第27話 異世界へのグラン・パ・ドゥ・シャ3

 美嘉のお願いは、翌日には叶えられた。

 元は物置だったという部屋は、置いてあった荷物を片付けてしまえば、それなりの広さのある部屋になった。床にはワックスがかけられていて、木材の色が艶々と明かりに照り返るほど艶やかになっている。

 満足した美嘉が部屋を見渡すと、小さなピアノが片隅に置いてあった。追加で頼んだそれがちゃんと置かれていることに思わず頬がゆるむ。

 踊るためには伴奏がいる。

 バレエは音楽を身体で表現する舞踊だ。音楽がなければ始まらない。

 伴奏はナディアにお願いしてある。ナディアはピアノを嗜んでいるらしく、手が空いた時には美嘉の世界の音楽を楽譜に起こすという遊びをしていた。幸いなことに、その楽譜の中には美嘉がお願いしたい曲目も入っていたから、ナディア以上の適任者はいないと思った。

 部屋を一望した美嘉は、くるりとロイクの方を振り返ると頭を下げる。


「我が儘を叶えてくれて、ありがとうございます」

「これくらい我が儘にはならない。不要な部屋を片付けるくらい造作もない」


 至極当然だというように述べるロイクに、美嘉の表情もほころぶ。

 昨日の熱が消えぬ内に、ロイクに全てをさらけ出してしまいたい。

 はやる気持ちを抑えながら、美嘉はロイクに「準備ができたらまた呼びます」と言って自室に戻る。

 自室に戻ると、ナディアに『例のモノ』を持ってくるように頼んだ。

 一度退室したナディアは、すぐにそれを両腕いっぱいに抱えて戻ってきた。

 それを受け取って化粧台の横に置くと、美嘉は化粧台の前に座る。

 化粧台の前に並べられているのは、華やかな異世界の化粧道具たち。

 美嘉はナディアにお願いして、最初に髪を結ってもらうことした。

 前髪も横髪も全部ひっつめて、ポニーテールにしてもらう。ワックスを使って、髪一本だってほつれないようにしっかりと結ってもらった。

 ポニーテールができたら、足元に置いていた『例のモノ』の内の一つを手にする。

 手に取ったのは小さな箱。

 箱を開けると、中には丁寧に納められたヘアネットと、ヘアピン、そして淡いピンクのビジューで飾られたヘッドドレスがあった。

 美嘉がこの世界にやって来た時に使っていたヘアネットとヘアピンを使って、シニヨンを作る。

 鏡を見ながら出来映えを確認すると、ナディアにヘッドドレスを渡して、つけてもらった。


「これでよろしいでしょうか」

「うん、そう。それじゃ、次はお化粧だね」


 ナディアがブラシやワックスを片付ける。

 その間に美嘉はさっと化粧水諸々の下地を顔に塗りたくった。


「バレエのメイクは、舞台で映えるように体を白くするんです」


 本当なら絵の具のように真っ白な白粉をするのだけれど、今回はスポットライトのない明るい室内が舞台だ。

 ナディアが事前に室内でも映えるようにと選んで用意してくれた自分の肌の色に似た白粉を使う。その白粉を顔だけではなく、首、胸元、腕、そしてナディアに手伝ってもらって背中にも塗り込んだ。

 白粉を塗りたくった後は、くっきりと眉を整え、付けまつ毛はないが、アイラインを黒くくっきり筆で縁取り、目の印象を大きくする。アイシャドウがわりに紅も差した。

 チークで頬を色づけ、シャドウで鼻筋の立体感を浮かび上がらせ、最後に口紅をぽってりとした唇にのせる。

 そこまで装えってしまえば、化粧台の鏡には美嘉の面影をほんのり残しただけの別人が映った。

 ナディアがすっかり雰囲気の変わった美嘉を見て感嘆する。


「もはや別人ですね……お美しいです」

「ふふ、この状態の私は妖精らしいしもんね」


 冗談めかして言えば、ナディアはにっこりと笑って「その通りです」と言う。

 二人でくすくすと笑いながらも、美嘉は立ち上がる。ちょっと恥ずかしいので、ナディアに後ろを向いてもらうと、一息にショーツ以外の全てを脱いだ。

 化粧台の鏡に、ほぼ生まれたままの姿の美嘉が映る。

 ちらりとそれを見ただけで、美嘉は床に置いた荷物の中から白いタイツを手に取った。

 足を白く染め上げながら、ふと最初の頃、この素材は何かと質問攻めにしてきた服飾好きなメイドのことを思い出して、笑いが込み上げた。そのメイドは今、恥ずかしがる美嘉のために後ろを向いてくれている。

