それぞれの明日

「失礼します」


 512号室では、ベッドにいたひなたと美沙子がじゃれあって遊んでいた。美沙子の背中には太陽の光が差し込んでいた。


「あ、じょー先生来たよ」


 あ、と言いながらひなたが手を上下に大きく動かしていた。それを見て裕太は思わず笑みが溢れた。


「血液検査の結果ですが、全部順調でした。この結果を踏まえて考えなければいけない大事な話があります」


 美沙子はひなたと遊ぶのを止め、真剣な表情になった。裕太も鋭い眼差しを向けた。


「考えなければならないこと。それはいつ退院するかです」


 美沙子は、えっ、と声を漏らした。


「退院できるんですか? やったー、ひな、退院だって!」


 ひなたは、美沙子を見ながら、おちぇ、あちゅじ? などと言っていた。それに何度も頷く美沙子。

 まだ問題点は多数残っていた。ひなたはまだしっかり喋れていない。そして受け答えもまだちぐはぐなところがある。発達障害という形での障害は残る可能性もまだあった。


「リハビリはまだ続けましょうね、言葉の訓練と歩く訓練も。でもそれは自宅からでも可能です。退院しましょうか」


 美沙子はこの日をどれだけ待ちわびていたことか。それは裕太も同じだった。当初は主治医になることさえ諦めようとしていたあの日、回復の兆しが全く見えなかった日々、それがこのような日を迎えられるとは。裕太の胸は何か暖かいものでいっぱいになった。気づけばあの日、ひなたが救急車で運ばれてきた日から一ヶ月が過ぎていた。

 ひと段落ついたところで、裕太はずっと言おうと思っていたことを口にすることにした。


「あの……すみませんでした。あの日私がしっかり診てあげられなくて」


 今まで笑顔だった美沙子の表情が一気に強張った。それから一度だけ裕太を見てから視線を落とし、何度か瞬きをした。全身の力を抜いてから、一つ小さな息を吐いた。


「私ね、仕事女なの。元旦那からも仕事と俺どっちが大事なんだ? って聞かれてあっさり仕事って言って離婚したくらいだから。まあ実際私の方が稼いでたからね」


 美沙子は椅子にもたれながら、指でとんとんと椅子を叩いた。


「私なら一人でできる、って思ってた。仕事も家事も育児も。実際出来ていると思ってた——でも違った。ただ周りが私のわがままに我慢してくれていただけ。仕事仲間も私の突然の無茶振りに不満があっても黙って聞いてくれてただけなのに、私の指示が良いからみんな不満なくついてきてくれてるんだ、なんて勘違いしてた。ひなへの愛情も時間は短くてもたっぷり愛してあげればそれでいいって思ってた。でもひなは全然満足してなかった、すごく寂しい思いをしていたのを必死に我慢していただけだった。うまくいっていると思ってたのは私だけだった——」


 美沙子の口が歪んだ。眼鏡をずらすと、一つハンカチで目を擦った。


「私ね、あの日ひなが一緒に寝てほしいって言ってたのに、次の日大事な仕事があるからって、無理矢理一人で寝かせたの。お利口にしないと怖いおばけが来るよって。スマホの動画見させながら。今から考えるとわがまま言う元気すら無かったのよね、いつも以上に素直に寝たの。でもだから異変に気づけなかった。私がそばにいてもっと早く私が救急車を呼んでればこんなことにはならなかったかもしれないのに——」


 美沙子は両手の拳に力を入れ、震わせていた。込み上げる思いを堪えながら、必死に耐えていた。


「これはね、神様からの罰だったの。もっとひなのことを大事にしなさい、って、仕事もちょっと休みなさいって。今回の件が無かったら私、行き止まりの崖っぷちにアクセル全開で突き進んでいたのかもしれない。だから神様が無理矢理私を止めてくれた。そう思ってるの」


 そこまで言い切ると、やっと美沙子の呼吸が落ち着き始めた。持ち上げた表情は涙で溢れていたが、幾分健やかに見えた。


「仕事の方もね、私がいないととてもじゃないけどプロジェクトは進まないと思ってた。でも大して能力も無いと思ってた後輩たちが思ったよりいい仕事してくれて、私がやるよりもいい結果を残してくれたの。なんでもっと早く信じて任せてあげなかったんだろう、って。ひなとも今までで一番一緒にいる時間を持てたし。神様は私を生まれ変わらせてくれたんだと思う」


