救国模索編

第18話 翼竜


 耳朶を打つ雨の音。

 時折鳴り響く雷鳴、それに吹き荒ぶ強風が自然と体を震わせた。

 熊族の男、カリバルカは走っていた。息はすでに上がっていた。それでも速度は緩めない。ペースも考えない。泥を飛び跳ねさせながら、とにかくただ前へと走っていた。


「あ、ああァア!」


 我慢できずに、男は叫んだ。

 地鳴りが聞こえた。地面が揺れている。激しい雨音の中にあっても、それは確かに身体が感じていた。

 

 とにかく逃げなければ、一心不乱にただ前へと走る。


 視界は悪い。手を伸ばした先さえも見えない。大粒の雨が顔に当たる。恐怖に駆られ、ただ走り続けたカリバルカだが、しかし限界はやってくる。危機に際し、麻痺していた肉体の疲労が限界を超えて、ついにドッと押し寄せた。


 疲労から足がもつれて、泥に滑り、受け身も取れずに転んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ、ア、アレ?」


 脳が空気を求めて、とにかく大きく息を吸い込む。

 そうして、ようやく頭が回り始めた頃、気づく。


 地鳴りが、地面から断続的に聞こえたあの振動がなくなっている。

 逃げ切ったのだ、とカリバルカは思った。あれからすれば、自分など、ちり芥に過ぎない。踏みつぶすことなど気にも留めないが、仕留めようと躍起になるものでもないのかもしれない。

 助かったのだ。

 きっとそういうことなのだろう。


「ッ!?」


 ――地面が、突如、跳ね上がった。

 大地が割れて、振動は衝撃に、音はそれに遅れてやってきた。


 助かったのだと、そう思いたかっただけなのだとすぐに理解する。


 それは、空からやってきた。

 大きな体躯。四肢一つがカリバルカを超えるほど太く長い。目の前には鋭い牙があり、その顎は彼の頭を一飲み出来るほどに大きい。背には特徴的なヒレが綺麗に並んでいる。雨の中でも金色に輝く瞳。赤い光の筋が走る蒼き大翼。口腔内には、魔力による燐光が散って見えた。


 上空から現れたそれ。彼の上に覆いかぶさるモノ。

 それは紛れもなく翼竜ワイバーンだった。


 その名は破壊を齎すものリッカーガンド

 この国でもっとも有名な竜であった。

 

 地面に倒れた状態で、上には竜。まさしく詰み。この状況から逃げられる術をカリバルカは持ち合わせていない。もっともそれが可能な人間をカリバルカは知らない。


 恐怖に身がすくむ。しかしその一方で目の前の異常事態を、上手く認識できないためか、妙に冷静な自分がいることにカリバルカは気付いた。


 ――小さい。子供だ。


 だからだろうか。この状況で、彼が思ったのはそんなことだった。ある種の現実逃避なのかもしれない。だから彼は、この個体が幼体――まだ子供なのだと気付いた。

 もっとも、それに気づいたところでカリバルカに出来ることは何もない。だが彼がまだ生きているのは、あるいはこの個体がまだ幼かったからなのかもしれない。


 破壊を齎すもの。この国でもっとも有名でもっとも関わりの深い竜。


 この国の歴史は、この翼竜を平原から追い払ったことから始まったといってもいい。だから国民の誰もがその名を知っていた。そして誰もが今も恐れている。


 当然の事ではあるが、大人に比べて子供の竜に出くわす機会は極めて少ない。しかも場所が、こんな国のど真ん中の平原である。ありえない異常事態だ。

 どうして、と思わずにはいられない。不運というにはあまりについていない。


 嘆いても運命は変わらない。まるで勝鬨を上げるように、翼竜は空へ向かって咆哮した。ビリビリと震える空気。心胆から恐怖が吹き上がる。

 死ぬのだ。喰われる。逃げる術はない。勝てるはずがない。 


 心は完全に折れていた。何も考えられず、ただ震えて空を見続けた。

 

