op.28

 「適当に寛いでいてくれ」


 生まれてはじめてスイートルームに通されたが、額面通りにくつろぐことなど出来っこなかった。

 テレビの画面越しにしか見たことがなかった洋間は、足を踏み入れるのも躊躇われるような深紅のカーペットが敷き詰められ、これほどの広さが一人で必要なのかと疑問に思うほどの部屋数を誇っていた。

 生憎の荒天だが、晴れていればさぞ展望が良さそうな高階層からの眺めは、まさに成功者の証といえるだろう。

 いったい一泊何万かかるのか想像することすら出来ない自分の感性が虚しくなる。


 ホテルに辿り着くまでのタクシーの車内、暇がてら手持ちのスマホで「宇崎京介」と検索を試みた。スマホに機種変更してから、わからないことはすぐに調べるのが習慣となっている。

 現在日本でコンサートのみで食べていけるピアニストは数える程度しか存在しないが、そのなかでも群を抜いているのが宇崎であることはわかった。

 年収はもちろん非公表だが、スイートルームに連泊するくらいなので納税額も桁が違うのは想像できる。

 音楽家として国内の知名度はナンバーワン。世界的にも「UZAKI」の名はユニクロ並に周知されている。

 集客力は言わずもがな。S席ウン万円のプレミアチケットでさえ、販売を開始した直後、物の数分で完売するという音楽界の化け物だ。

 そんな男を海の底より深く憎んではいるものの、いちピアニストとしては遥か高みの雲上人であるのは間違いなかった。

 そんな男が目の前にいる事実に、未だ信じられないでいる。


 自分で淹れるのは苦手なんだが、と淹れたてのコーヒーを手渡され、体が埋もれてしまうほど柔らかいソファに腰掛けた。

 コーヒーから立ち上る湯気だけが、この部屋で唯一温度を感じさせてくれる。


「さて……先程の話の続きだが、私は長年君を探していた。それは妻の願いでもあったし、私自身の贖罪でもあった。もし君が望むのなら何でもするつもりだ」

「ふん。後ならなんとでも言えるよな。結局お前が俺から全てを奪っていった事実は変わらないんだよ」

「それは否定しない。後出しも甚だしい事は重々承知の上で提案しているからな。ところで、 という少女を知っているよね」

 何故、ここで宇崎の口から真莉愛の名が?

 宇崎にたいする警戒度は一気に跳ね上がる。


「俺のこともそうだが、その名前をどこで知った。教えろ」

 いったい何を考えて近寄ってきたのか――事と次第によっては病院では避けた面倒事をここで行わなければならない。

「落ち着いてくれ。そもそも素人の私がどうやって律人君を見つけたのかをまだ話してなかったね」

 猫舌なのか、慎重に一口すすってから、話を続けた。


「私は以前から日本と海外を往復する生活を送っていた。日本に帰国する度にこうしてホテルで寝泊まりをしながら君と奏太くんを探していたのだが、一向に見つけられずに時間だけが無情にも過ぎていった。だが去年の夏頃、いつものようにホテルの一室を仮宿にしていると、一通の茶封筒が届いたんだ。どうやって調べたのか知らないが、その封筒の中には律人君のこれまでの境遇を纏めたレポートと、顔写真、それに住所までご丁寧に記されていた。その時……初めて知ったんだ。弟の奏太君と、お父さんが火事で亡くなったことを」

「ふん。その送り主が何処のどいつか知らないが、そこまでしてご苦労なこったな。それよりお袋はどうしてるんだ。元気にやってるのか」


 母の近況を尋ねた瞬間、宇崎の顔は僅かに曇った。それだけの変化だが、察するには十分だった。

「妻は、先月亡くなった。乳ガンだよ。気付いたときには既に手遅れだった」

 死に目に会えなかったと呟く宇崎を、いっそのこと蹴飛ばしてやりたかった。

 死に目に会えなかっただと?こっちは今生の別れを幼い頃に経験してんだよ。

「そうか」

「それほどショックを受けないんだな」


 俺の変化のなさに、少し哀しそうな顔をみせる。俺に声を大にして泣けとでもいうのか?それは無理な要求だ。

 確かに宇崎の言う通り、自分でも驚くほどショックを受けていない。母とはもう二度と会うことは叶わないと、子供の頃にはとっくに覚悟していたし、母に対して思うところはあっても親子の情は失って久しかったから。

 それよりも――家族を捨ててまで手に入れようとした幸せは、その汚れた手で掴めたのかが気になった。


「妻は、ピアニストとして成功する夢をずっと抱えていたんだ。それがいつしか焦りに代わり、私に指導してくれとすがりついてきた。初めはもちろん指導するつもりなんてなかったし、正直言って才能は無かった。ただ、私はそんな彼女に恋してしまった。人のモノだと知りながらね」

 愚かな過去を嘲り笑うように、幾らか声のトーンを上げながら話す。

「それでレッスンすることを条件に手を出したって訳か。マスコミが知ったらさぞ盛り上がりそうな話だな」

 手は出してないよ、と力なく笑いながら弁明するが、気に入らない。何もかもが気に入らない。


「だが、自分の人生をかけてレッスンを受けていたその頃、彼女は愛する息子のなかにピアニストとしての原石を見いだした。平凡な才能とは一線を画す輝きの、天賦の才を見つけてしまったんだ。すると途端に自分のやってることが虚しくなったと、後に語っていた。あの時の寂しげな顔は忘れられない」

