最終章:いま、自分にできること

脳神経外科医は気難しい?

 伊井が医局の窓から外を眺め、うーん、と伸びをした。


「なーんか、あったかくて気持ちいい気候になってきたな。こんな日はゴルフでも行きたいな」


 言いながらスイングの真似をした。


「っていうかお前行ったことないだろ」


 裕太がソファに腰掛けながら、呟いた。視線は新聞に向けたままだ。


「だって、裕ちゃんが練習に連れて行ってくれないからだろ」


 裕太は新聞から目を離し、伊井を睨みつけた。


「この前打ちっぱなしに連れてってあげたとき、結局一時間のうち、半分以上は受付の女の子口説いてたじゃねーか。あの子完全に嫌がってたぞ」

「そうか? 話してたら盛り上がっちゃっただけなんだけど」

「俺はな、お前がゴルフ教えて欲しいっていうから、レッスン本も購入して、こんなこと教えてとか、動画撮影の準備とかかなり用意してったんだぞ? それがお前は一向に受付から帰ってこなかったくせに。ふざけんなよ」


 まあまあ、と伊井は裕太の肩を押さえた。


「今度はちゃんとします、はい。真面目にやりますから。だってこの前も病院のコンペがあっただろ? 色々偉い人と仲良くなれるんだってな、ゴルフって」


 裕太はふう、と息を吐くと、再び新聞に視線を戻した。


「まあな、この前は脳神経外科のうげの有栖川部長と一緒に回った」


 伊井が顔色を変え、裕太の隣に座り込んだ。


「裕ちゃん、まじか。いいな、有栖川部長ってイケメンだし、やさしいし、何しろHardyハーディできる日本で限られた5人の中の一人だろ? お近づきになりたいわ」


 Hardyハーディとは経蝶形骨腫瘍摘出術の別名で、通常脳腫瘍(頭の中のガン)は頭の外から頭蓋骨を削って脳にたどり着く。しかしこの方法は口の中からアプローチするため、頭の骨を削る必要もなく、ターゲットとする脳腫瘍へ到達するまでの大事な臓器を痛めにくい。もちろん難易度は跳ね上がる。

 伊井は乙女のように空中に有栖川のイケメン顔を思い浮かべていた。


「特別だよねぇ、有栖川先生は。脳神経外科のうげの先生って言ったら、ほとんどとっつきにくいんだけど。あの先生だけすっごく話しやすいし」


 水野は家から持ってきた冷凍ご飯を医局の共同冷凍庫に入れるところだった。そのまま一緒に持ってきたレトルトの牛丼の素まで冷凍室に入れた後、間違えたことに気づいて、取り出した。

 伊井が、水野を指さした。


「そ。とっつきにくいと言えばこの前の当直の時なんかくも膜下出血ザーの人がいて、脳神経外科のうげオンコールが医長の重田先生でさ、『脳出血の人の相談です』って言ったらさ、来た後『脳出血じゃないじゃないか、くも膜下出血ザーだろちゃんと診断しろ』って言われた。もうそんなのどっちでもよくね?」


 裕太が新聞をめくった。


「ま、俺らには一緒に見えても専門家からしたら全然違うんだろうよ。実際違うし」

「おんなじだよ、頭ん中の出血なんだから。それにCT見ればそんな違いわかるだろ? ほんっと脳神経外科のうげの先生って細かくてとっつきにくいわ」


 裕太が新聞を折りたたんで、机の上においた。


「あのな、脳神経外科のうげの先生方は1mm未満の神経とか血管と戦ってんだよ。ほんの1mmずれただけで神経が切れて、一生顔とか腕とか動かせなくなるんだぜ? そりゃ一つ一つのことに大切に向き合うに決まってるだろ、伊井みたいな適当な人間には理解できない世界なんだよ」