 竜の子供の、線のような瞳が彼へと向けられた。首を二度横へ振る。それから大きく口を開けた。迫る顎と同時に、大粒の雨がカリバルカの目に入った。


 思わず目を瞑った。そのまま次に開かれる瞬間は訪れない。

 竜が捕食対象を喰らう行為を躊躇うはずがない。


「……?」


 だが、想像とは裏腹にカリバルカの目は再び開かれた。迫っていた顎が眼前から消えていた。

 竜も消えていればよかったが、残念ながらそんなことはなく、リッカーガンドの鋭い爪は依然として彼の身体を押さえつけていた。

 

 小竜が何をしているのか、カリバルカにはわからなかった。

 破壊を齎すものリッカーガンドは何度も首を振って、きょろきょろと視線を動かしていた。まるで何かを探しているような仕草だった。


 カリバルカは竜の生態に詳しいわけではない。ゆえに、その行動の意味がわかるはずもなかった。

 もしかしたら餌を喰う前に弄ぶ習性でもあるのだろうか。一部の動物はそうして狩りの仕方を学ぶという。竜とはいえ、幼体。ありえない話ではなかった。

 それは何かを追っているように見えた。

 

 竜の視線の先を追ってみても、大粒の雨と雲が視界を遮っている。


「は、は、は、は」


 奇妙な時間だった。竜が体の上に跨っていて、それでいて放って置かれている。生きた心地がしない。舌が乾いて、そっと口を開けて雨水を飲んだ。


 小竜が口を大きく開いた。燐光輝く。耳鳴りのような嫌な高音が鳴り響き、思わず顔をしかめる。


 遥か彼方の上空で、光が散った。二度、三度と、何度も明滅する光点。それは爆発だ。空を爆炎が走る。

 狙撃爆破ガンドラス。破壊を齎すものが用いる、離れた場所を爆発させる魔法。人をもっとも恐れさせた翼竜の固有魔法。

 その恐るべき力が、虚空に向かって放たれている。


 一体何に? そう思うもカリバルカにわかるはずはない。

 

 耳鳴りのような音が止んだ。

 どうやら攻撃が終わったようだ。小竜は翼を大きくはためかせ、大きく空へ咆哮した。空気の振動が、ビリビリと顔にまで伝わってきた。


 カリバルカはそれを勝鬨だと思った。だが違った。それは威嚇だ。依然存在する敵に対する敵意を、竜は示していた。

 その目はまだ何かを追っている。空を走る、カリバルカには見えない何かを。


 また口腔内から光が漏れた。再び行使される竜の魔法。程なくして、中空が弾けた。今度はさっきよりも近い。爆発の衝撃、音と熱がカリバルカまで伝わってくる。


 二度、三度、四度、五度。移動する爆発の軌跡が、空を疾駆する何かの存在を伝えた。


 じろり、と。

 竜の瞳がカリバルカを見た。一瞬の事。それは捉えていた獲物がまだいることを確認するためのものだとわかった。自分の命は食卓の上にある。現実は変わらない。今すぐに喰われてもなにもおかしくないのだと改めて気づかされる。

 その時だった。


 ――水滴が、切れた。


 落下してくる小さな雨粒の一つが、カリバルカの目の前で綺麗に分かたれた。それは一瞬の出来事、しかし彼の目はその一瞬、その一粒を確かに捉えた。光だ。光が通過し、雨粒を両断した。それだけは理解した。それだけしかわからなかった。


 突然、雨が強くなった。大雨だ。

 それが翼竜の血だと気づいたのは、上に跨る竜の頭が飛んだ後だった。


 切断された竜の首。傷口から噴き出す大量の血が、雨と混ざってカリバルカへと降り注ぐ。

 死によって支えを失った巨体がぐらりと揺れた。重力に従って地面に倒れる身体が、カリバルカの上に重くのしかかった。大人の竜ならその時点で押しつぶされていたかもしれない。


「ぐぁ……は、はは、はっ? い、生きテル、のか?」


 竜の巨体と地面に下半身を挟まれたまま、カリバルカはようやくそう実感した。


「は、はぁっ、生きテる、生きテル! あああぁあ!」


 高く腕を上げて、大声で叫んだ。感情が熱となって身体を巡り、声とともに放出された。覚悟した死からの開放。叫ばずにはいられなかった。言葉にならない声を上げて何度も何度も叫んだ。


