第11話 【2022探湯零韻誕生日SS】雨音

大寒を過ぎた冬の夜は特に冷える。


探湯家も例外ではなく、鏡珠が菜園で栽培しているハーブをたっぷりと入れたハーブ湯に浸かるのがいつものバスタイムだ。

今日も湯舟に浮かぶ洗濯ネットの中には数種類のハーブを中心に、ローズマリー、ラベンダー、レモングラスなどをミックスしたものが入っている。

ただ、お風呂の温度が約40度くらいだとハーブの香りが抽出されにくいので、探湯家では鍋などでハーブを煮出してエキスを抽出し、それを洗濯ネットのハーブと一緒にお風呂に入れるという方法を取っている。

優しい香りに包まれてバイトの疲れが癒された零韻は頬を上気させながら風呂場からリビングへと向かう。

リビングでは先に風呂を済ませた蔵人がソファーに寝そべっていた。

(TVも付けてないし…兄さん、寝てるのかな?)

「…兄さん?」

声をかけるが反応がない。もう一度声をかけようとして、零韻は蔵人の左耳に電子の光が煌めくのを見た。

そぉっと耳元に近づくき、

「わっ!!!」

「うわぁ?!」

零韻の大声に驚き、蔵人がソファから飛び起きる。

今やちびっこたちのヒーローとして認知度が高まっている人気若手俳優としては、TVでは見せられない失態だ。

「…っくりした…なんだよいきなり」

こんな風にちょっと不貞腐れる兄は年齢より幼く見える。

もちろんわざとおどけているのも零韻は知っている。

「耳。何聴いてんのかなーって」

トントンと自分の左耳を人差し指で叩きながら零韻は首を傾げる。

そんな零韻に蔵人はにやりと意地悪そうに笑って見せる。

「聴いてみる?かなりきわどくてえっちな大人の会話」

「やめろよ変態。何聴いてんだ」

後ずさる零韻に蔵人はケラケラと笑い、片耳のワイヤレスイヤホンを外してみせる。

「じょーだんだって。ただのASMR動画だよ」

「ASMR?」

「オートノマス・センサリー・メリディアン・レスポンス。

直訳して『自律感覚絶頂反応』っていわれてる」

「ぜっ、絶頂?」

思わず口ごもる妹に蔵人は堪え切れる吹きだす。

「零韻、お前…いやらしいこと考えたろ」

「べ、別に私は…」

「まぁ要するにだ」と身体を起こし、外した片耳のワスヤレスイヤホンを零韻に差し出した。

「人間が聴覚や視覚から感じる反応で、脳がゾクゾクするような心地良い感覚のことを指すんだよ。

今聴いてるのはただの雨音。聴いてみ」

悪戯好きな兄が差し出したイヤホンを半信半疑で受け取り、自分の左耳に装着する零韻。

「…………本当に、雨音だ」

「言ったろ?今聴いてるのはノイズ処理も何もしていない、わざとホワイトノイズを載せている音源。

雨音もだけど、ノイズそのものがASMRって考え方もあるんだ」

「ふぅん…」

言われ、零韻は再び耳を澄ます。


しとしと。しとしと。


ぱたっ。ぱたたっ。ぱたぱたっ。


点々と落ちて来る雨粒たちと、その背景にざぁざぁと流れる雨音。


いつしか零韻は時間を忘れ、うっとりと目を閉じて雨音に聴き入っていた。


何分ほどそうしていただろう。

「俺、好きなんだよね」

急に蔵人が呟いた言葉に、零韻は顔を上げる。

「好きなんだよ」

今度ははっきりと、零韻の目を見て呟く。

ドイツ人だった祖母譲りの深い群青色の蔵人の瞳から、零韻は目が離せなかった。

少し暗めにしている部屋の照明のせいか、底なしの湖のように見える。

「…あ」

「その雨音の動画、結構気に入ってるんだよね。そろそろ返して?」

何か言いかけた零韻は蔵人の言葉に我に返る。

そうだ、イヤホン…!

