第2話

 真っ暗で何もない虚無の空間に、まるで海原を当ても無く漂う流木の様に「彼」の体は力なく浮かんでいた。



 一体いつからその空間にいるのか、そもそも時間の概念自体この空間にあるのかすら「彼」には分らなかった。



 尤も今の「彼」の意識は夢の中にいるかのように曖昧で、今の状況を知覚しているのかすら怪しいが。



 体がふわふわと奇妙な浮遊感に包まれている。しかし不快感は無く、むしろ信じられないほど心地よい。ちょうど胎児が母親の胎内で微睡んでいるかの如く、素晴らしい多好感だった。



「おぉ……産まれ……」

「元気な………男の……」



 遠くから、声が聞こえる。



 だがその声は水中の様にくぐもって聞こえ、殆ど聞き取ることはできなかった。



「…名前は……」



 まぁ良いか。「彼」は微睡みの中でそう思った。



 聞こえようが聞こえまいが、この素晴らしく心地よいこの場所で眠り続けるのに何の関係がある?



 どうでもいい。このままずっとここで眠り続けていよう。きっとそれは素晴らしい事で……。



 しかし「彼」の願いは聞き届けられることは無く、意識は急速に浮上してゆく。さながら深海から引き上げられるかのように、急速に意識は覚醒へと向かっていく。



 嫌だ!このままずっとここにいたい!頼むから俺を起こさないでくれ!



「彼」は駄々っ子の様に抵抗したが、意識の浮上は止まらない。



 浮上に伴い、元々曖昧だった意識は完全に吹っ飛び、思考も、視界もすべてが真っ白く染まっていく。



「……チユキ………」



 全てが白く染め上げられる直前、遥か彼方で声が聞こえた気がしたが、すべてが白く染め上げられるのと同時に、声が聞こえた記憶も白く塗りつぶされていった。




 *




 目が覚めて最初に思ったことは、どうやら最低だと思っていた世界にまだその下があるのだという驚愕だった。



 最後の記憶はくそトラックに撥ねられ、くそ満月を見上げながら自身の命が消えていく悍ましい瞬間だった。



 だのに俺はまだ生きている。それも赤ん坊の姿でだ。そのことも驚愕なのに、父親と思わしき男や母と思わしき女の服装を見てさらに驚かされた。



 彼らの服装は映画とかで出てくるようないかにも西洋の、しかも古臭い服装で、例えるなら中世くらいの人物が来ているような服装だった。



 何だこいつらの恰好は?



 彼は訝しく彼らの服装を見て、それから馬鹿にしたように鼻を鳴らした。



 コスプレか?それとも今が中世と思ってるいかれポンチか?はん、そういう趣味はよそでやりやがれってんだバーカ。



 彼は口が開けないため心の中だけで嘲ったが、このあと目の前で見せられたことに、そんな皮肉も地平線の彼方まで吹き飛んだ。



 が彼を見下ろしながら(ここで彼は自分がベビーベッドの上で毛布にくるまっている事に気が付いた)、に捲し立てるように何事か喚いていた。



 どうも彼の内心が顔にでも出ていたのだろう。親を見ても笑っていない事があまり好ましくないらしく、父親は彼を笑わせるために母親に何事かを提案しているようだった。



 母親は父の申し出に快く頷き、彼の目の前に立つと人差し指を立てた。



 あん?何だ?人差し指で何しようってんだ?俺の眼球にでも突き立てるのか?



 人差し指を立てて前に立つ母親に、彼は小馬鹿にしたように口の端を上げた。



 母はそれを今からする事への期待と見て取ったらしい。もう片方の手で彼を軽くなで、今見せてあげるねと優しく囁いた。それを見てさらに彼は心の中で馬鹿にした。



 子煩悩のバカ!



 しかし彼の余裕もそこまでだった。



 母親の立てた人差し指からボッと音を立てて火が灯ったのだ。ただそれだけなら彼は手品か何かだろう、そんなことで喜ぶと思ったかあばずれめ、と心の中でさらに嘲りの言葉を重ねていたところだ。



 だがもちろんそれだけでは終わらなかった。



 母の指に灯った火は自立して浮き上がり、彼の前を行ったり来たりと飛び回ったのだ。



 さすがの彼もこれには驚きを隠せなかった。



 目を見張って揺れる火の玉を追っていると、唐突にパンッという音とともに火の玉は花火の様に弾けた。



 彼はびくりと身を震わせ、さっきまで火の玉があった虚空を茫然と見つめていた。



 これがテレビで見た事なら彼はインチキだと、とことんこき下ろしていただろうが、あいにく目の前で何か準備をしているような素振りも無しでこれを見せられたとあっては、さすがの彼でも何も言えなくなった。



 彼の中に先ほどまであった嘲りは跡形も無く消え去った。代わりに心を満たすのは未知なるものへの興味と怖れだった。



 もう少し彼の年齢が若かったなら、例えば学生くらいの頃ならあこがれと羨望の目で母を見ていただろうが、年を重ねた今では目の前で見せられたものがとても現実のものだとすぐには認められなかった。



 …冗談か?それとも俺はついに狂ったのか?轢かれた俺は実は生きてて、病院のチューブに繋がれた俺は気が狂って変な妄想をしているのだ。



 死んだと思ってたら別の世界に生まれ直し、その世界では魔法なるものが存在してるって妄想だ。どうだ?当たってるだろ?



 じゃなきゃ何なんだ?これが現実だとでも?



呆然と虚空を見つめる彼の反応に、興味を持ってくれたと親たち解釈したようで、二人は満足げな表情で頷きあった。



「見てよこの子のこの顔!あなたの言った通りだったわ!」

「だから言ったろう?赤ん坊には魔法を見せれば効果覿面さ!たちまち虜になって自分からもっと見せてと願うに決まってるのさ!」




 親の喜ぶ声が聞こえているが、彼はそれを気にしている余裕は無かった。



 混乱する頭でただ一つ分かった事は、自分がとんでもない世界に生れ落ちてしまったという事だった。



 彼の真っ白なこの世界が糞であるリストに、記念すべき一項目が書き加えられた。



 それはこの世界に魔法が存在するという事だった。



 彼の理解は新しく生まれ変わったっという事ですらキャパオーバーだというのに、さらに魔法なるものが存在するという事がわかり、赤子の脳であることが加わって完全に処理能力の限界を超えた。



 彼は白目を剥いて気絶した。



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