「大丈夫そうで安心したよ」


 唐突に掛けられた声に、驚いて身体がびくりと震えた。中性的な声だが、おそらく男性だろうことだけはわかった。

 振り返ろうとして、しかし身体は重しによって思うように動かない。抜け出そうと手で押し出しても、泥と雨で滑って、上手く力が入らなかった。


「す、すまナイ。泥で滑って動けないンダ。手を貸してくれナイカ?」

「もちろん」

 

 土砂降りの雨の中、聞き取りづらくはあったが、確かな同意が得られたことに安堵する。賊の類はもとより、そうでなくても何をされても抵抗など出来る状況ではない。こんな時に、こんな場所で善き人に出会える。その幸運にカリバルカは心から感謝した。


 カリバルカが両手を上げると、男はその手をしっかりと掴む。苦戦するかと思いきや、そのままずるりと滑るように体が竜と地面の間から抜け出た。


「助かッタ。感謝スル」

「いや、無事ならよかった。監督官さん」

「……ン?」


その時初めて、助けてくれた彼の顔を見た。


「アンタ、確か……インシロークだったカ?」

「よく覚えてましたね。シロって呼んでください。監察官さん」

「あ、あぁ。俺も、もう監督官じゃナイ。カリバルカと呼んでクレ」


 話した事は一度だけだが、彼の事は確かに覚えていた。つい最近の事だ。カリバルカがリテルフェイドという街にいた時にあった事がある。

 驚異的な速度で穴掘りをする不思議な青年だった。いくら働いても賃金など変わらない仕事で、人の三倍動いていた。


「! コレ……まさかアンタが?」

「えぇ、まぁ」


 事もなさげに、シロは言った。

 一人で竜殺しを為す。紛れもない英雄のそれを、彼は平然とやってのけたという。とても信じられない。だが信じる他になかった。彼以外に、竜が死んだ原因らしきものが何もないのだから。


 熊族の獣人カリバルカは、そうして魔獣殺しのシロとつかの間の再開を果たした。





 雨から逃れるため、シロとカリバルカは近くの雑木林へと逃げ込んだ。

 

「身体は大丈夫?」

「あ、あぁ、奇跡的にナ」


 木の幹に背を預け、二人並んで座った。雨脚は依然強いが、逃げ込める洞穴や洞窟の類はなさそうだ。この強風では簡易のテントなども意味をなさないだろう。今はこの場所で身を休めるのが精いっぱいだった。


『幸いあと三十分もすれば止みますよ』


 脳内で優秀な人工知能がお告げをくれる。この世界、この地域の気候情報から算出されたものだろう。大きく外れることはないはずだ。


「酷い雨ダナ」

「汚れが洗えていいんじゃないですか?」

「そうも言ってられナイ。このまま夜が来たラ、不味いダロ」

「あと三十分もすれば止みますよ」

「ははっ、だと良いガナ」


 カリバルカは信じていない様子で、雨を利用して身体についた血や泥の汚れを洗い始めた。もっともすでに大雨の中走ってきたため、汚れはそれほど残っておらずその作業はすぐに終わった。 


「それでシロは何ヲしてるんダ?」

「何を、と言われると難しいんですけど」

「子供とは言エ、竜ヲ狩るなんて普通じゃナイ」

「あぁ、狩ってるのは竜だけじゃないです」

「? なら他ニ何ヲ?」

「縄張り追い出されて彷徨ってる魔獣全般です」


 シロの言葉にカリバルカが息を呑んだ。無理もない。一個人が魔獣全般を狩って回ってるなんてどうかしているとしか思えないだろう。


「どうシテ、そんなコトヲ?」

「んー、まぁ、色々ありまして。別に目的もなく闇雲にってわけじゃないんですよ」


 これは一環だ。この国を救うための行動の一環である。

 まずは国内の状況を安定させ、環境を整える。そのために、辺境伯領周辺で暴れている魔獣たちを鎮静化させる必要があると、シロとウルスは考えた。方法は単純で、魔獣が現れる場所へシロが直接出向いて対処する。


 魔獣の出現場所に関しては、ウルスが演算でおおよその行動を予測している。魔獣といっても、動物である。詳しい生態や種はわからなくとも、地形や気候などの環境の影響はもちろん受ける。それがわかれば、ある範囲内にどの程度、どのような生物がいるかの予測は可能である。

