四 対決



 そっと寝台を出て、裸足のままそろそろと居間へ繋がる扉の前へ歩いた。音を立てないようそっと、扉に耳を寄せる。物音はしない。靴を履いて書斎の鍵を開け、居間へ入った。誰もいない。


「……師匠、師匠?」

 コンコンとノックをしながら声をかける。返事がない。段々と大きく、ドンドンと叩いて大声を出す。

「師匠! ファロット!」


 扉の向こうは静まりかえっていた。さあっと血の気が引いて、ファロットの部屋の戸に耳を押しつける。魔法の気配はない。血の匂いもしない。幽かな……安らかな寝息が、一人分。


 ひとまず胸を撫で下ろして、エテンは嫌な予感を募らせながら部屋を見回した。師匠とファロットの部屋はそれぞれ内側から鍵が掛けられていて、解錠の術も使えなければ扉を蹴破れるほど強くもないエテンにはどうしようもなかった。


 唾を飲んで、廊下に繋がる扉をそろそろと開ける。扉の前には誰もいない。詰めていた息をそっと吐いた。左右を見渡して──床に倒れ伏している小柄な黒装束の人影。


「……マシュ?」


 呟いて、エテンは恐怖に内臓を鷲掴みにされたようになりながら人影へと駆け寄った。うつ伏せに倒れているその人を、肩に手を回してぐるんとひっくり返す。腹は裂かれていない。呼吸もしてる。たぶん眠っているだけだ。


「マシュ、マシュ! 起きて!」

 小声で言いながら、軽く頬を叩いた。けれど案の定、術で眠らされている彼女はぴくりとも反応しない。


「……全員眠らせたのか?」

 ぽつりぽつりと白い扉が並ぶ廊下を見遣って、エテンは呟いた。見た感じ、何かが起きているような様子はない。物音もしない。静まりかえった廊下に、エテンの浅い呼吸の音だけが響く。


「どうしよう」


 突然ひどい混乱が、腹の底から沸き上がりそうになった。息を止めて魔力を──叡智の神から祝福を受けた魔力を巡らせて、冷静さを取り戻す。ゆっくり深く呼吸する。もう一度。もう一度。


「僕じゃ勝てない……」

 か細い声でそう漏らす。


「……でも、僕しか助けられない」

 勇気を振り絞って、そう囁く。


 立ち上がると、震える脚で部屋へ駆け戻り、鞘に入った短剣を持ってマシュのそばへ戻った。この塔に来てからは一度も使ったことのない。家族と旅をしていた頃に愛用していた狩猟用の短剣だ。弓で仕留めて、短剣で喉をかき切る。けれどエテンにはそのどちらの才能も皆無で、いつも夕飯の調達は父と兄に任せきりだった。短剣は、芋の皮を剥くのに使っていた。


 数段しかない階段を二段飛ばしで駆け上がる。この辺りは特に、どこをどう、第何階層と呼べば良いのか難しい感じで入り組んだ廊下をしている。それに塔自体が円柱型をしているので、どの廊下も緩やかにカーブを描いていた。どれも侵入者を迷わせるため構造だ。犯人が内部の人間である場合、何の意味もないが。


 右、左、左、右──


 短剣の鞘を痛いほど握りしめ、角で曲がりきれず壁にぶつかりながら走った。ここを右に行って、また段を下りる。倒れている鷲族が、これで三人目。一番狭い通路を進んで、昇降機側に曲がる──扉は開いていない!