慌てて外して返し、「じゃあ私、もう寝るから…」と、そそくさとリビングを後にする零韻。

何だったんだろう。

兄のあの眼差しは。

不覚にも一瞬胸が高鳴ってしまった。

「好きだ」と自分に言われたのではないかとうぬぼれてしまった。

「……びっくりした…」

自室のベッドの上に倒れ込み、零韻はようやくそうひとりごちたのだった。

正直言って兄・蔵人は顔がいい。整いすぎているといっても過言ではないほど整っている。

元タカラジェンヌで娘役を務めていた母・鏡珠似だと周囲から持て囃されているほどだ。

そんな美形に瞳を覗き込まれてしまっては世のお嬢さん方は一瞬で恋に落ちてしまうことだろう。

実際に恋人にしたいor告白されたいイケメン俳優で、蔵人は上位に名を連ねている。

兄妹だというのに、たまに兄の視線にどきりとさせられてしまうことがあるほどだ。


天上から地の底まで、すべてを見透かすような眼光。


20年以上も一緒にいるというのに、何故か兄の目力には慣れない。

睨まれているわけではないのに、時々「怖い」と感じてしまう事がある。

さっきも似たような感覚だった。


怖い。


何が怖いのか分からないのが怖い。

背中から、自分の知らない感情が首をもたげて起き上がったような気がして、

零韻は慌てて毛布にくるまった。

ふぅ、と一息ついたところで、さっきの兄の物言いを思い出す。

「好きなんだよ」

柔らかい笑顔に優しい声。

雨音を聞きながらのしっとりとした雰囲気。

あまりの理想的なシチュエーションに零韻は逆にカチンときた。

(なんだアレ。いきなり「好きだ」なんて。だいたい兄さんの言い方が悪い。

素直に「返して」って言えばいいのに「好きだ」から始まるか、普通?!)

毛布の中でムカムカとしていた零韻だが、ふと先ほどの雨音が気になってしまった。

ベッドの傍らにあったスマホを手に取り、「雨音 ASMR」と検索する。

するとすぐにいつくかの動画がヒットした。

兄と同じものではないが、一番上にあった動画をタップして、自分もイヤホンを装着して聴き入る。


ぱたぱたぱたっ。ぱたたっ。ぱたっ。


しとしとしと。しとしとしと。


ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


零韻にはそんな風に聞こえていた。

(あ)

(面白い)

(このイヤホン、そんなにいいイヤホンじゃないけど)

(すごい)

(音が立体的に聞こえる)

(3種類に分かれてる)

(ううん、きっとそれ以上なんだろうけど)

ぱた。ぱたたっ。ぱたっ。

しとしと。しとととっ。しとっ。

ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

(手前が「ぱたぱた」で、真ん中が「しとしと」。一番後ろで「ざーっ」っていってる)

零韻は知る由もなかったが、これはバイノーラル方式という特殊な方法で録音された音源で、

人間の頭部や、その音響効果を再現するダミー・ヘッドやシミュレータなどを利用して、鼓膜に届く状態で音を記録することである。ステレオヘッドフォンやステレオイヤフォン等で聴取すると、あたかもその場に居合わせたかのような臨場感を再現できる、というASMR動画だった。

「へぇ…面白いなぁ…」

ぼそりと呟いて零韻は眠りに就いた。

(なんだろう…雨音って冷たいイメージがあったけど、なんかあったかい…)

その夜、零韻は懐かしい夢を見た。

幼い頃、まだ蔵人と一緒に寝ていた時の夢だった。

うつらうつらとしている零韻のとなりで、どこで憶えたのか、

蔵人は幼いながらもポンポンと妹を寝かしつけようとしていた。

兄が何か言っている。

もう瞼が重くて兄の姿もぼやけてくる。

「うん…私も…」

何事か言いかけ、零韻はそのまま眠りの海へと沈んでいったのだった。

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