消去

 気がついて、1番に目に入ったものは白い天井だった。

 窓からは薄いオレンジ色の光が差し込んでいる。目だけで見回してみると、白いカーテンが僕の周りを囲うように閉じていて、どうやら僕はベットに寝かされているようだった。

「ここどこだ? ……ん?」

 起き上がろうとしたが、布団が引っ張られる感じがした。見ると、亜希が椅子に座り、ベットの端で組んだ腕の上に顔を乗せて眠っている。

「…………」

 僕は亜希を起こさないようにそーっと動いて下半身だけ布団をかけたまま座り、ふうと息をついた。

「夕方……」

 一体何時間ぐらい寝ていたのだろう。いくらなんでも寝過ぎではなかろうか。

 カーテンの隙間から部屋を覗くと見覚えの無い場所だった。どこかの病院かもしれない。

「それにしても、結構心配かけてしまったなぁ……」

 あの時こそパニックを起こしてしまってそれどころじゃ無かったが、思い返してみればとんでもなく迷惑行為だったと自信を持って言える。

 今は結構落ち着けていると思う。一旦現実から逃げたからかもしれない。

「ん……」

 亜希が気がついた。

「……おはよう」

 言って、気がついた。「僕が」話している。……そうか、夕方だからまだ次の日にはなっていないんだ。それに今朝言えなかった言葉が言えてちょっとほっとした。

「んー……華奈!? 気がついた!? よかったあぁぁぁぁ」

 はーっと息を吐く亜希にすまなそうに笑いかけた。

「ごめん」

「ほんとだよ、肝が冷えたよ、早くも最期を迎えたのかと思ったよぅ」

「そこまでは流石に……」

「……ねえ華奈、朝どうしたの?」

「…………」

「朝のこと覚えてる?」

「うん……」

「何かあったんだよね。じゃないと普通あんな事にならないもん。相談のるよ、友達だもん」

「え……」

「あ、華奈の中で色々まとまってからで大丈夫だし、今じゃなくていいよ。でも、華奈が悩んでて苦しんでるのは私が嫌だ。私がここにいる意味が無い。これでも私、心理カウンセラー目指してるんだ」

「…………」

「……まあ、突然こう言われてもちょっと無理あるよね……」

 前のめり気味になっていた亜希の体が戻り、遠慮をしたような、悲しげで寂しげな顔をした

「私はいつでも話聞ける準備できてるから」

「……いや、今相談にのってくれる?」

 亜希はさっきとは逆に、ぱあっと笑顔になって大きくうなずいた。

「いいよ。大丈夫」

「でもちょっとまとめるのに時間かかる。すぐに言えない」

「うん。ゆっくりでいいから」

「ありがとう」

 元々、相談という選択肢は視野に入っていた。でも、それは僕には出来なかった。僕の意思で人と会話することが出来なかったからだ。だったら僕について話すなら今しか無い。今を逃せば次いつこんな機会が来るかわかったものじゃない。

 いつから話す? どんな順序なら受け入れられやすい? 亜希ならどんな反応をする?

 様々なことを考えた上で僕は口を開いた。

「亜希」

「うん」

「実はな……」

 初めて、全てを話した。僕はゆったりと話しつつ、亜希の様子を伺った。亜希はうん、うん、と相槌を打ちながら表情一つ変えずに聞いていた。話し終わったときも穏やかで、僕は亜希の度胸のあるところに驚いていた。

「そっかぁ……今まで私が話してた華奈は華奈であって華奈じゃなかったんだ……だからここで私が起きてから華奈の口調がいつもとなんか違うなあって思ったんだ……」

「いつもと違ったのか。配慮して無かった」

「大丈夫だよ。でも、華奈の話を聞いて思ったんだけど……」

「何?」

「華奈の症状、性同一性障害じゃなくて解離性同一性障害だと思う」

「解離……?」

「分かりやすく言えばこの場合、二重人格とか、多重人格とか」

「え……」

「私専門の人じゃないからあんまり詳しくないけど、二重人格っていろんな事例があるみたいなの。作り出された人格、交代人格って言うんだけどね、それには役割があって、その人が生き延びるために交代人格は生まれてくる」

「…………」

「華奈の場合、幼い頃に両親を事故で亡くしたショックが原因なんじゃないかな……いつだったか覚えてないけど、話の流れでそんなこと言ってた。華奈、自分で言っておきながらすっごい苦しそうな顔してた。帰っても両親の顔が見られないから、慣れ親しんだ人がすぐそばに居なくて寂しいから、あなたが創り出されたんじゃないかな……完全に私の憶測だけど、それならつじつまが合うよ」

