぐ不快な表情を浮かべてプレッシャーをかけてきた。

「オレンジジュースは氷抜きにしてくれ、エムサイズでね。それからポテトは塩少なめで、できるだけ乾いたところを頼む。この間やけにしけていたからね……」

 これがファーストフードの注文かと首を傾げたくなる。

 留美佳が彼にあたったのは初めてだった。噂には聞いているはずだが、全く気づいていないのか、変わらぬマイペースで動いている。それでいいと江尻は思った。何かあれば自分が出て行く用意はしていた。

「ストローは挿さなくていいって言っただろう!」

 突然切れ始めた。店内で食べる時飲み物にストローを挿して渡すことが多い。もちろん客には確認をとるのだが、氷を入れていないことを確認するうちに、ストローを挿すかどうかの確認を忘れ、ついうっかり挿してしまったのだ。彼は必ず自分でストローを挿すタイプだった。しかし「ストローは挿さなくていい」と言うのはいつものことであるものの、今日はその話題すら出なかったのだから、彼が今日そう言ったというのは間違いである。

「申し訳ありません」と留美佳は平謝りするだけだ。顔に極度に緊張が走っている。このままでは第二、第三のミスをしでかしかねない。

「お取替えいたします」と江尻は彼に声をかけた。すでに新しい氷なしドリンクを手にしていた。

「店長か、相変わらず新人の教育が行き届いていないな」

「申し訳ありません、至らぬところが少なからずございますが、日々指導を行っておりますので、どうかご容赦ください。以後気をつけます」

 お決まりの文句を冷ややかな目で聞いただけで、それ以上の絡みはなかった。

「それにしても、氷がないとこんなに量が少ないのか。これではSサイズだな」

 いつもと同じ量で間違いない。それは彼も知っているはずだ。

 彼はトレイを手にして、入り口近くのカウンター席へと移った。クルーの目の届くところに必ずいる。それはクルーに無言の圧力をかけるに十分な行為だった。

 とりあえず江尻は胸をなでおろす。あとはバーガーやポテトの仕上がりに対するクレームがないかどうかだ。最悪の場合、取替えで対応できるのだ。

 とにかくこの手の客は少々コストがかかっても静かに甘い対応を返すしかない。中途半端に毅然とした態度をとろうとすると、無闇矢鱈騒ぎ出すのだ。


 ほっとしたのもつかの間、誰の目にも明らかに太った女が二人、やんちゃな盛りの幼児を三人連れて入ってきた。母、娘、孫三人の一家だが、揃って肥満体である。週に三度はここを利用している。ハンバーガーショップの店長をしていてこう思うのもおかしなものだが、もう少しバランスのよい食事をしてダイエットをした方が良いのではないか。

 しかし彼女らも江尻のブラックリストの客だったので、彼は慌てて留美佳をカウンターから外し、客席業務をするよう言いつけた。

「あら、何? 客が並んでいるのに、レジを一つ閉めちゃうの?」と最もふてぶてしい面構えの母親、幼児から見れば祖母にあたる五十代の脂肪の塊女が、嫌味たらしく言い放った。がらがらした棘のある声は嫌でも店内に響いた。

「はい、こちらへどうぞ」と江尻は自分が四番カウンターについた。この客を自分のところへ呼ぶための姑息な手段だったのだ。

 自分がアルバイトの身分だった頃は、この手の客を相手にするのは御免蒙りたかった。しかし今や店長となった身では、バイトのクルーに相手をさせて何か因縁をつけられるくらいなら、自分で対応した方が気持ちが楽である。だから最近はすすんでブラックリストの客を相手にしているのだった。

「店長自らお出ましかい」と下品な笑いを浮かべた大きな顔が目の前に来た。何度も顔をあわせているのですっかり馴染みだった。

 一番前にやって来る割には、オーダーは娘にさせている。この娘、母親にそっくりの顔、そっくりの体型をしていたが、必要以外のことをほとんど喋らない。それはまるで虎の威を借る狐のようだった。小さい頃から威圧的にしつけをされてきて、母親に反抗しない性格ができあがったのかもしれない。そのためか自分の子供に対しては全く放任主義だった。今も子供たちは店内を鬼ごっこの場と勘違いしたかのように走り回っている。娘がオーダーをしている間、母親が孫子をだみ声で叱咤していた。

「こら、走り回るんじゃない! 静かにおし!」

 小さな子供らは笑い飛ばしてはしゃぎ回っていた。そして時折り、先ほどの粘着クレーマーの男のあたりに近づいて、小さな接触をする。男は心底嫌そうな横目で、この肥満家族を蔑視していたが、彼らに何か文句をいうことは一切なかった。

 店の客に対するクレームは、後ほど店の方に向けられるのだ。「マナーの悪い客をちゃんと注意しろ」だの、「あんな見え透いた手に引っかかって、余計なサービスをするな」などと注意をするのである。

 彼が言う「見え透いた手」とは、ドリンクにコバエが入っていたとか、バーガーの挟み方が雑だとか言って、半分以上口にしてからクレームをつけ、新しいものと取り替えることを要求するのだ。ひどい例では、トイレがあまりに汚くて子供が気持ち悪くなって吐いてしまった、どうしてくれるのか、といったクレームもあった。それぞれ代替品やら次回のクーポン券やらで対応していたが、そうした扱いを粘着クレーマー氏はよく見ていて、自分への対応と常に比較するらしい。

「ああいう悪質な奴らには毅然とした態度をとれ」などと、自分のことは棚に上げて叱責する始末だった。

 江尻は常に自分たちが試されていると思うことにして、穏やかに大人の対応をすることにしている。彼らもこの店の常連客には違いないからだ。不思議なことにクレームをつける客ほど、よく店に足を運んでいた。彼らが適度に現れることは、クルーたちに緊張感をもたらし、ひいてはスキルアップにもつながるのだ。

 こうしてブラックリストの客たちとも、長い付き合いとなっていくのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る