[短編]No.3 想い、還る、あの日へ


 広く澄み渡った秋晴れ……には程遠いどんよりとした曇り空の下で、僕は息を切らして立っていた。


 肺が痛い。手が痺れている。


 もう若くはないんだな、なんて年寄りくさいことを考えながら、一際大きく息を吐き出した。


「おい、大丈夫か? さすがに卒業してから十年も経つとキツいよな」


 すぐ近くにいた細身の男性が、僕にタオルとペットボトルのお茶を渡してくれた。礼を言ってから受け取り、パキッと蓋を開ける。そのままぐいっと三分の一ほど喉へと滑らせ、ようやくひと心地がついた。


「生き返ったよ。改めて、ありがとう」


「おう、いいってことよ。よし、んじゃあ俺もちょっくら穴を掘ってくるかな」


 細身の男性はそう言うと、スコップを肩に担ぎ、少し離れた所で群がっている人の輪の中へと消えていった。


 僕がいる場所は、かつて通っていた高校の校庭。卒業してから、既に十年の月日が流れている。

 今日は、当時の授業の一環で埋めたタイムカプセルを掘り起こしに来ており、かつてのクラスメイトたちが代わる代わるスコップで土をどかしていた。


「いや〜、もうさすがにあの頃ほど体力はないな〜」


 高校時代、クラスの中心にいた猪瀬くんが、肩にかけたタオルで額の汗を拭いながらつぶやいた。


「あぁ、そうだな。運動不足でどうにも……アイテテッ、腰が……」


 当時、猪瀬くんと仲が良かった長身の鶴田くんが腰をさする。


「いやいや、それはさすがにおじさんすぎるだろ」

 

 どはっと笑い声がこだました。僕にとっては何が面白いのかわからないが、ここ数年で培った営業スマイルで対応しておく。


 僕自身、高校生の時はそんなに社交的な方ではなかった。今も社交的とは言い難いが、あの時よりは幾分マシになっている。さすがに、社会人として生きていくためには、最低限のマナーと社交性が必要だから。


「それにしても、あんまり集まらなかったね。やっぱり、みんな仕事忙しいのかなぁ」


 秋っぽいカーディガンを羽織った女性が、残念そうに辺りを見回した。確か、当時猪瀬くんと付き合っていると噂されていた清水さんだったか。

 みんなが彼女の動きにつられて見渡し始めたので、僕もなんとなく首を動かす。

 校庭には、かつてクラスにいた人数のおよそ三分の一である僅か十数人程度しかいなかった。僕自身もあまり気は進まなかったが、とある事情があり有休をとって来ていた。


「おーい! あったぞーーっ!」


 なんとなく沈み込みかけていた空気を吹き飛ばすような、ハリのある声が響いた。声の方を見ると、がっしりとした体つきの男性が手を振っている。多分、高校時代、応援部部長を務めていた堂本くんだろう。


「うわぁ〜、なつかしー」


「あー! この缶に描いてあるキャラクター、当時めっちゃ流行ってたよね!」


「そうそう! なんかこう、キモ可愛いって感じで!」


「いやー、俺たちにはわからん感性だなぁ。十年経ってもわからんし」


 高校の休み時間みたいに、和気あいあいとした会話がグラウンドに飛び交う。

 僕はその様子を、人ひとり分ほど空けた外側からぼんやりと見つめていた。

 

「よーし、んじゃあ開けるぞー。今から配るから、取りに来てくれー」


 そう言うと、堂本くんは土の中にあるビニール袋に入った缶を拾い上げる。そして袋を丁寧に裂き、缶の蓋をガコッと開けた。

 中には、イメージよりも若干色褪せた封筒がぎっしりと詰まっていた。当時のクラスメイトの分、ざっと四十五枚。保存状態が良くなるように気を遣っていたこともあって、どの手紙も湿気でやられたりはしていないようだった。