 魔獣とは大半が生存環境の頂点捕食者でもある。彼らの行動変化はそのまま食物連鎖の急激な変化を意味していた。その影響は大きく、だからこそ予測も比較的立てやすい。そして予測の精度は、魔獣を見つければ見つける程に上がっていくのだ。


「そ、ソウカ。事情は分からナイガ、まぁ、俺はそれで助かったンダ。感謝してイル。本当にありがトウ」

「成り行きです。それよりカリバルカさんこそ、どうして一人でこんなところに? 身なりもあれですし」

「俺だって一人になりたくてなった訳じゃナイ。元々は隊商キャラバンを組んでたンダ」


 カリバルカの話は、カルダに襲われた後のリテルフェイドまでさかのぼることとなった。


 国崩しのカルダに襲われ、命からがら逃げだした人たちはそれぞれが不確定な情報を頼りにまとまり、いくつかの集団となって方々へ散っていったそうだ。彼もそうしてある商人を中心とした隊商の一人として行動していたらしい。


 目的地は辺境伯領であり、その道中だったのだそうだ。


「俺ハ、ちょっと用を足シに隊商を離れてイタ。戻っタラ、何人モノ死体が転がってイタ。俺達を乗せてイタ荷馬車は燃えてイテ、動く人影は一ツも無カッタ」


 死体を食い漁る小竜が今度はカリバルカに目を付けて、彼は必死に逃げ、そしてシロに助けられて、今に至るというわけだ。


「なるほど。獲物を狩ったのなら、それで満足していれば良かったのに」

「あれハ子供ダッタ。遊ビも兼ねてイタのかも知れナイ」


 もし仮に、小竜がカリバルカを追っていなくても、遠からずシロが見つけ狩りとっていたはずだ。結果はそれほど変わらなかっただろう。


「もう一つ、聞きたい事があるんですけど」

「なんデモ聞いてクレ」

「国崩しのカルダについて。なんでもいいんです。見たことを教えてほしい」


 そうシロが訊ねた時だった。カリバルカの足が小刻みに震え出した。ただの貧乏ゆすりではない。よく見ると手も肩も唇までも、身体中が震えていた。


「……無理には」

「光の柱の中に居タ」


 その時、既に彼にはシロの言葉は届いていなかった。カリバルカは思い出してしまった恐怖から逃げるように、急ぐように言葉を紡いでいた。


「断続的に続ク地響き。高イ壁の向コウに魔獣の角みたいなモノが見えてイタ。俺ハ人波の中で身動きが取れなクテ、その時、兵の誰かガ叫んだ。伏セロ! 何度も伏セロ! と。それカラ間もナク。壁の向こうニ光の柱がアッタ。それが何カはスグに分カッタ。グレア様の魔法ダ。アレコソ名高イ爆砕術式『破壊の槌ガンダラク』ダト」


 その魔法は、シロ達が必死に穴を掘って埋めた魔晶石を使ったものだとおおよそ察することが出来た。地面に埋めた膨大な魔晶石を同期させ指向性を持たせて一気に起爆する。おそらくはそのような魔法だとシロとウルスは考えた。


『魔晶石の規模から考えられる、対象へと加えられる力は最大TNT換算約百トンに相当かと』

 

 ウルスの告げたそれはあくまで最大値。グレアの力量次第だが、実際の威力はその半分以下だっただろう。それでもTNT換算約五十トン。直撃すればいかな生物でも無事ではすまない。


「最初は体が吸い寄せらレテ、それから爆風が吹き荒レタ。衝撃が止ンデ、でも息つく暇もなカッタ。煙の中から、現れたンダ。無傷デ、あれガ」


 寒さに凍えるように、震える身体をカリバルカは自ら抱きしめた。


「あれは、人が抗えるものじゃナイ」


 体験した絶望と畏怖が全て込められたような、そんな言葉だった。


『本当に無傷だったとすると、彼の言葉もあながち間違いではありませんね』


 爆薬五十トン喰らって生きている巨大生物など科学世界なら空想でしか存在しえない。もちろん人の生存可能な環境で、かつ自然に発生しない、という注釈は必要だが。

 しかしそのような超常の存在が人と自然に共存しているのが魔法世界だ。もちろん魔法世界でも極めて稀な存在である。そんなのがゴロゴロいる世界では、人は文明を築く前に淘汰されているだろう。

