5 妖精の羽根に触れ

 デスクの椅子を刑事さんたちに明け渡して、僕とウルフはそれぞれのベッドに腰掛けた。それからウルフが今朝のことを順序よく話した。


「ですが、ここへ来た彼がマックス・アンドリューズだったとすると……なんとも奇妙な話ですね。ルームメイトの名前を聞かれて自分の名前を名乗るなんて。庇ったつもりだとしても、適当な偽名を使えばよさそうなものなのに。それも呪われていると思い込んで怯えていた人間が、自分の本名を言うものでしょうか」


 僕もウルフと一緒に首を傾げた。これは一体どういうことなんだろう。あの時、確かにウルフは『ルームメイトの名前は?』と聞いて、彼は即座に『マックス』と言ったのだ。その直後、少しだけ詰まったような感じを見せたけれど、あれはきっと呪いのことを思い出したからだろう。言ってしまってから呪いのことを思い出して、“しまった”ってなって、でも今さら言い直せなくてそのまま言ったんだろうと思ったんだけど……違ったのかな。

 髭の剃り残しを撫でていたサマーヘイズ警部が口を開いた。


「お前さんが人間関係の不和を睨んだのはどうしてだ?」

「私は始めに、呪うには最低限名前が必要だと伝えました。なのにルームメイトの名前を聞いた時にすんなりと答えたので。関係が良好であれば答えなかったか、答えるにしても躊躇うでしょう」

「なるほどなぁ」

「ええ。そう考えれば、彼が言っていた“呪い”の大半は、ルームメイトによる嫌がらせということで説明がつきます。携帯は充電口から塩水でも流し込めば簡単に壊せますし、財布や課題を盗んだり、使用する本を先回りして借りたりするのも、ルームメイトなら可能でしょう」


 ウルフは淡々と言いながら足を組み替えた。


「そういう人間同士のいざこざは、魔性ませい生物の大好物です」

「おっとぉ? 話がオカルトになってきたな」

「やめましょうか?」

「いやいや、続けてどーぞ」


 警部の雑な催促。若い刑事――ジャスパー・ルーサーと名乗った――は分かりやすく顔を歪めて、手帳にペン先を向けている。


「魔性生物の中でも精霊や妖精は、善悪で分けるのが非常に難しい存在です。理由は二つあると言われています。一つは、そもそもの価値基準が我々とは大幅にずれているということ。もう一つは、状況に応じて善にも悪にもなるという特性を持っていること」


 カリカリ。ペン先が手帳に文字を刻む。ウルフは彼の筆記スピードのことなんて歯牙にもかけていない調子で、流暢に言葉を紡いだ。


「この二つ目の方が曲者でして。特に妖精に関する研究において、人間影響論とかなんとか呼ばれている論説なんですが、要約すると――妖精は根源的には善性も悪性も持たない存在であり、人間の善意を吸って善性を、悪意を吸って悪性を得るのである――というものです。まぁこの論説はどうでもいいのですが」


 必死にメモを取っていたルーサー刑事がムッとした顔になってペンを倒した。ウルフは涼しい顔。サマーヘイズ警部は聞いているのか聞いていないのかよく分からない。


「ルームメイトであってもやりきれない悪戯がいくつかありました。本をすべて先回りして借りておくにも限度というものがありますし、鼻に虫がぶつかってきたとか外出のたびに車に轢かれかけるとか、そういうものはいくらルームメイトでもできないでしょう」

「確かになぁ」と警部の相槌。

「それで少し見てみたところ、彼には妖精の鱗粉が付着していました。おそらく、最初はルームメイトからのただの嫌がらせだったものと思います。ですが、それによって起きた感情の揺れに惹かれて、そういうものを好む妖精が寄ってきたのでしょう。いざこざをさらに炎上させるために、妖精自身も彼にちょっかいを出すようになったと考えられます」


 ルーサー刑事が溜め息をついた。胡散臭い、と思っているのが丸わかりだ。


「さらに、妖精の鱗粉が人間の感情を揺らすものであることは昔から分かっています。良い感情はより良い方へ。悪い感情はより悪い方へ。固まっているなら揺さぶって、揺れているならもっと揺らす。そういう性質を持っています」


 つまりそれは、と僕は考えを巡らせた。喧嘩がどんどんエスカレートして、いわゆる“魔が差した”って状態になりやすいってことだろうか。


「妖精側の意思である程度の方向性は決められるそうですけど。ピーターパンでは子どもたちがティンカーベルの鱗粉を浴びて空を飛びましたが、魔法界ではあれは“空を飛ぶ”という恐怖心、あるいは“空なんか飛べるわけがない”という先入観を消すための行為だったのではないか、と解釈されています」