「まずは……猪瀬、お前だな」


「サンキュー」


「次は鶴田、ほれ」


「お、おう」


「坂田……は、いない。長谷川も、いない。おっ、この落書き封筒は清水だな」


「ちょ、ちょっと! 見ないで!」


「ははは、悪い悪い」


 封筒はどんどん配られ、ここにいない元クラスメイトの分は裏向きに置かれた蓋の上に男女別に振り分けられていく。


「やっぱいないやつ多いなー……お、唐沢のだ。おーい、唐沢〜お前のあったぞー」


 僕は内心、ドキドキしていた。ここに来たのは、自分のものをもらう以外にもうひとつ、用事があったから。


「……おーい? 唐沢?」


 肩をポンと叩かれて、僕はハッとした。みんなが僕に注目していた。


「あ、あぁ……ごめんごめん」


 顔が熱くなるのを感じながら、そそくさと封筒を受け取る。恥ずかしいな。こういうのは、いつまで経っても慣れない。


「よーし。全員……といっても三分の一くらいだが、行き渡ったな。……ということで、ここで誰かひとり、代表して読んでもらおう!」


 堂本くんの言葉に、今度は顔の熱がスゥーっと下がっていくのが分かった。


「は? マジ?」


 僕が心の中で思ったことを、鶴田くんが声に出して言った。


「マジマジ」


「嫌よ! 自分の黒歴史を晒すなんて!」


 清水さんは、カーディガンの色に負けないくらい顔が真っ赤だ。


「そんなヤバいこと書いたのか?」


 堂本くんが、広げられた彼女の手紙を上から覗き込む……が、ベシッと小気味良い音を出してはたかれた。


「見ないでぇっ!」


「ってえ〜……じゃあ、清水は無しってことで。他の女子も嫌そうだから、ここは男子でじゃんけんだな」


 なんでそうなる。

 僕は心の中で絶句した。こういうノリは本当に苦手だ。


「いくぞ〜! ちなみに俺も知られたくないから全力で勝ちにいくっ!」


「じゃあこんな提案するな」


「そこは心も当時に帰って何とやらだ。いくぞっ!」


 最初はグー、じゃんけん〜……と聞き慣れた台詞を、聞き慣れない数人の声色がタイミングを合わせて言い……


「ポンっ!」


 数回はあいこになるだろうと思ったが、思いがけず初手で勝負は決まった。


「猪瀬……じゃあ、よろしくっ!」


「堂本……後で奢れよな」


 不満そうにしつつも、猪瀬くんは一度折った便箋を再び広げ始めた。そして……


「十年後の自分へ。

 おっす! 二十七歳の俺よ、何してる?

 拓哉や誠とは仲良くやってるか? 今の俺は毎日が楽しくて、バカ騒ぎばっかりやってるよ。やっぱりこいつらと一緒にいると自分らしくなれるっつーか、まぁ楽しいんだよな。

 どうだ? 二十七歳も楽しいか? 大人になるってよくわかんねーけど、父さんとか見てると楽そうじゃねーよなって思う。大変なことも多いんだろうな。今の俺じゃ想像もつかないけど、でもその分、楽しいこともたくさんあるって信じてるよ。頑張ってくれよな。

 あ、あと――」


 耳心地の良い声で、流れるように読まれたその内容は、お手本のごとく心に沁みてきた。と同時に、改めて僕じゃなくて良かったな、と思った。


「――んじゃ、そろそろもらった便箋も終わるから、この辺で。じゃあな。壁にぶち当たってもめげるんじゃねーぞ。猪瀬大輝――」


 パチパチパチパチッと拍手が沸き起こる。僕も御多分に洩れず、強めに手を叩いた。黒歴史どころか流石の内容で、見ると、女子の何人かは少し瞳を潤ませていた。



「よぉーし、ここで――」


 堂本くんが、おそらく一度締めるための声をあげようとしていた、その時……――


「――っと、終わる前にここで壁をひとつ用意しておくな」


 なんと、彼のタイムカプセルの朗読はまだ続いていた。一同が驚いたように、彼を見つめる。

 そこで、猪瀬くんは躊躇うような間をおいた。

 たっぷりと、五秒くらい。

 言うべきか、言わないべきか、迷っているようだった。


「――高校生、猪瀬大輝は、幼馴染の清水沙耶が好きだ。付き合ってるって噂されてるけど、実際はそんなことない。曖昧な、付かず離れずの関係だ。俺はそんな関係に、いつか終止符を打ちたいと思ってる。大人の俺は……どうする? じゃあな」


 彼は最後まで読み切り、顔を上げた。その目は、真っ直ぐに――清水さんを見ていた。


「沙耶。結局、俺はあれから十年もお前に気持ちを伝えられなかった。今日も、ここに来るまで決心がつかなかった。こんなヘタレな俺だけど、やっぱりまだ……俺は沙耶が好きだ」