 伊井は口をへの字にして、肩をすくめ、はいはい、と答えた。

 さっと医局のドアから廊下を見ると、伊井が何かを見つけた。


「お、噂をすれば……」


 走りだしながら、有栖川せんせー、と大声をかけた。

 廊下を歩いていた有栖川が、伊井をみた。


「おお、どうしたね」

「先生、昨日のゴルフはバーディ3つも取ったみたいですね。ハーディが得意な先生はバーディも取っちゃう、すごいですね!」


(あいつ、どこからそんな情報……)


 裕太が眉間に皺を寄せていると、有栖川が裕太を見つけた。


「おお、城光寺先生」


 裕太が立ち上がり、会釈をした。


「有栖川先生、昨日はありがとうございました」

「いやいや、こちらこそ。君の必殺技、ほんとにすごかったね」

 

 裕太と、有栖川がにこやかなのを見て、伊井がタイミングを伺っていた。


「必殺技……なんでしたっけ?」

「ほらあの、なんだっけ、旗包みじゃなくて……」

「あぁ、いなづま落としですか」


 有栖川が、そう! と目を丸くして、指をさした。


「あれは見ものだった」


 旗包みといえば、昔のアニメ、プロゴルファー猿で使われていた架空のショットで、ピンについている旗にボールを当て、そのままカップインさせるものである。一方でいなづま落としとは裕太が勝手につけた名前で、ゴルフボールがピンのちょうどてっぺんの頂点を突撃し、そのまま強いはずみでグリーンを飛び出し、OBエリアまで飛んでいった昨日のショットのことを指す。

 カップインする旗包みのミラクルショットとは逆に、OBという2打ペナルティを受ける「いなづま落とし」はスコアとしては不運極まりないショットだった。


「先生あのホール、バーディでしたよね」

「そう、君のおかげでなんか行ける気がしたんだよね」

「いえいえ、先生の実力ですよ」


 どんどん盛り上がる話をよそに、伊井がだんだんイライラしてきた。


「いーですね、ゴルフ。今度是非ご一緒させてください!」

「ぜひぜひ。君はやらんのかい?」


 有栖川がおしゃれな口ひげをしごきながら、水野を見た。


「あのぉ、昔はやってたんですけど今は全然」

「うそっ! 水野先生ゴルフできたの? 初耳だわ」

「もう何年もやってないからね」


 有栖川がすらっとしたIのシルエットで、腰に手を当てた。


「ふむ、ベストスコアは?」


 水野がもじもじした。


「いちおう……71です」


 裕太と有栖川の表情が凍りついた。その意味がわからず伊井が二人の顔を見合わせた。


「えと、それってすごいんですか? 裕ちゃんが102って言ってたから、それよりはだいぶ劣ってるのかな?」

「伊井……お前、ゴルフのルール本当に分かってないんだな。71って言ったら、プロ目指せるぜ。アマチュアの中では間違いなくトップに食い込んでくる」


 水野は首を大きく振り、いやいやいやいや、と叫んだ。


「昔無理やり連れて行かれてさ、あっちはラウンドも安いし。お遊びゴルフだよ。今はもうやってないし」


 有栖川が水野の肩に手を置いた。


「水野先生、是非今度お手合わせ願いたい。よろしくお頼むよ」


 は、はい、と力なくうつむいた。



 有栖川が医局を去った後、伊井はソファにもたれかかり、手を頭の後ろで組んでいた。


「あーあ、いいな、みんなゴルフできて。俺ももっと親父について行ってればよかった」

「その前にまずお前はルールを勉強しろ」


 はいはい、と鼻くそでもほじりそうな表情を浮かべていると、突然八反田が医局に駆け込んできた。


「いたいた、ちょっと君ら救急外来きゅうがい来てくれる、手を貸してくれ」

「どうしました?」

「兄弟喧嘩による頭部外傷ってことなんだけど、様子がおかしい」


 水野が不安そうな表情を浮かべた。


「出血してるんですかぁ」

「わからない。意識はないし、他のバイタル(血圧など)もおかしい。ちょっと危ないかも」


 3人は顔を見合わせた後、急いで救急外来きゅうがいへ向かった。

 

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