 一瞬、自分の推理が間違っていたらと逡巡する心が生まれた。全くエテンの勘違いで、彼は全然危なくなんかなくて、迷惑にしかならなかったら──


 けれどエテンはぎゅっと短剣の柄を握って、そんな自分の弱気を叱咤した。それならそれでいいじゃないか。謝れば済む話だ。もしも殺されてしまったら、どんなに願ったって二度と帰ってこないんだぞ。


「──タナエス様! タナエス様、無事ですか! 開けてください!」


 ドンドンと戸を叩き、ノブを掴んで引っ張る。鍵が掛かっていた。元から施錠されていたのか、それとも──


 カチャリ、と幽かな音が聞こえた。握る取っ手に小さな振動。息を呑んで、そしてゆっくり吐き出す。恐れるな、エテン。落ち着くんだ。落ち着いていないと、回る頭も回らなくなる。


 ギィ、と音を立てて扉に隙間ができた。室内を照らす月光で逆光になった、黒いマントの人影。


「……おや、エテン。どうして眠っていないのかな?」


 口元を覆う黒い布を押し下げて、師匠が不思議そうに微笑んだ。





「まだ調べたいことがあったのにとても眠くなったので、魔力で飛ばしたんです。普通の眠気だと思っていたんですが、違ったみたいですね」

「違和感を抱かせないようにと思ったんだけれど、術に慣らしすぎたかな。また私の不手際だ、君の力を見誤った」


 入りたまえ、と師匠が扉を大きく開いて室内にエテンを招き入れた。エテンが入ると後ろで扉が閉まり、カチャリと、背筋の凍る音を立てて鍵が閉まる。部屋の床には白いローブが広がっていて──傷つけられた天使の絵画みたいな感じで、服をはだけられたタナエスが転がっていた。浅い呼吸、見開かれた目。まだ死んでいない。血も出ていない。間に合った。


「驚かないね」

「驚いていますよ」

「なぜ異変に気づいた? いつも通りの、幸福な夜だったろう」

「鍵の音がしたんです」


「……鍵」

 師匠が思案するように目を細める。


「あの時と、同じ音がした。魔法で施錠する音。大抵の人間は魔力に無駄があって、パチっと弾けるような音がするんだ。でもルヴァルフェンサのそれは、とても繊細で最低限の魔力しか使っていない、手を使って閉める時と同じくらい静かな音だった。金属のこすれる音もしないから、もっと静かだったかもしれない」


「なるほど、参考にさせてもらおう」

 師匠が肩を竦め、そしてエテンが何か言う前に続けて問うた。

「なぜこの場所だと?」

「ルセラとトナを除いて、魔術師の中で一番魔石を多く使うのはタナエス様だって師匠が言ったんじゃありませんか。それに、研究室で彼の凝縮陣を見ていたでしょう? 僕にはファロットみたいな記憶力はないけど、魔法陣のことならわかるんです」


「ふむ。元から私がルヴァルフェンサだと知っていたような物言いだ」

 師匠が目を細めて微笑んだ。月光に瞳が青く光る。あの夜エテンが見ていたのはこの笑みなのだと、不意にはっきり思い出した。一見いつもの師匠と同じで優しげなのに、奥底まで毒で満たされた、熱くて冷え切った笑み。


「……タナエス様を自由にしろ、ルヴァルフェンサ」


 短剣を握りしめ、睨みつける。師匠はちらりと倒れた男の方へ目を遣って、肩を竦めた。

「それはできない。彼もあれでなかなか強い魔術師だ。私は荒事は好まないのでね」


 視界の端でパッと何かが動き、右腕が捻り上げられた。ゴトンと、重い音を立てて短剣が床に落ちる。手を離されるのと同時に、エテンの唯一の武器は部屋の向こうまで蹴り飛ばされた。


「……殺させない、絶対に」


 けれどエテンがそれで心を折られることはなかった。そもそも短剣なんて持っていたところで大して使えもしないからだ。少なくとも、あの鷲族を複数相手にして平然としていた相手に敵うようなものは何も持っていない。要するに、元から命懸けだった。


 何も持っていなかったはずのルヴァルフェンサの右手に、パッと銀色に輝くナイフが出現した。無我夢中でその腕に掴みかかる。盾の術に弾かれるかと思ったが、伸ばした手はすんなり届いた。