「大輝……」


 清水さんはと言うと、泣いていた。顔を真っ赤にして、手を震わせて。そして……


「私も……ずっと好きでした」


 溢れるように、そっと言葉を吐き出した。


 ――そこで、喝采が沸き起こる。


「うおおおおおおぉぉぉおっ! マジかっ! こんなことってあるんだなー! おめでとうー!」


「沙耶ちゃん! おめでとう! やっと、やっと叶ったね……っ!」


「うん……ありがとう。もう諦めようと思ってたから……ぐすっ、嬉しいっ!」


「大輝……お前付き合ってなかったのかよ」


「うっせーな。だから何度も言ったじゃねーか」


「てっきり照れ隠しだとばかり」


 青臭い、青春の輝きが、グラウンドの一角に満ちていた。そこにいるのは、二十七歳の男女ではなく、紛れもない高校生の男子女子だった。

 眩しくて、もう帰ることのできないあの頃に、確かにみんなは帰っていた。



 僕は……――。





「よーっし、今度こそ一旦解散な! 今日来れなかったやつらの手紙は近くに住んでいるやつとか、仲の良いやつが持って帰って渡してくれ。あ、間違っても中身は見るんじゃねーぞ? 誰もが猪瀬みたいな青春タイムカプセル埋めてるわけじゃねーからな」


「そういう堂本はどんなタイムカプセル埋めたんだよ。どれ、貸してみ」


 堂本くんが今日来てなかったクラスメイトの手紙の束を分けようとしている隙に、鶴田くんがひょいっと彼の胸ポケットに入れられた手紙を奪った。


「うぉーいっ! ちょ、待って! 返して! それだけは勘弁――」


「えーと、なになに……『俺は佐山恵里菜のことがずっと好きで……』っとおっ!?」


 若干手遅れな形で、堂本くんはバシッと手紙を取り返した。その顔はとても真っ赤で、頭から湯気が出るんじゃないかと思うくらいだ。


「鶴田、てめぇ……お前のも貸せー! 黒歴史を白日のもとに晒してやっからっ!」


「え、それは無理だって!」


「問題無用っ!」


 気持ちは十七歳、身体は二十七歳の男たちによる追いかけっこを眺めながら、僕はさっき挙がった名前を心の中で反芻していた。


「佐山、恵里菜……懐かしいな」


 ふと、声に出ていた。

 だけど。その声に気づいて、驚いたのは僕だけだった。



 ***



 彼女とは、同じ町内に住んでいた。

 小学校の頃は活動範囲も広くなく、近くに住んでいるのは彼女だけだったので、一緒に帰ったり、時々遊んだりしていた。


「ねぇ、タカちゃん。このお花はなんて名前なの?」


 僕の名前は孝明たかあきなので、彼女からはタカちゃんと呼ばれていた。


「それはね、キュウリグサだよ」


「キュウリグサ⁉︎ ってことは、きゅうりができるの⁉︎」


「いやまさか。葉っぱとかたくさん触るときゅうりみたいな匂いがするかららしいよ」


「へぇ〜。……あっ! じゃあこのお花は?」


 恵里菜は花が好きだった。よく帰り道の途中に雑草やら花やらを見つけては僕に名前を聞いてきた。

 最初は僕も全然知らなかったが、彼女に聞かれるたびに調べていたおかげで、かなり花に詳しくなってしまった。


「お花っていいよね〜。可愛いし、見ていて飽きないし!」


「そうだね。でも五歩歩くたびに見てたら夕方になっちゃうよ」


「いいの! 私、タカちゃんとこうしてお花見るの好きだし!」


 ふわりと笑う彼女の笑顔は、花のように可愛らしくて。


「そ、そうなんだ」


 思わず照れてしまうことなんて、数え切れないくらいあった。


「うん! これからも、いろんなお花の名前、教えてねっ!」


 そんなふうに言っていたのも、小学生までだった。

 中学生になると、男子は男子と、女子は女子とで一緒にいるのが当たり前になり、部活に入ったこともあって一緒に帰ることもなくなっていった。

 僕は元気に外で動き回るスポーツマンとは真逆の大人しいタイプだったので、同じような友達と一緒に読書部に入った。対して、彼女は足が速かったので陸上部に所属。持ち前の俊足を活かして大会でも好成績を連発し、社交性も高かったためクラスの人気者だった。