「……お袋が、そんなことを?」


 お袋がどう思っていたのか、本当のところは誰にもわからない。別に俺自身才能があったとは思っていなかったし、所詮路傍の石にすぎないと自己評価していたくらいだ。

 そんな俺を捨てたくなるほど羨んでいたというのか――なんて、哀れな人だったんだ。


「そうではない。亡くなる数週間前、妻は死期を悟ったように全てを語ってくれたんだ。昔、君という一人の偉大なピアニストを十分に育てることが出来なかった。それは私の最大の罪だ、とね。運悪く同じ時期に家庭環境が大きく変わってしまったことが引き金となって、彼女は精神こころを病んでしまったんだ」

「そういえばよく帰ってこない日が続いていたな。あれはアンタと過ごしてたってわけか」

「ああ……彼女は揺れていたんだよ。母親としての責務、自分の夢、息子の夢、取捨選択しようとして、それが出来ずに私は昼夜関係なく彼女に寄り添った。それでも私は幸せだったんだけどね」

 だけど、それだけでは満足できなくなってしまった――そう宇崎は俯いて告げた。


「全てを捨てさせなければ壊れてしまう――そう考えた私は、彼女を自分のモノにしたいという薄暗い欲望にぴったりの免罪符を見つけた。そうしてさらっていくように君達からお母さんを奪った。これが二十年前の真実だよ」

「なるほど……確かにアンタは地獄に堕ちるべき人間なのはわかった。それは償ってもらうとして、お袋は自分から出ていったわけではないんだな」

「ああ……すべて私が仕組んだことだ。そして妻はこうも言っていたよ。『絶対に息子を見つけ出してくれ。それが息子を捨てた私と、息子から母親を奪った貴方の償いだ』とね。結局私は妻から愛されてなどいなかった。タクシーでも話したけど、人の不幸の上に成り立つ幸福なんてまやかしに過ぎないんだよ」


 いつの間にかコーヒーの湯気は消えていた。冷めて、温度がなくなっていく。


「だから、私は君が望むなら何だってするつもりだし、死ねというのならこの命だって捨て去るつもりだ」

「何でもだ?なら目の前から消えてくれ……。いや、違うか。ここはお前が借りてる部屋だったな。なら俺が目の前から消えるとするよ。それでアンタとはおさらばだ。永遠にな」


 

 今日聴いたことは全て悪い夢だ――きっとそうに違いない。とっとと横になって忘れてしまおう。

 ソファから立ちあがって扉に向かう俺に、宇崎は引き留めるように声をかけてきた。


「そうだ。金銭面でも苦労することはあるだろ?言ってくれればいくらでも支援する。どうだ?」

「金はいらない。アンタの施しなんぞ受けるつもりは毛頭ない」

「じゃあ」

 しつこいと、一喝しようとしたその時、

「なら、せめて真莉愛ちゃんの夢を叶える手助けをさせてくれないか?」

 その瞬間、宇崎は掛け値なしの地雷を踏み抜いてしまった。本人が自覚してるかどうかは知らないが。


「……今、なんて言った?真莉愛の手助けだと?お前、お袋に飽き足らず、奏太も真莉愛でさえも俺から奪っていくつもりかよ!」


 そういえば、どうして真莉愛の事を知ってるんだ。それも得体の知れない怪文書とやらに紛れていたのか?

 その問いに、真莉愛がショパンの練習曲エチュードを弾いている動画を観て知ったと答えた。後藤とやらが投稿した動画を観て知ったらしい。


「では聴くが、彼女をピアニストとして大成させることが、今の君に出来るのか?侮辱してるわけではなく、これは現実的な話だ。この世界は才能だけではいかんともしがたい壁が存在するんだよ。それを乗り越えるには運も必要だ。彼女は僕の目に留まった。そして可能性を見出だされた。これは巡り合わせだとさえ思った。だから、もし彼女の夢を応援するのなら、僕に面倒を見させてくれないか?それからならどれだけ非業な死を遂げたって構わない」


 端から見れば完璧な話なんだろう。これ以上ないってくらいに。だが、それを「喜んで」と受け入れられるほどの精神的余裕はなかった。

 真莉愛の面倒は俺が見ると覚悟していたのに、心が折れそうなことだって何回もあって、その度に乗り越えてきたというのに、ピアニストになりたいという夢を叶えさせる為なら、いくらでもこの身を捧げるつもりだったのに――

 それが、横から突然しゃしゃり出てきた天才ピアニストに、全てを一瞬にして奪われてしまいそうな恐怖に襲われて目の前が真っ暗になった。


「その様子だと……真莉愛ちゃん本人からは何も話を聞かされてないようだね」

「……なんの事だ?」

 もういい、止めてくれ。それ以上その口を開かないでくれ。

「もう一ヶ月くらい前になるが、私は真莉愛ちゃん本人とやり取りをしていたんだよ。本人から明確な返事はもらってないが、私の師事を受けるつもりはないかと打診はしてある。今年中に拠点をオーストリアに移すつもりだから、彼女がその気なら断りはしないだろう」


 なるほど、外堀は埋められていたというわけか――


「ゴホッ、ゴホッ」

 風邪が悪化したのか、ふらつきと共に突然咳が酷くなり、開けようとしていた扉にもたれ掛かるようにして倒れてしまった。

 今までに経験したことがないくらいの息苦しさに襲われ、呼吸もままならない体から意識が次第に遠退いていく。

「おい!大丈夫か!?」

「だい、じょうぶだ。ちょっと、風邪が悪化した、だけだ……」

 ただならぬ様子に初めて慌てる素振りをみせた宇崎は、すぐにフロントへ電話をかけ、薬を持ってくるように話していた。

 その隙に、誰にも見られないように口許を抑えていた掌を確認する。

 そこには、禍々しいほど鮮やかな血がべったりと付着していた。

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