第12話 根岸友山、近藤勇と対決す

 清河が約二百名の浪士組と共に京都を出発する二日前、その京都では“賀茂社かもしゃ行幸ぎょうこう”が挙行された。孝明天皇が賀茂神社で攘夷祈願をおこなうという一大行事だった。

 在位中の天皇の行幸は二百数十年ぶりのことだったので多くの人々が都大路みやこおおじに参集し、天皇の鳳輦ほうれん(天皇が乗る輿こし)に対して神仏をおがむように祈りを捧げた。

 この行幸には将軍家茂も随行した。家茂は行幸の最中、終始孝明天皇に対して臣下の礼を取らざるを得ず、将軍の権威失墜を満天下に見せつけることになった。

 しかもこの時

「いよっ、征夷大将軍!」

 と高杉晋作が将軍の間近から声をかけて、さらに将軍の権威を傷つけた。

 この賀茂社行幸を計画したのは長州藩である。むろん将軍の権威失墜を狙って計画したもので、高杉がそれにダメ押しをくらわせた形になった。


 この高杉の行為には多くの幕臣が憤慨した。そして長州藩そのものも憎悪の対象としたのだが、それはこのとき京都にいた近藤勇も同じ思いであった。

 もちろん近藤は武士ではなくて百姓の出である。しかし多摩の天領てんりょう(幕府領)で生まれ育ったため徳川家に対する忠誠心が強く、将軍に対する不敬は許せなかった。

 このことをきっかけに近藤は、長州人に対して強い殺意を抱いた。




 この頃、京都の幕府上層部はまったくのお手上げ状態だった、というのは前回書いた通りである。

 内政では長州の攘夷派に圧迫され、外交ではイギリスに賠償金の支払いを迫られていた。


 そんな状況の中で将軍家茂は京都へやって来たのだが、そもそもその目的は「朝廷に奉勅ほうちょく攘夷を約束する」ということなのである。

 家茂は上洛して三日後に御所へ参内さんだいした。そしてその際、天皇に攘夷を約束した。

 にもかかわらず、家茂(幕府)は「大政」を委任されなかった。

 朝廷は家茂に対して

「これまでと同様に大政は委任するが、事柄によっては朝廷が直接諸藩へ沙汰する」

 と回答し、事実上、幕府への大政の委任を拒否したのである。

 奉勅攘夷という火中の栗を拾わされておきながら(といってもただの口約束に過ぎず、幕府は実際に攘夷を実行する気などさらさら無いのだが)大政の委任まで拒否されたのでは、家茂としてもまったく踏んだり蹴ったりであった。


 この当時、幕府の政事せいじ総裁職そうさいしょくに就いていた松平春嶽しゅんがく

「このような状況では幕府はもはや“大政奉還”するしかない」

 とさじを投げ、辞表を叩きつけて福井へ帰ってしまった。

 また公武合体派の島津久光も一時的に鹿児島から京都へ出て来て、朝幕間の関係が改善されるよう周旋につとめたが、この攘夷熱が激しい中ではなす術がなく、五日間滞京しただけでさっさと鹿児島へ帰ってしまった。いつイギリス艦隊が生麦事件の報復で鹿児島に襲来するとも限らず、長く留守にすることはできなかったからである。

 さらに、幕府を補佐する立場にあった土佐の山内容堂ようどうも京都を去って帰国してしまった。

 このように、京都における幕府の味方はどんどん減っていった。


 そして幕府はこの後「具体的に攘夷の期限を設定せよ」と朝廷から迫られるのである。

 その朝廷を裏から操っているのが長州藩であることは言うまでもない。





 さて、それでは同じ京都の中でも、今度は壬生みぶにも目を向けてみよう。

 清河たちが去った後、壬生に残った浪士たちは二十四人になっていた。彼らは「壬生浪士組」と名乗り、全員、会津藩のお抱えとなった。


 たった二十四人である。というのに、それでも彼らは早くも三つの派閥に別れていた。「人が三人集まれば派閥ができる」という格言をどこかで聞いたことがあるが、この権力欲の強さは人間のごうとしか言いようがない。