「ねぇ、聞いたよー! 恵里菜、また告られたんだって?」


「え? 何で知ってるの?」


「そりゃ恵里菜目立つからねー。それでそれで? どうするの?」


「んー、まだちょっとそういうのわからないから……」


「えー! もったいないー! 彼めっちゃ頭良くてかっこよくて、恵里菜と同じで足も速いのにー!」


 そんな会話が聞こえてくるのも、一度や二度ではない。パッチリとした目に、艶やかなセミロングの髪。おっとりとしたあどけなさに、ふわりと笑う彼女の表情も合わさって、彼女の可愛らしさは群を抜いていた。


 正直に言うと、僕は恵里菜のことが好きだった。小学生の頃から、


花を前にして朗らかな笑みを零す彼女が、


無邪気に話しかけてくる彼女が、


一緒にいて心から笑い合える彼女が……


――どうしようもなく、好きだった。



 でも。


 人気者の恵里菜と、地味な僕。


 そんな混ざり合うことのない僕らの関係は、そのまま順調に高校まで続き、気がつけば卒業式の前日になっていた。



 あの日も、それまでの変わらない日々が流れていくはずだった。


 いつも通りの時間に起き、いつも通り身支度を整え、いつも通りトーストをかじりながらお天気情報をぼんやりと眺めていた時。


「そういえば恵里菜ちゃん、九州の方に引っ越すらしいわね」


 台所で茶碗を洗いながら、今思い出したみたいに母が言った。


「は?」


「え? 知らなかったの? 恵里菜ちゃんのお父さんが九州支部に赴任することになったとかで、全員で引っ越すらしいわよ」


 初耳だった。驚きのあまり、咥えていたトーストが床へと落ちていった。


 だって昨日、彼女は、友達と笑いながら地元の大学に行くって言っていたから。僕と同じ学部に進学するって言葉が、聞こえていたから。


 この六年間で、恵里菜と一緒に帰ったのは中学生の最初の頃に二、三回。言葉を交わした回数は余裕で十指に収まる。だけど、自然と目で追った回数は数知れない。

 そんな、疎遠ながらも僅かに繋がっていた関係すらも崩れていく音が、聞こえた気がした。


 ***


「おーい! 唐沢!」


 名前を呼ばれて、ハッと我に返った。


「あ、なに?」


「いやさ、今日来てないやつのタイムカプセルを近くに住んでるやつが渡しに行こうってなってるだろ? 確か佐山は唐沢と同じ町に住んでたはずだし、持っていってくれない?」


 何も知らない顔で、クラスメイトのひとりは僕に彼女の手紙を渡してきた。

 まぁ、当たり前だ。彼女はクラスメイトの誰にも告げることなく、遠い地へと引っ越してしまったのだから。


「あぁ、わかった」


 なるべく平静を装いながら、僕はそれを受け取る。


 十年前の彼女が、未来の自分へ宛てた手紙。


 ……のはずなのだが。


「よっし! 一旦解散なー! 十八時から店予約してるから、来れるやつは来てくれよー!」


 そんな声がどこか遠くに響いている中、僕はそっと高校を後にした。


 

 ***



 卒業式の前日、僕は学校が終わってから校門付近で彼女を待っていた。


 本当に九州に行ってしまうのか。

 どうして言ってくれなかったのか。

 実際に行く大学はどこなのか。

 

 聞きたいことがたくさんあった。

 話したいことがたくさんあった。

 伝えたいことが……――


「恵里菜〜! この後どこ行くー?」


「んー、そうだね〜」


 その声に、ハッと我に帰った。声の方へ向く間も無く、彼女が生徒玄関から出てきた。友達と楽しそうに、話しながら歩いてくる。

 その様子は至っていつも通り。制服に身を包み、カバンを前に後ろに振りながら、ほんわかのんびりと笑っている。そんな様子からは、明日を境に住み慣れた所から旅立ってしまうなんて微塵も思えなかった。