「えっ、そうなんだ!」


 思わず声を上げてしまった。ウルフがこちらを見て、表情をやわらげた。


「面白いですよね。私も、初めて聞いた時は驚きました」


 その言い回しに、僕は何か引っかかるものを感じた。


「……ウルフも最初は、妖精の鱗粉は子どもたちを飛ばすためのものだ、って思ってた?」

「ええ、もちろん」

「それじゃあ……えーと……え?」


 言葉を探した瞬間、何を疑問に思ったのか分からなくなってしまった。掴んだはずの手が幻覚だったみたいに、もやっとした気分が残る。


「どうかしましたか?」


 なんでもない、と言う他なかった。

 サマーヘイズ警部がうーんと唸った。


「それじゃ、妖精がアンドリューズを突き落としたって言うのか?」

「“突き落とした”という表現には適しませんね」


 ウルフはなんとなく曖昧な言い方をした。


「それは、どういう?」


 と、きつい目つきのルーサー刑事。


「“足を滑らせて落ちた”なら可能性があるのです。妖精に出来るのはその程度のことですから。ちょっと目をくらませてハンドル操作を誤らせるとか、靴ひもを解いて転ばせるとか。彼らが直接人間に触れることはありません。触れたところで突き落とすほどの力は持っていませんし、魔法を使ったとしても、サイズが違いすぎるので突き落とすのは不可能でしょう。百歩譲って、何らかの手段で突き落としたのだとしても、それなら警部たちがいらっしゃるのはおかしな話です。妖精が犯人なら目撃されるわけがない。事件にすらならなかったはずです。転落は事故として処理されて、まぁ呪いだなんだの話で私のところへ来たとしても、呪いでないのが分かった時点で捜査はおしまいになるのでは?」

「ごもっともだな」


 サマーヘイズ警部は大仰に頷いて、腕を組んだ。


「ちなみにだが魔法使いの坊ちゃん。お前さん、アンドリューズがこの寮を出ていってから今まで、どこで何してた?」

「ずっとここで本を読んでいました。十二時頃、昼食を食べに食堂へ行ったくらいですね」

「そっちのあんちゃん、間違いないか」


 警部と目が合った。青みがかったグレー。煙草の煙が濡れたみたいな色。


「えーと、たぶん……? すみません、僕はずっと、寝てたので……」

「つまりアリバイは無いわけだ」


 ルーサー刑事が冷たく言い捨てた。

 ウルフはきゅっと眉根を寄せた。刑事さんを睨む。


「私がわざわざ直接突き落としに行ったとでも?」

「転落の現場に居合わせた人がいてね。その人の証言では、“赤い服を着たやつが逃げていった”、だそうだ」


 その言葉に僕は思わず息を呑んだのだが、ウルフは平然としたものだった。


「つまり刑事さんの捜査では、彼と同じ寮の生徒で赤い服を持っている人を一人も見つけられなかった、と。そういうことでよろしいですか?」


 痛烈な言葉に、ぐっと黙り込んだルーサー刑事。


「まぁまぁ、そう熱くなんなって」サマーヘイズ警部がへらへらと笑う。「お前さんがやったとは思ってねぇよ、坊ちゃん」

「ですから警部――」

「後で説明してやるから」


 ルーサー刑事の反駁を片手でいなして、警部は立ち上がった。


「さっき言ってた、妖精の鱗粉? それが悪い感情をより悪い方へ持っていくんだったら、突き落とした犯人はアンドリューズに嫌がらせをしていたルームメイトの可能性が一番高い、ってことでいいよな?」

「ええ。信じていただけるならば」

「参考程度にな」

「その程度で充分です」


 ウルフはにこやかに頷いた。

 不服そうなルーサー刑事を押し出すようにしながら、サマーヘイズ警部は部屋を出た。扉を閉める直前になって、顔を中に突っ込んできた。


「二年前のことは進展なしだ。悪いな」

「……いえ」

「大学、楽しくやれよ。じゃあな」


 パタン。扉が軽々しい音で閉まる。ウルフは黙ってデスクに戻った。僕は口をつぐんで、再びベッドに寝転がった。気分転換にも向き不向きがある。今は『怪盗パンクの愉快な仕事』の続きを読む気にはなれなかった。あんまりアホらしすぎて。


 もしかしたら、ウルフが人を殺そうとしたかもしれないのに。


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