 第一派閥は近藤派。近藤、土方、沖田、山南、永倉、原田、藤堂、斎藤、井上の九名。言わずと知れた、のちに新選組の中核となる連中である。

 第二派閥は芹沢派。芹沢、新見などの六名。これも言わずと知れた、のちに近藤派に粛清される連中である。


 ここまでは新選組の定番の話なので誰でも知っている話だろう。

 しかしこの物語の主人公、寅之助は第三派閥に所属している。ゆえに、この一派のことを詳しく見てみたいと思う。


 この一派は合計九名いるのだが、それも更に二派に分かれており、根岸ねぎし友山ゆうざんを首領とする吉田寅之助、清水五一ごいちなどの根岸一門と、幕府の鵜殿うどの鳩翁きゅうおうに願い出て京都に残留した殿内とのうち義雄よしお家里いえさと次郎つぐおたち、の二派があった。ただし殿内も家里も元は根岸隊に所属していた人物なので、友山の関係者ではあった。


 友山が残留した理由は前回書いた通り、長州藩や清河と親しい友山としては、なんとか近藤たちを長州の尊王攘夷派に引っ張り込みたい。また友山自身としても、まだ京都に着いて間もなく、こちらで多くの尊王攘夷派と交流しようと思っていたので、清河のように早々に江戸へ戻るわけにはいかなかった。だから根岸隊の本隊だけ清河と一緒に江戸へ戻したのである。

 しかし殿内と家里の考えは違う。特に殿内の考えとしては、壬生浪士組の組長となって「第二の清河」になりたかったのだ。そのため殿内は鵜殿に新しい浪士募集の許可を求めた。鵜殿としても、芹沢のような乱暴者に壬生浪士組を任せたくなかったので殿内に浪士募集の許可を与えた。そして殿内は友山を味方に引き込んで多数派工作をはかり、壬生浪士組の主導権を握ろうとしたのである。

「根岸先生。私は鵜殿様から新しい浪士募集の許可を得ております。私が先生を押し立てますので、どうかご協力していただけませんか?」

 殿内はこう言って友山に協力を求めた。

 友山としても、とにかく多数派を形成すれば近藤たちを圧倒することができると思い、殿内の提案を受けいれた。


 そして八木源之丞邸で、この三派の代表を集めた会合が開かれた。

 出席したのは近藤派の近藤と土方、芹沢派の芹沢と新見、そして根岸派では友山と殿内が出席した。

 一同を前にして、まず土方が口を開いた。

「ご公儀も多事多難の折り、我ら一同、会津様のもとで一丸となって忠勤に励まねばなりません。そのためにはまず、我らの組長を決めたいと思いますが」

 これに殿内が答えた。

「それは当然、最年長の根岸先生しかおられますまい。そもそも大勢の門下生を率いて浪士組の一番組を率いておられたのですから、清河さんの後任は当然、根岸先生でしょう」

 そこで芹沢が、いつものように乱暴に言い放った。

「その門下生も清河もみんな江戸へ帰ったじゃねえか。もう清河なんか関係ねえんだよ。ジジイはすっこんでろ」

「無礼な!」

 と友山と殿内が叫んでいきり立ったが、芹沢は相手にしようともしない。文句があるならかかって来い。遠慮なくたたっ斬ってやる、という表情である。


 続いて新見が嫌味な笑みをうかべつつ、意見を述べた。

「やはり組長は芹沢先生がふさわしいでしょう。会津藩に一番顔が効くのは芹沢先生ですからな。根岸先生は、長州藩には顔が効くようですが壬生浪士組の組長としてはいかがなものですかな」