「ちょっと待て、それじゃまるで……」

「もういいんじゃないかな。両親が亡くなったのは幼い頃のことで、もう何年も月日が流れてる。心の傷を癒すには長い時間とかそれなりの環境が必要不可欠だけど、もう十分なんじゃないかな。そろそろ現実と目を合わせられるくらいには幼い年齢じゃないと思うし、それに」

「何のことだか分からない、亜希が一体何を考えて、何を思って、何を言っているのか、さっぱりわから」

「もう分かってるんじゃないの? 忘れてただけで。あなたは」

「違う、違う違う! ぅああああ!」

 僕は耳をきつく抑えて目をぎゅっとつむり、亜希から顔を逸らそうとするように、まげた膝に布団越しで額を押し付けた。

「僕は性同一性障害だ! 二重人格なんかじゃない! 役割なんか知らない、創り出されてもない! 僕は生まれたときから僕だ!!」

「……もう分かっているも同然のことを言ってるの気づいてる? あなたは」

「聞きたくない! 僕が本当の」

「創り出された人格なの」

「違う!!」

「華奈も、言ってたよ」

「華奈は僕だ、そんなこと言ってない!!」

「あなたじゃない。本当の華奈が言ってたの。あなたにとって、空白の15日に」

「……え……?」

 突然、頭がすうっと冷えた。

 ゆるゆると顔をあげる。

「まさか、全て知っていた上で僕の話を聞いていたのか? だから、僕の話を聞いても動揺しなかったのか?」

「ごめんね。15日に本当の華奈から相談されたの。もう1つの人格を消したいって」

 はっ、と息を呑んだ。

「確かに初めはすごく驚いた。まさか、こんなに近くにいる人が普通とはちょっと離れたところにいるような、そんな感じの人だったっていうこととか、つい最近知り合ったような人じゃないのに、全然知らなかった自分にとか、ほんとにいろんなことに」

 亜希はうつむき加減でぽつぽつと話すように言った。

「華奈は、いつからこんな人格があるのかよく覚えてないし、そもそも誰だかわからないって言ってた。でも、あった方がなんか楽なこと多かったみたい。でも……」

 視線をあちらこちらに揺らしつつ言葉を探すそぶりを見せた亜希はまた口を開いた。

「いつまでもこんなよく分からない人に頼ってばかりじゃいけない、過去のことをいつまでもくよくよ引きずってちゃいけない、ちゃんと自分で処理できる人になりたい。だから、もう1つの人格を消したいって」

 そうして、顔をあげて視線を合わせた。

「頑張ってもう1つの人格を押し込んだから、近いうちに反動が来てもう1つの人格が私の大部分を占領する日が来ると思う。その日を見つけたら説得してほしいって本当の華奈から頼まれたよ」

「な……にを……」

 嫌な予感しかしない。なのに耳は紡がれる言葉を鮮明に捉えていく。手は震えて使いものになってくれない。

 亜希は恐ろしいくらいに真っ直ぐ僕の目を見て言った。

「居なくなってほしい」

「嘘だ!!」

 間髪入れずに僕は叫んだ。

「本当の華奈から消えろって頼まれた? 冗談じゃない、僕が本当の華奈なんだ、百歩譲って僕が二重人格だったとしても、亜希が初めに相談を受けた方が創り出された人格なんだ。亜希は人格が作り出された理由を憶測で話したよな? それなら僕にも人格を創り出す理由があったことも憶測で話せる。僕は中身が男だから女のことがわからなかったんだ。だから女の人格を創り出したんだ。そうに決まってる、俺が本物だ!! 消えるべきは俺じゃな…ぅぐっ!?」

 前のめりになって一気にまくし立てた俺は、腹の底から自分のとは全く違う何かが恐ろしい速さで膨らんでいく、否、蝕んでいくようであるのを感じた。

「ぐっ……あ……っ」

 どんどん蝕まれていく。耐え切れず背を丸めて腹と口元を抑えた。嘔吐とはまるで違う、もっと精神的に苦しい、なんだこれは。

 まさか。

 もう1つの人格の意思か。

「そろそろ、時間かもしれないね」

 悲しげな、苦しげな顔を見せている亜希がぽつっと言った。

 俺は亜希をぎっ、と睨みつけた。もう喋る余裕がない。

「今まで散々お世話になったのに、送り方がこんなふうになってしまってごめんね。華奈に代わってお礼言っとく。ありがとう。……さよなら」

 そこで、俺の意識は暗転した。

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