 タイツをはき終わると、鏡の前でくるりと回って穴が開いていないか確認をする。

 洗濯したと聞いていたけれど、とても気を遣ってくれたらしく、破れて穴が空いていることもないし、伝線している所もない。

 うん、と一つ頷くと、今度は大きく存在感のある『それ』に目を向ける。

 薄いローズクォーツのような色合いの薄布をたっぷり重ね、ゴールドの糸で刺繍がされたチュチュ。

 美嘉がこの世界にやって来る時に着ていたのは、袖がなく、スカートが腰回りで放射状に広がったクラシックチュチュだった。

 美嘉はそのチュチュに足を差し入れ、胸まで引き上げると、ナディアを呼ぶ。

「ごめん、うしろを留めてくれる?」

「ええっと」

「ファスナーを上げて、留め具をはめるだけです」

「ファスナー?」

「えっと、銀のつまみがない?」


 そういえばこの世界にはファスナーがないのかと思いながら美嘉がお願いすると、ナディアもなんとか理解してくれたらしく、背中のファスナーを引き上げて、留め具をはめてくれた。


「ありがとう」


 くるりとふり返ると、正面から美嘉を見たナディアがほぅとため息をついた。


「まさしく天上の妖精ですね……この世の者とは思えないくらい、神秘的です」

「もう、お世辞がうまいんだから。誰だってお化粧してこのチュチュを着れば、妖精になれるよ」

「いいえ、ミカ様だからこそお美しいのですよ。体つきや顔つき、何もかもがミカ様のために誂えられているようなものです」

「ナディアも似合うと思うけどなぁ……」

「ご冗談を。こんな贅肉だらけでそんなお衣装着たくありません」


 そうは言うが、腰回りなんかは美嘉よりもナディアの方がずいぶんと細い。長袖のメイド服に隠れて腕などは分からないけれど、コルセットを付けて矯正してきたという細い腰つきこそ、美嘉が羨むものだ。もっといえば、その細い腰を強調するような豊かな胸は女性的な魅力が詰まっていると思う。

 美嘉の体つきはバレエをする者にとっては確かに天恵だけれど、女性の体としてはちょっぴり物足りなかった。日本では平均より高い身長も、薄い胸元も、鍛えて太くなりがちな足も、ちっとも女性らしくない。身長に関してはこちらの世界では欧米に似て女性の平均身長に収まってしまうから気にしてはいないのだけれど。

 そうやって二人でじゃれあいながら、美嘉は最後の仕上げに残った最後の一つを手に取った。


「いつ見ても、不思議な形の靴ですね。つま先がまっ平らです。そんな形で痛くはないのですか?」

「痛くはないよ。これは私にとって魔法の靴だから」


 今度こそ失敗しないようにと念入りに手入れがされたトゥシューズ。

 美嘉はチュチュを崩さないように床に直接座ると、つま先を保護する当て布でつま先を覆ってから、そっとトゥシューズに足を差し入れようとした。

 その時だった。


「そうですわ。せっかくなら、本当の魔法の靴にいたしましょう」


 ふと、ナディアは思いついたように言い出した。

 いったい何をと美嘉が首を傾げると、ナディアは「そのままでお待ちください」と言って部屋を出ていってしまう。

 戸惑いながらも部屋に取り残された美嘉が

 言われた通りに待っていると、すぐにナディアは戻ってきた。


「シンデレラというのは、運命の王子に魔法の靴を履かせていただくのでしょう?」


 微笑みながら部屋に入ってきたナディアの後ろから現れたのは、別室で待っているはずのロイクで。

 ロイクと視線がからんだ瞬間、ロイクの瞳の色が劇的に変わった。

 野に咲く花のようなチュチュを身にまとい、床にぺたりと座った妖精を見つけたロイクは、とろりと琥珀の瞳を蕩かせる。

 その熱の籠った眼差しに、美嘉の頬もほんのりと熱を持つ。

 ロイクにこの姿を見せるのは二回目だったけれど、出会った時以来、この姿を見せる機会は一度もなかった。

 隠していた自分を見せるようなこの姿は、美嘉の中になんだか気恥ずかしさを込み上げさせる。

 恥ずかしがって視線を逸らした美嘉の前にひざまずいたロイクが、美嘉の視線を奪うようにやや強引にその顎に手をかけた。

 せっかく逸らした視線が引き戻される。

 ロイクの琥珀の瞳に、すっかり姿を変えてしまった美嘉が映り込む。


(……ううん、違う。これが私。ロイクさんの元に落ちてきた私の、本当の姿)