「……あっ」


 その時、彼女と目が合った。彼女の黒い大きな瞳が僕を捉える。


「どうしたの?」


 突然立ち止まったのを不思議に思ったのか、彼女の横にいた友達が首を傾げた。


「あ、ごめんね。そういえば今日、親戚の家に行かないといけないの忘れてた!」


「親戚の家?」


「うん、卒業の報告。明日は打ち上げだからね〜」


「そっかぁ、残念。それじゃあ、また明日ねー!」


「うん、バイバーイ!」


 そんなやり取りの後、彼女はゆったりとした足取りで僕の近くまで歩いてきた。


「なんか、久しぶりだね、タカちゃん」


「う、うん。そうだね」


 本当に久しぶり過ぎて、ぎこちなく返事をしてしまった。最後に話したのは、いつだっけか。


「ねぇ! 昔みたいにさ、一緒に帰らない?」


 彼女は特に気にした様子もなく、そう笑いかけてきた。僕は無言で頷き、どちらともなく校門の外に向かって歩き出す。


 それからしばらく、静かな時間が流れた。

 聞こえるのは、まばらな二つの足音だけ。小学生の時は当たり前のようにしていた会話は、全くと言っていいほどなかった。


 閑散とした住宅街を抜け、猫の額のような公園を通り過ぎると、小学生の時によく歩いていた小道に出た。すぐそばには沿うようにして小さな川が流れており、川と道を隔てる柵の下には、そよ風で揺られる草花が顔をのぞかせている。


「ふふっ、懐かしいね〜」


 不意に、恵里菜が何かを思い出したようにつぶやいた。


「そうだね」


 無難に、相槌を返す。きっと、僕と同じく小学生の頃を思い出しているんだろう。

 

「あっ! 綺麗な花!」


 そんなことを考えていると、まるであの頃に帰ったみたいに彼女が突然声をあげた。そして小走りで駆け寄ると、丁寧にスカートを折り曲げながらしゃがみ込む。


「小さくて可愛いね〜。でも、こう……なんていうんだろう……それだけじゃなくて、美しい? って感じのする花だね〜」


「オオイヌノフグリ、だね。僕も綺麗だと思う」


「だよね! 硬いコンクリートの隙間からひょっこりと小さな花を咲かせてて力強いなって思うし、この深い青色もとっても素敵」


 彼女はあの頃と変わらない笑顔を浮かべながら振り返り、僕を見つめる。


 胸が、苦しい。


 手が、震える。


 僕は、僕は……――


「恵里菜……遠くに、行くの?」


 気がつけば、聞いていた。自分の声に、心底驚いた。もっと遠回しに、それとなく尋ねるつもりだったのに。


 彼女はしばらく無言で僕のことを見つめていた。そこには、さっきまでの笑顔はない。


「……そっか、知ってるんだね」


 一時間とも、五分ともつかない静寂の後、彼女はぽつりとそう零し、不細工に笑った。


「本当は、引っ越ししてから手紙とかで言うつもりだったんだけど……仕方ないよね。

 ……うん、そう。私、九州に行くんだ。お父さんの仕事の都合で。大学生になるし、独り暮らしも考えたけど、家庭の理由で無理そうで……ついて行くことにした。だから、行く大学も実はこっちじゃないの。

 ……その、ごめんね。寂しくなっちゃうから、なかなか言えなかったんだけど……ちょうど良かった。タカちゃんに……言えて」


 彼女は次々と言葉を落としていった。その時の彼女はひどく饒舌で、早口で、時々口をつぐみながらも、ひと息に話していった。


 僕はと言うと、ただただ黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。何も言えず、何も聞けず、ひたすら無言で彼女の話を聞いていた。人二人分の距離を隔てたまま、僕は彼女を見つめていた。


「――最後に……ひとつだけお願い、聞いてほしいの」


 そして。僕が高校を卒業して十年後に、タイムカプセルを掘り起こしに来た理由へと至る。


「この前の授業で埋めたタイムカプセル……十年後に、タカちゃんが開けてくれないかな?」



 ***



「それにしても、なんでタイムカプセルなのに他人宛てに書いてるんだか」


 誰もいない電車の中。西日が差し込み、淡くオレンジ色に染め上げられた車内のイスに腰掛けながら、俺は小さく笑った。


 元クラスメイトから手渡された封筒を開けると、中には三つに折り畳まれた便箋が入っていた。

 宛名は――唐沢孝明。僕、だ。


『こんにちは。多分、私はこの手紙を取りに来ることができないと思うので、代わりに十年後の唐沢孝明くんに向けて、書こうと思います。なので、もし別の方がご覧になっていたら、彼に渡してください。お願いします。』


 ……律儀だ。

 情緒もなく、そんなことを思った。

 でも。いつも周りを気にかけている彼女らしい。


『さて。ここからは孝明くん……あ〜もうっ、堅い! タカちゃんが読んでると思って書くね!