「人の血で染められたものだ、君には相応しくない」

 ルヴァルフェンサが言って、暴れるエテンの脚をひょいと払った。簡単に床へ倒されて、腹の上に膝をつかれる。


 とその時、白い影が背後からルヴァルフェンサを羽交い締めにしようとして、パンと何かの魔法で振り払われた。タナエスが床に倒れ込んで、殺人鬼が立ち上がる。


「……エテン、私の後ろへ!」

 掠れた声で言ったタナエスが咳き込み、血を吐いた。自由になったエテンはすかさず彼の方へ駆けて、前に立ち塞がる。


「後ろへと……言ったはずだ」

「黙って。それ以上無理に緘黙かんもくの術を破れば、二度と声を出せなくなりますよ」


 タナエスが呻いて、額に手を当てると再び床に転がった。気絶はしていないが、かなり無理をしたのだろう。倒れ方までものすごく美しい感じなのは、相変わらずだなと思うが。


 魔法も、魔術も使えない。エテンは完全に丸腰だった。身構えたところで何ができるわけでもないので、背筋を伸ばして真っ直ぐ立ち、ルヴァルフェンサを睨みつける。


「やめてください……どうして、こんなこと」


 けれど、口から出たのは実に弱気な言葉だった。ルヴァルフェンサはそんなエテンを見つめ、手の中でナイフをくるりと回すと口角を持ち上げる。


「遺石の美しさに魅了された、それだけだよ」

「そんなことのために人を殺して……ファロットを裏切ったんですか!」


 エテンが泣き叫ぶように言うと、師匠は優しい、本当にいつも通りの優しい声で「落ち着きなさい、エテン。私はそれより、君がどうして私を疑ったのか知りたいな」と言う。


「疑ってなんかいませんでしたよ。ついさっき、聖典を開くまでは」

「ふむ」

 ルヴァルフェンサは先を促すように頷いて、ソファにゆったりと腰掛けた。その姿にタナエスほどポーズが決まっている感じはないが、彼よりずっと隙がない。


「エテニア記です。それが長老の名前を指してるんじゃないかと、ファロットと話していた時……少しだけ引っかかってた。最終的に神の導きに従って救われたエテニアの名前を、ルセラは咄嗟に指し示すだろうかって。僕は長老を犯人にしようと、無理に理屈を繋げてるんじゃないかって」

「それで?」

「領主と、狩人と、エテニアの夫と……あの書物の中で誰が最も悪いやつだとか、そんな紛らわしい話じゃなかったんだ。神のいかずちで滅ぼされたのはあの中の誰でもなく『アラードの街』だって、神典にはそうはっきり書かれてるんだ……アルラダ師匠」


「おや、君に名を呼ばれると少し照れるね、エテン」

 ルヴァルフェンサ──アルラダが、少しも照れてなどいない鋭い視線で笑む。


「そう、私は彼女の伝言を見逃した。私の名を示す、決定的な伝言を。細々と浄化なんてせず、彼女の部屋も焼いてしまえば良かったね」

「その失態に気づいたから、トナを焼いたんですか」


 エテンが問いただすと、ルヴァルフェンサは「いや」と首を振り、おかしそうにくすりと笑った。

「あの子、天井いっぱいに大きな字で私の名を書いたんだよ。雷を迸らせて、焦げ目でね。あの時は流石に困ったな……まさかそれが、本当に残したいものへ目を向けさせないためのものだとは思わなかったけれど」


 それにしてもおかしなことをするだろう? そう問われて、ちょっとだけ「確かに」と思ってしまったエテンは、いやいやと即座にその考えを捨てた。だめだ、殺人犯に共感なんかするな。


「『アラード』に引っかかったら、全てが繋がり始めた。僕は魔術の使えない自分が使うための魔法陣を研究しているけど、その研究を『魔石を使わない』という方向に導いたのは師匠、あなただ。それに、あなたの部屋には作り付けになっている風呂場以外に、魔導で動かしているものがほとんど存在しない」