 これに土方が続いた。

「私も同感です。組長は近藤先生か芹沢先生がなるべきです。ところで、我々はこの八木家に居を定めているが、近い内に根岸先生もこちらに合流されてはいかがですか?」

 殿内が答えた。

「そなたたちこそ、根岸先生がおられる中村邸に移られるべきであろう」

 近藤、土方、芹沢、新見は鼻で「ふっ」と笑って、殿内の発言を一蹴した。

 ちなみに近藤派と芹沢派はこの八木源之丞邸に、そして根岸派は中村小藤太邸に居を構えていた。

 とにかく会議の流れとしては、近藤派と芹沢派が協力して根岸派に対抗している、という構図が明白に見てとれた。

 彼らからすれば根岸派など烏合の衆も同然だと思っているが、一応人数は九名とそれなりにいるので油断せず協力して、まず根岸派を叩き潰しておこうと考えたのである。


 ここで友山が話を変えて、近藤に質問した。

「近藤殿にお尋ねいたすが、貴殿はどのような考えでこの京を警固するおつもりか?」

 近藤は黙ったまま答えない。代わって土方が答えた。

「我らは上様をお守りするため京に残ったのです。それ以外に何の目的がありましょうか?」

「では、上様が東帰された後は、我々もそれに従って東帰するということか?」

「我々は全員、会津様の指揮下に入ったのです。上様が東帰されても、我々は京に残るしかないでしょう」

「では我々が京で攘夷を実行する場合、会津様の方針に背いてはできないということか?幕府や会津様が攘夷を実行しない場合はどうするのか?」

 ここでようやく近藤が口が開いた。

「根岸先生。私には難しいことは分からない。ただし」

 と、ここまで言ってから近藤は立ち上がり

「上様を愚弄ぐろうする長州の連中を私は絶対に許さない。その長州と繋がっている連中もな」

 そう言って近藤は部屋から出て行ってしまった。近藤による友山への挑戦であることは明らかだった。

 このように、不穏な空気をただよわせたまま、この日の会合は散会となった。




 その頃、壬生浪士組の剣士たちは近くの壬生寺みぶでら境内けいだいで剣術の稽古に励んでいた。それで寅之助もこれに参加した。

 寅之助は山南敬助と組んで打ち込み稽古をしていた。

「千葉道場の人と稽古をするのは久しぶりだ」

 と山南が寅之助に言った。

「試衛館の稽古は、やはり違いますか?」

「全然違うな。試衛館の稽古はもっと荒っぽい」

「へえー、そういうもんですか」

「ところで、吉田君は実際に人を斬った事があるか?」

「いいえ。ありません」

「やはりそうか。君は“剣術”は上手だが、“人斬り”には向かないかも知れんな。君の剣には気迫、というか殺気があまり感じられない」

「はあ……」

「これから先、我々はこの京で多くの人間を斬ることになるだろう。そして斬らねば逆に我々が死ぬことになる。その点、試衛館の剣術は実に実戦的で……」

 と山南がしゃべっている途中で沖田総司が、二人の会話に割って入って来た。相変わらず色黒で、ヒラメのような顔をしている男である。

「やあ、吉田さん。いっそ私と稽古してみませんか?話で聞くより、実際に稽古してみればすぐに分かりますよ。なに、どうせ竹刀の稽古だ。死にやしません」

「いいでしょう」

 それで二人は稽古、というよりも試合をすることになった。むろん二人とも防具をつけての立ち合いである。


 なるほど確かに、寅之助はすぐに分かった。

 試衛館の天然理心流は力強い。そして攻撃の手数が多い。ただし攻撃偏重の分、ところどころにスキがあり、防御はあまり上手くない。少なくとも竹刀であれば反撃は難しくない。

 寅之助は以前、千葉道場で有村次左衛門の示現流じげんりゅう(実は薬丸やくまる自顕流じげんりゅう)と稽古したことを思い出した。有村の剣は、これよりもさらに極端な「攻撃一辺倒」の剣だった。そして一つ一つの攻撃が重かった。それに比べれば、沖田の剣はかなり洗練された「攻撃一辺倒」という感じだった。