 では改めて、タカちゃん久しぶり! 十年後のタカちゃんはどんな大人になってるんだろう。身長も伸びて、男らしくなって、髪なんか染めてたりするのかな?


 まぁそれはさておき。


 突然引っ越すことになって、多分、直接言えてなくて、ごめんなさい。怒ってる……かな? 本当に、ごめんなさい。タカちゃんに言っちゃうと泣いてしまいそうで、言えませんでした。

 小さい頃から、いつの間にかそばにいたタカちゃん。いつもってわけじゃないけど、一緒に遊んでいる時、本当に楽しかった。

 覚えてる?

 小学一年生の時、一緒に砂場でお風呂作ってて、なぜか水まで張って泥だらけのびしょびしょになって、二人で怒られたこと。

 学校の帰り道につくしを拾えるだけ拾って、私のお母さんにせがんで料理してもらって、二人で食べたこと。

 小学三年生の遠足の時に、私が水筒忘れて、タカちゃんがお弁当のおかずを忘れて、二人で分け合いっこしたこと。

 ほんと、楽しかったなぁ。普通、小学校の時の記憶なんて忘れるはずなのに、一番鮮明に残ってる。それも、タカちゃんとの思い出ばっかり。


 特に、私がお母さんを亡くした時と、下校中に道端に生えてるお花について教えてくれたことは、よく覚えてる。

 小学四年生の時、私のお母さんが病気で亡くなっちゃって、私毎日泣いてた。もう悲しくて悲しくて、辛くて、学校も休んでた。毎日タカちゃんが来てくれてたのは知っていたけど、会えるような状態じゃなかった。そんな悲しくて張り裂けそうな日がずっと続くんじゃないかって思ってた。

 でも、ある日。タカちゃんが持ってきてくれたプリントと一緒に、タンポポがあった。次の日はクローバー、その次の日はスミレ。その次の日も、またその次の日も……。「タカちゃんが摘んで持ってきてくれたんだよ」ってお父さんから聞いて、私はずっとその小さなお花たちを眺めてた。

 そしたらね、少しずつだけど、なんだか元気が出てきたの。こんなに小さなお花たちも頑張ってるのに、私だけ頑張らないで泣いてるのはお母さんが心配するかもって思うようになって。

 私が学校に復帰してからは、よく一緒に下校しては道端の草花を眺めて、タカちゃんにあれこれ聞いて、時には摘んでたよね。

 あれはね、実はお母さんのお墓に供えるために摘んでたんだ。「タカちゃんから、こんなことを聞いたよ!」って話しながら、お供えしてた。そしたら、お母さんも安心して天国に行けるような気がしたんだ。

 中学、高校とは疎遠になっちゃったけど、変わらず私はお母さんのお墓の前で、タカちゃんの話をしてた。結構私、タカちゃんのこと気にしてたからね? 意見文発表会で優秀賞獲ってたり、弁論大会とかに出て入賞何回もしてたりしたのも、知ってるんだからね!


 タカちゃんは、私にとって大切な人です。

 だから、幸せになってほしい。タカちゃんの幸せを近くで見れないのは寂しいけど、遠くからでも応援してるからね!

 

 なんか、今生の別みたいになっちゃったね(笑)

 でも、これからお父さんは何回か転勤あるみたいだし、そうなってもおかしくないよね。


 あーあ。私、もっとタカちゃんと一緒にいたかったなぁ。

 

 タカちゃんのこと、好きだったな。


 ……ふふっ。なんてね。


 それじゃあ、バイバイ』



「佐山恵里菜より……か」



 俺が今いるのは、電車の中ではなく、病院の一室。


 そして、目の前には……――



「ちょっとー! なんで声に出して読むの! 電車の中で散々読んだんでしょー! 恥ずかしいよ〜!」



 恵里菜が、悶えながら抱えていた枕に顔を埋めていた。



「うるさいな〜、僕だって恵里菜に急にいなくなられたのは寂しかったんだからね」


「うっ……ごめん。で、でも! なんだかんだで、大学卒業後に再会できたんだから結果オーライってことには……?」


「な、り、ま、せ、ん。ということで、これからの育児休暇の合間にたっぷりイジってあげるから、覚悟しておいてね」


「えぇ〜! 鬼ぃー! てかなんで十年も前の約束覚えてるのー! 嬉しいけどーー! でも突然持ってきて読み上げるのはなんか違うーーー!」


 病院の一室にそんな明るい声を響かせて、十年後の君がふわりと笑っていた。



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