 暖炉には薪をくべているし、ポットは直接魔法陣を描いて使っている。部屋の掃除はファロットが魔法でしているし、書斎の鍵も鍵穴が存在しない魔導式ではなく、エテンが使える物理式だった。自分が発明に携わったような研究用の道具すら、隅っこで埃を被っている。


「僕に気を使ってくれているのかな、と思ってました。僕でも使えるような道具を部屋に揃えてくれているのかと──でも違った。あなたは魔石を道具として利用する文化を憎んでいたから、最低限しか部屋に置かないようにしていたんだ」


「それは少し違うな」

 エテンが叩きつけた推理に、ルヴァルフェンサはゆっくりと首を振った。


「何が」

「私は別に、魔石を使う文化を憎んでいるわけじゃない。私自身がそれを使わないのは個人の価値観だけれど、別に人類全員にそれを押しつけようとは思っていないよ。人は石以外にも動物の肉を食べ、皮を剥ぎ、骨を道具や工芸品に利用する。そういうものといえばそういうものだ」

「だったら」


「私が狙ったのは魔石を粗末に扱う人間ではない──魔石を生命の結晶として正しく認識し、尊重しながら利用していた人間だ。生命の証が粗末に扱われる絶望を知っていて……自分のそれが他者に奪われると知った時、より深く絶望してくれそうな人間だよ」


「……より深く、絶望しそうな人間?」

 あんまりな言葉に、小さな声しか出ない。


「そう、『絶望の濁り』ほど美しいものはない。エテン、私が君の金庫から遺石を奪わなかった理由がわかるかい? あれは君の手の中にあるその時にこそ、最も美しい絶望の色に輝いているからだ。君から切り離してしまうのは実にもったいない……だから、君は私に感謝しなければならないよ」

「何を」

「獣の魔石に生命としての価値を見出せる人間を選んだと言ったね? 私が、このタナエスよりも美しい石を生んでくれるのではないかと期待していたのはツシだ。君の仲良しだから奪わないでおいてあげたんだよ」


 ……僕の友達だから殺さなかった、だって?


「そんなの嘘だ、僕自身のことは殺そうとしたのに──!」

 我慢したが、しきれなかった。悲鳴のような声が出た。拳を握りしめ、膝をついて泣き出したい気持ちを必死に封じ込める。


「全部嘘だったんですか、師匠!」

 押し寄せる絶望を振り払いながら言うと、師はエテンに問うような視線を向けた。いつも通りの優しい目で。


「ずっと大事にしてくれたのも、笑顔を向けてくれたのも、心配してくれたのも、全部、全部……僕を殺す時により深く絶望するようにって、そう考えていたんですか」

「それは違うよ、エテン」


 師匠がきっぱりと首を振った。ソファから立ち上がって手を伸ばし、エテンの頭をそっと撫でる。あまりにいつも通りで……それが恐ろしくて動けない。


「今も昔も変わらず、君が望むと望まざるとにかかわらず、君は私の大事な弟子だ。エテン……君はどうも『師匠』と『ルヴァルフェンサ』を全く別の人格のように捉えているようだけれど、それは違う。私からすれば、その二つは全く乖離かいりしていない。ただ……『師匠』には君の知らない大人の趣味がひとつあったというだけのことだよ」


 師匠が、ファロットそっくりに悪戯っぽく笑う。その顔を、エテンは少しだけ冷静になってじっと見つめ返した。


「嘘だ」

「おや、信じてくれないのか……こんなに大切に思っているのに」

「そこじゃない。趣味だって言った方だ」

「……そこまで君に教えるのは、まだ早いかな」


 頭を撫でながら優しく笑う、反対の手には抜き身のナイフ。それを見ていると、師匠は「ああ、これが怖いかい?」と何でもないように笑って、ナイフを帯に下げた鞘へしまった。