 ロイクの瞳に映り込んだ美嘉の姿が大きくなる。

 ロイクの琥珀色が、美嘉の黒曜石の瞳いっぱいに広がる。

 あ、と思った時には、美嘉の唇にロイクの唇が触れていた。

 お砂糖のように甘い気持ちと、火傷しそうなほどに熱い吐息。

 一瞬だけ交わされた口づけに、美嘉の頬紅がさらに赤く色づいた。

 恥じらう美嘉に、ロイクが切なくもうっとりとした視線を向けてくる。


「綺麗だ」


 微笑むロイクの唇に美嘉の口紅が移って、男の色気を際立たせる。

 思わずその官能的な光景に、美嘉は魅入ってしまった。

 お互いがお互いに見惚れて時が止まる。

 そのまま永遠に時を止めようとした二人の間に割りいるように、ナディアが咳払いした。


「旦那様」


 はっとした美嘉がさらに恥ずかしそうに視線を床へと落とし、ロイクも気まずそうに咳払いをして誤魔化す。

 そんな二人を微笑まし気に見ていたナディアは、ロイクにトゥシューズを差し出した。


「旦那様、これを」

「……これは?」

「妖精の靴ですよ」


 にこにこと笑うナディアがそんなことを言う。


「さあ、ミカ様に魔法をかけるお時間です」


 ナディアがさながら、シンデレラに出てくる魔法使いのような言葉を口にする。

 白鳥の湖について語った後、ナディアは美嘉に他にも似たような話はないのかとねだった。

 その時に幾つか物語を聞かせたのだけれど、その中でもシンデレラがナディアの一番のお気に入りだったようだ。

 ナディアはロイクに、シンデレラの王子様のように靴をはかせようとしている。

 美嘉の靴は硝子の靴ではないけれど、でも、それは間違いなく、ロイクと美嘉を繋いだ運命の靴。

 ロイクが手渡されたトゥシューズを手に、戸惑った表情になる。


「これは、どうすればいいんだ?」


 情けなく眉を下げたロイクに、美嘉は微笑んだ。

 美嘉の王子様……いいや、騎士様に、美嘉は問いかける。


「はかせて、くれますか?」

「もちろんだ」


 一も二もなく頷いたロイクを見て、美嘉は腕を使わず、脚だけでそうっと立ち上がる。


「器用ですね」

「ふふ、これくらいできなきゃ」


 ナディアの感嘆の声に、美嘉は照れながら胸を張った。


「ミカ、肩に手を」

「はい」


 ロイクの声に美嘉が膝をついた彼の肩に手をかけ、そっと右足を差し出す。


「これは?」

「つま先を守るためのものです」


 ロイクが納得したように、布に覆われた美嘉の足へとトゥシューズをあてがった。


「そのリボンを時計回りに足首に回して……もう片方のリボンは交差するように反時計回りで……そうです」


 美嘉の指示で、ロイクが二本のリボンを足の甲でクロスさせ、足首を覆うようにして一本の輪になるように巻いていく。結んだ端は巻いたリボンの内側にしまいこんだ。

 もう片方の足も同じようにしてトゥシューズをはかせてもらう。

 トゥシューズをはき終わり、美嘉は足を引こうとした。

 だけどロイクが、その足首を優しく掴んで離さない。

 戸惑った美嘉が視線を下すと、ひざまずいたロイクが上目に美嘉を見やる。

 そして、そのつま先にキスを落とした。

 驚いた美嘉が声もなく固まると、ロイクはゆっくりトゥーシューズから唇を話して、立ち上がる。


「楽しみにしている」


 余裕の笑み浮かべ、ロイクは颯爽と部屋を出ていった。

 部屋に残った美嘉は、パチパチと数度目を瞬くと、そっと顔を手で覆った。

 その耳が真っ赤になっている。


「ミカ様?」

「は、い……」


 恥じらいながらも美嘉は返事をする。

 好きだ、とか、愛しい、とか。

 ロイクから貰ったそういう気持ちは、ちょっとずつ美嘉の心に根づいていたけれど。

 美嘉へひざまずき、あまつさえ、つま先に口づけた男をかっこいいと思ってしまったのは、初めてだった。


「ナディア、どうしよう……ロイクさんがかっこよくて、胸がドキドキするの」


 美嘉の純情さがとても好ましくて、ナディアは微笑んだ。

 それから気を利かせて、口紅を化粧台から持ってきてくれる。


「それは素敵なことですね。さぁミカ様、口紅をお直ししましょう。旦那様のせいでとれてしまいましたから」


 ナディアの言葉に、唇へのキスを思い出した美嘉は、ますます恥ずかしがって顔をうつむかせてしまう。

 その美嘉の顔を上げさせて、ナディアが口紅を塗り直した。

 完璧に装った美嘉ははにかんで。ナディアにお礼を言う。

 妖精の舞台がいよいよ幕を開けようとしていた。

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