 一本を取った数でいえば寅之助のほうが多かったであろう。しかし沖田はそんなことにはお構いなしで、次々と寅之助に攻撃をしかけてきた。

 特に突きの攻撃が凄まじく、寅之助は一度まともに食らってしまった。食らったあとはしばらく声が出せないほど喉が苦しかった。


 試合が終わったあと、沖田が面を外して寅之助に声をかけてきた。

「さすが竹刀を使うのはお上手だ。真剣でもあれぐらい素早く使えれば良いですけどね」

 こう言われて寅之助は不快に思ったものの、実際に沖田と打ち合った者としては、沖田の言葉には真実味があった。

「真剣で人を殺す時には、やはり突きが一番ですよ」

 最後にそう言って、沖田は寅之助のもとから去って行った。




 その晩、寅之助は友山に連れられて河原町の長州藩邸へ行った。現在の場所で言えばホテルオークラのあたりである。

 二人はそこで久坂玄瑞と再会した。他にも何人かの長州藩士が同席していたが、その中には伊藤俊輔もいた。

 寅之助はこの席で、京都における尊王攘夷派の活躍についていろいろと耳にした。その中には次のような話もあった。

「この前の賀茂社行幸に引き続き、来月には石清水いわしみず八幡はちまんへの行幸も計画している。これでいよいよ、将軍は攘夷実行を避けられなくなるだろう」


 ところで、この友山と寅之助による長州藩との接触は、別に幕府や会津藩への裏切り行為というわけではない。

 この時点においては、長州藩士は幕府から取り締まられる対象ではない。そうなるのは、もう少し後の話である。

 むしろこの頃は、近藤も、そして会津の松平容保も、将軍(幕府)による攘夷実行を望んでおり、長州藩が将軍に攘夷の実行を迫っているのは、近藤からすれば、それを迫っているのが長州藩であるというのは気に入らないが「将軍による攘夷実行」ということには、諸手を挙げて賛成なのである。


 このあと、寅之助は久坂や伊藤など長州藩士たちと祇園ぎおんへくり出した。

 特に寅之助は品川で伊藤と遊んだ仲だったので、この祇園でも伊藤の案内でいろんな店へと連れて行ってもらった。なにしろ伊藤は品川だけに限らず、この祇園についても隅から隅まで知り尽くしている男なのである。

「しかし吉田さん。あなたと京で会えるとは思っていなかった。しかもあの浪士組に入っておられたとは驚きだ。これからは我が藩と浪士組が力を合わせて、必ず攘夷を実行しましょう。イギリスなんかやっつけましょう!」

 伊藤は、まわりに美妓びぎはべらせた酒の席で、寅之助にこう語った。


 一方、寅之助としては伊藤の変わりように驚いていた。

 江戸で会っていた頃、伊藤はまだ藩の使い走りをするような立場だった。そのため身なりもあまり良くなかったが、今や正式な藩士となって(といってもまだ準士じゅんさむらいやといという低い身分だが)身なりも整え、いっぱしの武士らしくふるまっていたのだ。

 そして伊藤の体から発せられる雰囲気も、あの品川の時とどこか違っていた。

 確かにあの時も伊藤には何か不穏な雰囲気は感じられたのだが、今回は、そこに明らかな凄みが加わっているように感じられた。

 伊藤は昨年の十二月、御殿山のイギリス公使館を放火し、はなわ次郎を暗殺した。

 物事の善悪は別として、伊藤はとてつもない事を自分の手で実際に行なったのである。それを「自信」と呼んで良いのかどうかは難しいところだが、とにかく「自分は凄いことをやった」という自負心となって、それが伊藤の体を通して寅之助に伝わっていたのであろう。もちろん寅之助は、伊藤の凄みにそんな背景があることなど知る由もなかったが。




 この晩、寅之助と伊藤は祇園に「居続け」をせず、夜も深まったところで自分たちの住み家へ帰ることにした。そして四条大橋まで歩いて来た。

 そこで寅之助は近藤と沖田に出会った。

「これはこれは近藤先生に沖田さん。あなた方も祇園からのお帰りですか?」

 これに近藤が答えた。

「貴様は確か、根岸先生のところの吉田、とか言う男だな。お前たちと一緒にするな。我々は町を見回っていただけだ。ところで、そこに一緒にいる男は誰だ?やはり長州の人間か?」