 

『殺せる手段は、まぁ、見つかればいいくらいに考えておこう。基本は殺せないもの。そういうものだと考えて行動するしかないだろうな』


 多次元を知り、科学魔法問わず膨大な生物の知識を有するシロをして、あの生物は規格外だと言わざる終えなかった。

 生物ではなく天災。神や悪魔等と同じ、祈る他ないような、そんな存在に思えた。

祈りが届く先はおそらくない。


「そ、そういえバ、辺境伯領にはグレア様がいるらシイ」


 雨が目に見えて弱まってきた頃、カリバルカが言った。


「へぇ、だから辺境伯領を目指してたんですか?」 

「いや、そういうわけじゃナイ。グレア様の事は目的地を決めた後で聞いた事ダ」


 そういうカリバルカの表情には喜びの色が見られた。グレアの無事に、心から安堵していることが傍目から見てもわかった。


「恨んでないんですね?」

「まさか。どうシテそんなことを思うンダ?」

「言い方は悪いですけど、街を守れなかった領主でしょう。領民が恨んでいても不思議じゃないかなと」

「最善は尽くされてイタヨ。相手が悪かったンダ」


 カリバルカが言うには、グレアは大魔法を使った後に気絶してしまったそうだ。そのため配下に連れられて街を出たのだという。

 

「あれダケの魔法を使ったンダ。無理もナイ。むしろ、それで良かったヨ。あのグレア様が自ら逃げだすはずがナイ」


 カリバルカの言葉にはグレアに対する不信や疑いといったものがまったく感じられなかった。

 まさに日頃の行いというやつだろう。

 それに筋も通っているように見える。あれだけの魔晶石を一気に同期させ起爆させる。並みではない。少なくとも天稟がなければ行使不能な魔法だ。過度な負荷がかかり、意識が落ちてもなんら不思議はなかった。


 実際がどうだったのかはわからない。シロの助言通り、ジルチが無理やり気絶させて連れ出したのかもしれない。しかし事情を知らぬ人間が見れば、カリバルカの言ったような状況にしか見えないだろう。実際に魔法は行使され、そして彼女の人となりから街を捨てて逃げることなどありえないのだから。


『まさに人徳というやつですね』

『煽った手前、グレアに悪評がついてなくて良かったよ』


 煽ったときは、後でどうとでもなると言ったが、実際はもちろんそれほど簡単ではない。一度ついた悪評はそう簡単に拭うことは出来ない。時代を問わずそれは変わらない。


 聞けばグレアは現在彼女の祖父が収める辺境伯領に無事滞在しているらしい。実は意外と近い所にいたようである。


『主』


 雨は徐々に徐々に弱まっている。遠くの空では雲の隙間から光が零れている。

 それを見て、シロは腰を上げて、大きく伸びをした。


「それじゃあ、俺、そろそろ行きます」

「え、ア、じゃあ。出来ればオレも一緒ニ!」


 カリバルカの提案はとても合理的だし心情的にも理解できた。だが残念ながら、彼とゆっくり行動している時間が今のシロにはなかった。


「本当は一緒に行きたいんですけど、ちょっと立て込んでて。でもここから先はたぶん大丈夫です。出来るだけ大きな街道を選んで行ってください。それならきっと道中一人でも魔獣に会うことはないでしょう」

「え、あ、アァ」

「それでは、また」


 事情も分からず、呆気にとられたままのカリバルカを置いて、シロは走り出した。


 彼にかけた言葉は何の根拠もないものではない。カリバルカが辺境伯領へ向かうなら、道中で魔獣と遭遇することはないだろう。


『想定される仮想敵までの距離はおよそ四キロです』


 なぜなら、この先、辺境伯領までの道程、その間にいる魔獣は全てシロが殺すからである。

 

『視界に捉えました』


 シロの視界を介しているにも関わらず、シロよりも先にウルスが敵を補足する。不思議に思えるかもしれないが、それは特別おかしなことではない。シロの見ているものを、ウルスがリアルタイムで映像分析しているに過ぎない。


