千賀外来・鬼

相談に乗ってもらえない鬼上司

 研修の主な内容は外来と入院に大きく分けられる。一見重症な入院患者の研修の方が難しいと思われるが、医師になりたての初期研修医がまず担当するのが入院患者で、外来患者を担当するのはある程度年数が経ってからである。

 というのも、入院患者であればチームを組んでじっくりと研修することができる。何か間違えそうになっても、一緒に組んでいる先輩医師が目を光らせれば大きなミスにつながることはあまりない。

 しかし外来となるとそうはいかない。医師一人対患者家族となり、何か大事な病気を見落としてしまったり、失礼な対応をしてしまってもそれをチェックする人がいない。そのため、ある程度一人で対応する技術を持って初めて外来対応を任されるのだ。この病院では医師3年目となって初めて外来を担当させてもらうことになっていた。


「水野先生、どうした」


 裕太は外来の隅で、青ざめて立ち尽くしている水野を見つけた。裕太は今日は外来担当ではないが、別の用事があって外来に立ち寄っていたのだ。裕太が水野に近寄り、水野の視線の先を見てすぐに悟った。その先は千賀が外来担当をしている1番診察室、通称ライオンの部屋があった。


「あ、城光寺先生、あの……ちょっと千賀先生に相談したい外来患者さんがいるんだけど、なかなか聞けなくて……」


 3年目とはいえ、判断に悩むことは多々ある。その場合は患者さんに待ってもらい、先輩医師に相談してから答えるように、そう指導されていた。しかし……。


「……はい、それでは薬出しておきますので、水分を摂れなくなるようでしたらまた受診してください」


 千賀の診察が一区切りしそうな様子だった、その隙を見て水野が千賀に相談をしようと思って一番診察室におどおど入り込み、千賀に「あのぅ……」と声をかけたその時。ピコーん、と千賀の押した患者呼び出しのベルがなった。


「22番の番号札をお持ちの方、1番診察室へお入りください」


 その声を聞いて、水野はそそくさと1番診察室から逃げた。千賀に相談するタイミングを逃してしまったのだ。それをみて裕太はため息をついた。


「水野先生、さっきからこの繰り返し?」

「そぅなんだよ、もうずっと患者さん待たしていて、お母さんだんだんイライラしてきてるし、困っちゃった……」


 外来は多数の患者でごった返し、誰も余裕のある人はいなそうだった。かといって自分もまだ経験は浅く、何か力になってあげられそうもない。すると看護師の声が聞こえてきた。


「千賀先生、22番の井ノ口君、おトイレ行ってるみたいです」


 裕太は水野の肩を叩いた。「今チャンスだよ」と。水野も目を大きく見開き思い切って1番診察室に入り込んだ、しかしその時。


「千賀先生、ちょっといいですか」


 後ろから先輩にあたる7年目医師の八反田が、水野を押しのけて千賀に話しかけた。


「ん?」

「入院中の矢野君、今日退院予定だったんですが、お迎えの都合がつかないらいしくて、週明けの月曜退院でもいいですか?」


 入院した子ども本人が元気になり、退院できる状態になったとしても、小児科患者が退院するときに考慮すべき重要なことがある、それは帰りの足だ。小さな子どもと入院に必要だった衣服やその他大量の荷物、これらをお母さん一人で抱えて帰るのはかなり難しい。通常は退院日に父親や祖父母などに来てもらい、手伝ってもらうことになる。しかし、その都合がつかない場合は、その理由のみで退院を延期させてほしいという希望が時々ある。

 千賀は2秒間止まった。そして、鋭い眼光を八反田に刺した。


「ここは託児所じゃねえんだ。そんな勝手な都合で延期さすな、今日帰せ。そんな甘っちょろいこと許してないで、患者教育しっかりしろよ。ベッドコントロールかつかつだって今朝も言ってたの聞いてたのかよ?」


 はい! はい! すみません、と八反田は何度も謝り、そそくさと診察室を出て行った。つまり、必要のない患者の入院が長引けば、そこに入れたはずの新しい患者を断ることになる。すると病院の収入がそれだけ減る、ということである。しかし、土日の入院は多くなく、何とかなることもあるのだが、千賀はそれを許さなかった。


「千賀せんせー、井ノ口君おしっこから帰ってきました」

「入れて」

「はーい」


 水野が再びうなだれた。もうだめだ……と水野の顔色がますます青ざめた。その時、裕太が何かを見つけた。


「あ、桐生先生!」


 呼ばれた桐生は、通り過ぎた廊下をバックで戻ってきた。


「おお、どうした、二人とも」


 桐生は自己紹介の時、裕太にどうして小児科医を目指したのか質問した医師である。威圧感がなく、いつ相談しても丁寧に返してくれる、新人医師の中のオアシスだった。

 医師と言われなければ、ただのそこら辺の中年男性と間違われるほどオーラがない桐生だったが、この状況では二人にとって神様に見えた。


「あの、僕が診てる患者さんで……このまま返していいのか入院させた方がいいのか悩んでる人がいて……」


 水野の相談を桐生は、うんうんと聞いていた。そして全て聴き終えると、


「大丈夫、返していいよ。夜は自分が当番だから、何かあったら夜相談してくださいって言って。必要だったらその時入院させるから」


 水野の目が輝いた。


「本当ですか! ありがとうございます」


 深々と頭を下げると、水野は2番診察室、通称ペンギンの部屋に戻って行った。

 ここを地獄に例えると、千賀先生は閻魔大王、桐生先生は仏だな、などということを裕太はぼんやりと考えていた。ただこれはもちろん裕太にとっても他人事ではなかった。




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