「君は初めからフェイクだよ、エテン。殺すつもりなんてなかった。『エテニア記』の話が出てきていたからね、間違っても君が疑われないように。だから君が火事に飛び込んだと聞いた時は本当に肝が冷えたし──そう、君の居住階がトナの部屋より下だったから安心して燃やしたのにね。ほら、ちゃんと君の部屋へ燃え広がらないように蓋をしておいたろう? それから君の部屋へ行った時も、ちゃんと君が逃げ出す隙を作ってあげた……まあ、危険だから一人で出歩かないようにと煩く言ったのは、嘘といえば嘘だけれど」


「逃げ出す隙……? じゃあ、あの警笛の魔法陣は師匠が発現させたんですか」

 場違いに落胆してしまって、エテンは自分を情けないと思った。今はそんなことを考えている暇なんかないのに、つい──夢の欠片が失われてしまったかもしれないと気にしてしまう。


「そのつもりだった。けれど、そうはならなかった。あれは君の魔法だ、エテン」

 黙って、ずっと微笑んだままの師を見つめる。

「そう、。君は……異国の生まれだからかな、どうやらこの国の魔術様式とは相性が悪いらしい。思うに、君は私と似たタイプだね。君が初めて使えた魔法の質から考えてごらん、私が魔法を使うにあたって現象ではなく色を想像するように、君にはおそらく音が必要なんだ。明日の朝の練習の時に試してみるといい。光でも熱でもなく、静かに燃える炎の音を思い描く。君は吟遊詩人の一座の息子だから、呪文も歌うように吠えるヴォーガリンの発音でなければならないのかもしれない。詩とか音楽とか、そういう音律が深く関わっているのではないかと思う──ああ、当然魔法陣はいらないよ。君は魔法使いだから」


 今までずっと、何もできないエテンを導き続けてくれたのと変わらぬ調子で師匠が言う。けれどその表情はいつもと違ってどこか蠱惑こわく的で、どこか毒がある。声だったり、視線だったり、仕草だったり、「師匠」と「ルヴァルフェンサ」が目まぐるしく入れ替わって、入り混じって、どちらが本当なのか判別がつかない。


「なんで……なんで今、どうして、今になって」

 袖口で乱暴に目元を拭うと、ルヴァルフェンサは嬉しそうに「いいね」と声を上げた。


「やはり、君の絶望は誰のものより美しいよ、エテン。ああ、本当に……君の石が生まれる様を見てみたいものだ。けれど、生きている君のことも大事だから困る」

 師匠が再び手を伸ばしてエテンの頭を撫で、その手を頬に滑らせた。


「そうだな……いつか一緒に死のうか、エテン?」


 冷たくて甘い声。エテンはその凍えるような冷たさに一度目を閉じて、そして首を横に振った。

「できません」

「そうだろうね、私も冗談だよ。君には私の弟子として、私の分までファロットを大切にしてもらわないといけないから」


 そうルヴァルフェンサは甘ったるく笑って、頬に触れていた手をパッとエテンの顔の前で開いてみせた。その手のひらに明るい光の色で、小さいが緻密な魔法陣が描かれる。

「最後の魔術の授業だ、エテン。見てご覧、この純粋魔力変換式を……こう使う」


 ルヴァルフェンサが、その手のひらをそっと自らの腹に当てた。魔力が動く気配がして、見つめ合った瞳が明るい水色に輝く。その色と悪戯っぽい笑みが、特別ファロットに似て見えた。


「スクラゼナ=イルトルヴェール」


 陽気ささえ感じるような声で、浄化の呪文が唱えられた。青く染まった──光から水に性質を変えた魔力が部屋に渦を巻いて、全てを浄化してゆく。完璧に制御されたそれは、これだけの術を使ってもほとんど気配が残らない。すごく、すごく格好良かった。これが犯罪に使われた術でなければ。


「こうすれば、全身の魔力を丸ごと変質させることができる。例えば土持ちの鷲族に魔力まで擬態することも可能になる。けれど君は真似しない方がいい、体中がひどく痛むから」