 視覚に補正が入る。上空の雲の切れ目、光の中に僅かな影が見えた。体長は先ほどの小竜の倍はある。そういった情報も現在進行形で補足、追加されていく。


『似てるけど親か?』

『同種ではありますが、二頭の距離が離れすぎているように思います』

『まったく、他に何匹いるのやら』


 カルダによる生息域の簒奪によって解き放たれた魔獣たち。その猛威を受けるのは、兵も物も尽きかけの国。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂と言えた。


『この国の惨状を考えると、風が吹いても痛そうだよな』

『痛風ですか』

『国が痛風とか、笑えないけどな』


 目算で算出された敵の位置は、上空八千メートル。シロがいるのはその真下。

その時ようやく竜がシロに気付いた。竜のその針のように細い瞳が地上を並走するシロへと向けられる。一鳴きして、開かれた口腔が見えた。


 竜の口腔、その奥に、小さな魔法円と燐光。

 その魔法の特性はすでに知っている。

 離れた場所を直接爆破する、狙撃爆破。自分のいる場所そのものが爆撃されるという強力な魔法だった。竜種に相応しい強力な効果と言える。


 通常の防御手段では効果は薄い。遮蔽物も視線を切る以上の効果は見込めない。


 空を舞う竜の口腔で光が弾けた。ほぼ同時に、シロの周囲で魔素が集約。次の瞬間、光が走り、爆炎が散った。距離を無視し、シロを標的とした瞬間的な爆撃。

 驚異的な魔法だが、しかしその魔法はシロを完全に補足しているわけではない。爆発の瞬間に驚異的な脚力で加速し、爆発の中心から逃れる事など、彼には容易いことだった。


 爆炎の中から抜け出したシロは再び視界に竜を捉えた。それはつまり竜にも再び捕捉されたことを意味する。


 再度、飛行する竜の口内に見えた燐光。黙って狙われ続ける理由はない。

 上空までの八千メートル、翼持たぬ人にとっては絶望的ともいえる距離。

 尋常ならざる力を込めて、シロは大地を踏みしめ、踏み抜き、跳び出した。

 

 砲弾のような速度で上昇するシロを、しかし竜の目は見逃がさない。二度目の魔法が行使され、再びシロへ向けた爆破が行われる。


 周囲の魔素が集約、爆破までコンマ以下の時間。シロは冷静に、高速で足で宙を蹴り出す。一歩で三千メートルを詰め寄る脚力だが、しかしそれだけで爆破の有効範囲から逃げるには至らない。蹴り出した足の先、まだわずかに舞う雨粒があった。


 足先が雨粒に触れた瞬間だった。繊細で精密な魔力操作によって、シロの肉体から雨粒に膨大な魔力が一気に流れ込む。水滴に加えられた過剰な魔力が膨張、そして水が弾けた。

 

 宙を舞う、埃や石、雨粒、それらに魔力を流し込み、弾けさせることによって推進力を得る。それが魔法によって飛行することが出来ないシロが考えた強引な空中の移動方法だった。


 爆破と同時に、シロの肉体は加速、難を逃れ、さらに竜との距離を詰める。

 シロが竜へと肉薄するまで、都合三度、狙撃爆破の魔法が使用された。シロは同様に三度空を蹴り、それらすべてを避けきった。


 眼前へと迫ったシロに竜がとった対処法は単純明快なものだ。尾を張り、爪を凪ぎ、牙を向く。それら全てが空を切り、シロは腰に佩いた鉈を引き抜き、上段から振り下ろした。


 ――閃光煌めく。


 赫い魔力光を纏った銀の刃が、竜の堅い皮を裂いた。そのまま肉を切り、骨を割り、首を両断する。するりと、柔らかい果肉を分かつように、胴体と首が離れた。


 赤い血をまき散らしながら、落下していく竜の肉体。

 シロも自由落下に身を任せながら、刃についた血を振り払い、一瞥。すぐに興味を無くした。


『次の出現予測箇所はここから二キロ先です』

『了解』


彼の心はすでに次の獲物へと向いていた。


――これより七日の間、シロは計六六七匹の魔獣を殺した。

以降、魔獣を狩って回る男の噂が国中で流れることになる。


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