第3話 ルララ子登場

 闇鍋やみなべルララ子が僕の人生に出現したのは半月ほど前。7月2日の23時頃のことだ。

 ルララ子とは何者なのか。どういった現象なのか。それは結局のところ、今もまるで分かっていない。

 神様にでも聞くしかないだろう。

 そもそも僕はまだ闇鍋ルララ子の実体を見たことがないのだ。

 僕が見ているのはルララ子の幻影、というより、彼女自身の言葉を借りれば、生き霊、ということらしい。


 生き霊


 オカルトに疎い僕の知識を総動員する必要があるのだが、生き霊というのは普通に生きている人間から勝手に派遣された霊体、みたいなもののことを言うはずだ。

 つまり、この世のどこかに闇鍋ルララ子なる人物が存在している、ということか?

 そんなふざけた名前のやつがいるか?

 偽名だろうか。あだ名?

 生き霊って、本名以外を名乗っても良いのだろうか。

 まあ、とくに問題はない気がするけど……。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 僕はオカルトの類を一切信じない。おもに小馬鹿にしている。軽蔑すらしている。しかし、闇鍋ルララ子と名乗る女性が僕の行動範囲に出現するようになったことと、闇鍋ルララ子の姿が僕以外の誰にも見えていないこと。

 この二つはどうやら事実だ。僕の気が狂っているのでなければ。というより、僕の気が狂っている、と仮定するだけですべては解決してしまうのだけど。


 彼女の登場の瞬間を今もはっきり覚えている。

 7月2日。

 23時ごろ。

 バイトから帰宅してシャワーを浴びていた僕は、妙な気配を背後に感じた。ありがちな錯覚だ。もちろん、振り返っても何もないはずだった。

 しかし、そこには見知らぬ女の子が立っていたのだ。

 もちろん、それが闇鍋ルララ子だった。

 もちろん、そんなふざけた名前だってことは知らなかった。

 1秒後には知ってしまったけれど。


「私の名は闇鍋ルララ子」


 闇鍋ルララ子はまっすぐに僕を見て言った。

 ゆるくウェーヴしたつやつやの長い黒髪。目つきはクール。最新のメイク。輝かしいオーラ。

 可愛い。

 僕と同年代のようだ。

 同じサークルやバイト先にいたら、かなり気になってしまうタイプの女の子、というか完全に高嶺の花だ。

 だけどいきなり風呂場に出現されたら、可愛い女の子だろうがチェーンソーを抱えたヒグマだろうが同じこと。

 僕は声を上げることもできずに飛び退き、ルララ子と反対側の壁に激突した。シャワーヘッドが床に落ちて、40℃の温水が足もとにまき散らされる。

 僕は裸だった。ルララ子はシックなワンピースを身につけていて、裸ではなかった。そのことを思うと今でも少し残念だ。

 僕はポルノ的な人間なのだろう。

 ルララ子のワンピースの裾は、いくら水を浴びても少しも濡れない。


「私の名は闇鍋ルララ子」

 不法侵入者はもう一度名乗った。

「ていうか」

 ていうか?

「正確に言うと生き霊だ。私は闇鍋ルララ子の生き霊である」

 意味がわからなかった。

「正式な名は、闇鍋・ルララ・フォン・ルララール・子子子。稀代の用兵家である」

 シャワーの音。シャワーの音。シャワーの音。

 僕はどうするべきか考える。女はチェーンソーはおろか、ナイフもアイスピックもシャープペンシルすら所持していないように見える。

 取り押さえるか?

 だけど何を隠し持っているかわからない。毒針みたいなものでチクッと刺されでもしたら終わりだ。

 とか思っているうち、いつのまにかルララ子は僕の目の前にいた。

 あまりにも目の前に。

「おまえが三重野みえのナルだな」

 僕が三重野ナルだ。

 YouTubeも何もやってない、無名中の無名である僕の本名を正確に知られている。

 どっと汗が吹き出す。

「三重野ナル、19歳」腰を抜かしている僕に、ルララ子は立ったまま腰を曲げて、顔をぐっと近づけてくる。

「なんですか」と僕は言った。よく声が出たと思う。

「おまえは選ばれたのだ」ルララ子は全裸の僕に向かって手を伸ばした。「おめでとう。そして動くな」

 僕は動けない。動きたくても。

 ルララ子の右手が僕の裸の胸にふれる。感触はない。ルララ子の指はそのまま僕の体内にずぶずぶと侵入していく。感触はまだ無い。ルララ子は僕の心臓の辺りをなんかごちょごちょやっている。感触もないし、ルララ子の顔がとてつもなく近い。大きな目。半開きの唇。透明感のある肌、というより、じっさいにほんの少しだけ肌が透けて、背景が見えている。気のせいのような気もする。ほとんど恋に落ちている気もする。それも気のせいのような気がする。


 2万年を凝縮したような数十秒が経過して、ルララ子の手がゆっくり僕の体内から抜き取られた。一本一本の指がそれぞれ独立した意思を持つように艶めかしく動いている。思わず見とれてしまう。


「お疲れさまでした」ルララ子が急に真顔に戻った。


 僕もようやく我に返る。とんでもないことをされたのに、僕の体に表面的な異常は見当たらない。

「何をした?」

「何かをした」

 ルララ子は立ち上がって踵を返した。そのまま歩き出し、バスルームのドアを開けもせず、すり抜けて外に出る。立体映像のように。あるいは幽霊のように。

「待って!」

 立ち上がろうとして僕は派手に転ぶ。脇腹を床に打ち付ける。なんとか半身を起こし、這いつくばるように移動し、よろよろとドアに到達しする。取っ手を掴む。ドアを開ける。出しっ放しのシャワーの音だけが聞こえ続けている。

 ルララ子の姿は忽然と消えていた。

 というナレーションが聞こえた気がしたけど、ルララ子はまだいた。

 ふつうに。

 脱衣所に。

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