「……」

 寅之助は答えなかったが、伊藤が自分から名乗り出た。

「いかにも拙者は長州藩士、伊藤俊輔である!そなたたちこそ、何者だ!」

「やはり長州か。いかにもふてぶてしいツラをしている。どこかで天誅と称する暗殺でもやってそうなツラだ」

 伊藤は一瞬ギクッとした。

「俺は浪士組の近藤勇という者だ。将軍家に対する長州の度重なる無礼は許せん。貴様、何か申し開きをしてみろ」

「何を言うか!幕府が攘夷を実行せぬから悪いのだ!幕府こそ、朝廷に対する数々の無礼をわびるべきであろう!」

「幕府は必ず攘夷をやる。そのために我々が京へ来たのだ」

「幕府にそんなことをやる度胸はない!」

「バカを言え。幕府がやらないで他に誰がやるというのだ。朝廷には兵もないのだぞ」

「だから、我が長州がやるんじゃ!」

「威勢がいいのは結構だが、長州にどれほどの力があるのか、試しに貴様の腕前でも見てやろう」

 そう言って近藤は刀を抜いた。そして沖田は素早く寅之助と伊藤の後ろへ回って、刀を抜いた。


「待ってください、近藤先生!こんな些細な言い争いで人を斬るなど、やって良いことではありませんよ!」

「吉田。お前もこんな不逞ふていやからと遊び回っているようでは“士道しどう不覚悟ふかくご”で同罪だ。二人とも仲良くあの世へ送ってやる」

「吉田さん。昼間の続きですね。今度は真剣だから、竹刀のようにはいきませんよ」

 と、沖田がひょうひょうと言った。


 寅之助は「バカげている」と思った。

 なぜ近藤も沖田も、こうもあっさり真剣を抜くのだ。武士が刀を抜いたが最後、どちらかが必ず死なねばならない。だがこの場合、死ぬほどの理由などどこにも無いではないか、と。

 一方、寅之助の脇にいる伊藤は剣の心得もロクにないので、ただただ震えるばかりだった。


 この時、沖田の背後から

「どうした、俊輔!そこで何かあったのか?」

 と声がかかった。久坂たち長州藩士の一団が通りかかったのだ。人数は十数名ほどで、彼らもまた、祇園から帰る途中だった。


 近藤と沖田は一瞬、その長州藩士たちに気を取られた。

 その一瞬のスキに、寅之助と伊藤は迂回して沖田の横を抜けようとした。

「逃がしてたまるか!」

 と沖田が二人を追って斬りつけようとしたところ、近藤が止めた。

「よせっ、総司!もういいっ!」

 近藤としても、こんな些細なことで長州藩士の一団と斬り合いをやるのはバカバカしいと思った。そして沖田を連れて足早に、その場を去った。


 寅之助と伊藤は何とか久坂たちと合流して、難を逃れた。

(まったく狂犬のような奴らだな。試衛館の連中というのは……)

 寅之助はそう、実感した。





 この翌日の夜、同じ四条大橋で殿内義雄が斬り殺された。

 殺したのは近藤勇である。

 そしてこの時も沖田が同行しており、二人がかりで闇討ちした。

 以前、清河を討ち漏らした近藤としては、必殺の構えで殿内を仕留めるつもりだった。

 殺された殿内は旅姿をしていた。これから大坂へ行って新しい浪士の募集を行おうとしていた矢先に、殿内は殺されたのだった。


 のちに「新選組」でくり返されることになる内部粛清の第一弾が、これである。


 この近藤のやり方は効果てきめんだった。

 近藤たちが次に根岸友山を狙ってくるのは火を見るよりも明らかで、事実、寅之助もすでに狙われたばかりであったし、殿内殺害が判明したその日のうちに友山は

「伊勢神宮へ参拝に出かけてくる」

 と家主の中村小藤太に告げ、寅之助や清水五一などを引き連れて即日京都を脱出した。むろん京都に戻る気などさらさらなく、このまま江戸へ帰るつもりである。


 この友山の一行に、なぜか家里次郎は加わらず、京都に残った。そして家里はこの一ヶ月後、大坂で近藤たちによって切腹されられてしまうのである。これは内部粛清の第二弾目ということになるが、やはり友山の読みは正解だったと言わねばなるまい。

 とにかく、壬生浪士組における第三派閥・根岸派は、この殿内殺害によって一発で消滅させられたのである。


 これから長州などの尊王攘夷派と関係を深めようとしていた友山にとっては、まことに不本意な江戸帰還となった。

 とはいえ、そもそも友山の実力で、近藤や芹沢を従わせて長州派へ引き込もうとする計画自体に無理があったと言うべきだろう。結局、友山や寅之助たちは江戸へ戻って清河の浪士組へ合流することにしたのである。

 寅之助としては、あの凶暴な芹沢と近藤から離れられるのは、ある意味ホッとする気持ちもあった。しかしそれでもやはり、このように追い立てられる形で京都を去るのは友山同様、不本意だった。

(これで当分、京の都も見納めか…。いつかまた、戻ってこられる日があるだろうか……)

 と後ろ髪を引かれる思いで京都を後にした。


 ちなみに、この近藤による殿内殺害については近藤本人が郷里へ送った手紙で「殿内義雄(中略)四条橋上にて討ち果たし候」と殺害を認めている。


 一方、友山がこのあと近藤と再会することは二度と無かった。

 そして友山は後年、自伝の中で「近藤勇という者は思慮もない痴人ちじんなり」と、こきおろしている。

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