 シングルマザーで育児をしながら、仕事もチーフを任されるなんてどれだけのプレッシャーなんだろうか。子育ての経験などあるはずもない裕太には想像できない世界だった。


「そんな大変な毎日だったんですね」

「私は忙しい。あなたたちより我慢して頑張ってるんだ、だからいつでも受診していい、私は特別なんだから、そう思ってた。でも違う。先生達がこんなに頑張っているなんて入院するまで私知らなかった。これでいてさらに救急外来も診てるなんて。今となってはとてもじゃないけど時間外に風邪薬くださいなんて言えないわ」


 裕太は首を横に振った。


「いえいえ、心配だったら遠慮しないで来てくださいよ」

「そうね、でもなるべく仕事休んで時間内に連れてくるようにするわ」


 そう言ってにこりと笑う美沙子を見て、裕太も少しだけ笑った。

 ひとしきり会話が終わってから裕太が病室を出ると、ゆっくりと扉を閉めた。がちゃん、と静かに音が鳴ったのを確認してから振り向くとそこには桐生が立っていた。


「桐生先生」


 桐生は微笑みを浮かべていた。


「矢部さん、退院みたいだね、よかったね」

「はい、その節はありがとうございました。先生に相談していなかったら、今頃どうなっていたか……」


 そう言いながらもじもじする裕太を桐生は、はははと笑い飛ばした。


「それで、どう? 医者は続ける? それとも?」


 恥ずかしくなって裕太は思わず頭をかいた。


「僕は千賀先生みたいに賢くはできません。でも自分にしかできないこともあると思うんです。その自分にしかできないことをする医師になりたいと思います。目の前の患者さんに全力で立ち向かえる、そんな医者に」


 うんうん、と目尻を垂らしながら頷くと、桐生はそのまま去って行った。去りゆく背中がまるで「それでいい」と裕太に言っているような気がした。


「おつかれーい!」


 突然背中を叩かれ、裕太が驚いて振り返った。


「おお、篠原さん。なんで病棟に?」


 篠原がダメージのある紺のジーンズにゴリラのイラストの入ったTシャツという私服姿でそこに立っていた。


「ちょっとね、知り合いの子が入院してっからお見舞いに来た。それよりあの子、退院だって?」

「そうなんです、この日まで長かったぁ」


 裕太は大きく伸びをした。


「よく頑張ったねぇ、センセ」


 それから裕太の耳元で囁いた。


「千賀先生じゃ、こうは行かないからね」


 と言っていたずらな笑みを浮かべた。


「いや、そんなことないですよ」

「あるって。城光寺先生は優しいから。ここまでたどり着けたのは城光寺先生のお陰だとおもうよ」


 いやいや、と言いながら裕太は頬を赤らめた。


「そういえばセンセ、今日当直?」

「はい」


 篠原は口を尖らせ、ふーんとつぶやいた。


「じゃ、千賀センセも泊まるのかな……」


 裕太は首を傾げた。


「何でですか?」


 篠原は、へ? という表情で裕太を見た。


「あれ? センセ。知らなかったの?」


 裕太が首を傾げた。


「千賀センセ、若手の先生が大変そうな時、自分が当直じゃなくても泊まってるのよ。あの日だっていたでしょ」


 あの日……確かに早朝にも関わらず、千賀はすぐにかけつけた。裕太が今までそのことに疑問を思ったことは無かったが。


「確かに早く来てくれましたが……あれって自分のために泊まってくれてたんですか?」

「そうよ、あの時センセ、かなり大変そうだったから千賀センセ、かなり心配してたのよ」


 えー、と裕太は大声で叫びたかった。


「なんで、千賀先生はそのこと言ってくれなかったんですか」

「言うわけないじゃない、だってあの千賀センセーよ? あの日だって外来で患者さん入院させるなって言ってたでしょ? あれは城光寺センセを休ませるためよ。ああ見えて色々考えてるのよ、あの人も」


 不器用だから全然伝わってないけどね、と言ってはっはっはっはっと大声で笑った。

 ふと篠原が視線を裕太の方へ戻すと、そこに裕太はいなかった。


「あれ?」


 そう言ってあたりを見回すと、裕太はすでに走り出していた。

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