「──なら師匠もやめてくださいよ!」


 エテンはついに、何もかも耐えきれなくなって叫んだ。黒いマントに掴みかかって、激しく揺さぶる。

「どうして! どうしてです、師匠! ファロットがどれだけ悲しむか、苦しむか! それに、僕だって……ずっと父親みたいに思ってたのに!!」


「もうすぐ成人だ。親離れする時だよ、エテン。それに、もう『師匠』じゃない」

「師匠!!」

「師匠じゃない。君の宿敵のルヴァルフェンサだよ、探偵君。君がずっと憎んで、恨んで、地の果てまで追い続ける──名探偵にはこういう存在がいた方が、華があるだろう?」


「『探偵君なんて言うな!』」

 叫んだ声が、不思議な揺れ方をした。青く輝く瞳をすうっと黒く沈めて、男が微笑む。

「その調子だ。しかし、私にはまだ及ばない──『手を離してくれるかい、エテン』」

 幽かに揺らぐ、滑らかに磨かれた深い声。絶対に離すものかと握りしめていたマントが、するりと手の中から滑り落ちた。立っているのも難しいような気怠さが襲いかかってきたが、エテンは気力を振り絞って、真っ直ぐ立ったままルヴァルフェンサを見上げた。


「タナエスのことは見逃してあげよう。元々、君が私のところへ辿り着いたらそうするつもりだったんだ。じゃあ、エテン──」

「絶望じゃない……!」

「え?」

 背を向けかけたルヴェルフェンサが、絞り出されたエテンの言葉に振り返った。


「あの白い色は絶望の色じゃない。人間の遺石はみんなああいう色なんだ。人類が一人残らず絶望しながら死んでゆくなんて、論理的に考えて、そんなはずないじゃないか」

「……うん、君はそれでいい。私は意見や美意識の食い違いには寛容だからね。知っているだろう?」

 そしてエテンの師匠だった男は、どこか幸福そうにも見える微笑みを浮かべて言う。

「そんな君がこれから人の生き死にの深いところに触れて、どう成長するのか楽しみだ。また干渉させてもらいにくるよ、エテン──ファロットをよろしく。幸せにしてやってくれ」


 目の前の空間が大きく揺らいで、そこにいたはずの姿がかき消えた。意識が混濁してふらふらとするなか、遠くで扉が静かに閉ざされ、鍵の閉まる「あの音」がした。


 魔法が干渉できる範囲を越えたのか、ふっと思考を縛る力がなくなる。しかしあの時と同じように体は言うことを聞かず、走って追いかけるようなことはとてもできそうにない。


「……なんで」

 エテンは崩れ落ちるように膝をつき、呟いた。絶望がひたひたと心を暗闇に沈めてゆく。部屋を照らす青白い月光が、これ以上なく残酷に思えた。なんで、なんで、どうして──


「……その、エテン」

 後ろからやたら色気のある掠れた声がして、エテンはようやくタナエスの存在を思い出した。魔法が解けて少し楽になったのか、美術館の彫刻みたいに美しい姿勢で上体を起こしている。


「声を出して大丈夫なんですか」

「問題ない。……その」

 何か言い淀む様子に、エテンは首を傾げた。

「どうしました」

「今の君に何が必要か……私にはよくわからないのだが、その……どうしたらいい?」


 弱りきった様子で眉を寄せたタナエスは、こんな時でもものすごく格好良かった。深い青色の瞳は困惑と、静かな憂いに満ちている。安っぽい同情は欠片もなかった。ちょっと変だけどいい人だな、と思う。


「じゃあちょっと……背中貸してください」

「背中?」


 訝しそうにしたタナエスが、座ったままずるずると背中を向ける。エテンよりもだいぶ広いそこに額を押しつけて、さらさらした白いローブを両手で掴んだ。布地が薄いからか、体温がやたらあたたかい。


「……なんで絹の寝巻きなんて、着てるんですか」

「肌触りがいい」


 声が震えてもタナエスは振り返らなかった。絹ってつるつるしているのに案外水を吸うんだなと、エテンはその日初めて知った。





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