六 タナエス 前編



「……あ」


 思わず声に出してしまってから、エテンはしまったと思って口をつぐんだ。振り返ったファロット達の視線を受け止めて、どう話したものかと大急ぎで思考を巡らせる。


「どうしたの?」

 少女にそう尋ねられたのは予想通り。


「ファロット……先に部屋へ帰らない?」

「どうして?」

 しかしその先の完璧な返答を考えつくには時間が足りなかった。

「いや、危ないし、その」


「あー、タナエス男前だもんね」

 ファロルがにやついた声で言った。あんまりなセリフに絶句する。


「だったらどうしたの」とファロット。

「ファロットが好きになるんじゃないかって、心配になるじゃないか。ねえ?」とファロル。

「え?」

「いや、僕じゃなくて! その……そう、師匠がさ、ほら、心配性だから。僕は師匠の弟子だから、師匠の居ないところでは僕が見張り役を頼まれてるっていうか」

「必死だなあ」ファロルがしみじみと言った。

「好きになんてならないわよ。お父さんよりちょっと下くらいの歳でしょ、あの人? それに、別にタナエス様の顔くらい知ってるし」

 すごく冷たい目で見られて、エテンはショックで打ち震える胸を無意識に両手で押さえてから、これでは格好悪いと気づいて慌てて腕を下ろした。


「……その、でも、女の子はああいう顔が好きなんじゃないの?」

「どうかしら? でも、若い頃は研究費を稼ぐために絵画や彫刻のモデルをしてたって聞いたことあるわ」

 ファロットが言うと、ファロルが眉を寄せて指先で目頭を揉みながら言った。

「いや実際、魔術師や魔法使いのお姉さんにかなりモテてるみたいだよ。男から見るとちょっとあれな感じなんだけど」

「──ほう。『あれ』とは具体的に何を指しているのか、詳しく聞かせてもらおうか」


 突然低い声が響いて、エテン達は肩をビクッとさせた。なぜかファロルまで驚いたように目を瞬かせている。振り返ると扉の縁に手を掛け、実に絵になる感じの気怠けだるいポーズで、白の魔術師タナエスが立っていた。細身で背が高く、いつもボサボサに跳ねているエテンと違って真っ直ぐでさらさらな黒髪に、エルフと見紛うような白い肌。深い青色をした切れ長の瞳。確かに容姿はすこぶる格好良いのだが……この人はなんでこんなに、いつ見ても絵画の中から出てきたような姿勢で立ってるんだろう?


「……聞いてたんだ」とファロル。

「聞かれて困るならば、人の部屋の前で噂話に興じるのはやめておきたまえ」

「あー、風持ちは光らないから油断してた。だめだ……ちょっと、集中力が落ちてきてる。交代してもらうから、少し待ってて」


 額を押さえて一瞬だけふらっとしたファロルが、廊下に向かって「交代を頼む。ファラフィルとラプフェル、空いてるかな?」と呟くように言った。少しして、昇降機の方から「ファラフィルは見回り中。ファリルをるよ!」と明るい声が響いてくる。


「……ああ、わかった」

「おじさま、もしかしてものすごく疲れてる?」

 ファロットがそっと尋ねた。ファロルは廊下の向こうから駆けてきた女性に手を上げてから「ああ、まあ……仕方ないよ。こんな時だから」と言った。そう言われてみると、顔色が悪いし目の下に隈がある。いかにも元気いっぱいといった様子でにこにこしているから気づかなかった。


「ファロル! 今日は休みなさいって言ったはずよ!」

 とその時、交代要員と思われる鷲族の女性が、飛び込むようにファロルに抱きついて彼を責めた。ファロルが「ごめん」と言いながら、女性の髪に口づけを落とす。エテンがきょとんとしていると、ファロットが「ファリルおばさまは彼の奥さんよ」と言った。

「そう、僕の奥さん! 可愛いだろう?」ファロルが輝くような笑みを取り戻して言う。

「あ、ええ、まあ」とエテン。


「とにかく、少なくとも今日一日は子供達と一緒に休んでなさい」

 ファリルが言って、ファロルは「わかった、わかった」と言いながら部屋を出ようとしたが、しかしその時「待ちなさい」とタナエスが声をかけたので気まずそうな顔で立ち止まった。

「あ、もしかして……さっきのお説教?」

「説教? そうか、失念していた」

 タナエスが無駄に艶のあるいい声でそう言ったのを聞いて、ファロルが「やっちゃった」という顔になる。


「点眼薬を処方してやろう。私は眼科医ではないが、多少なら心得がある」

「え、いいよ別に」

「私の薬は効くぞ」

「……確かに」

 目の一族の長が頷くと、タナエスが「入りたまえ」と言って研究室の扉を大きく開けた。今度は絵画というより、歌劇の一幕みたいな動きだ。その困った感じで肩の髪をさらっとする仕草、今必要だったんだろうか?


「そこにかけたまえ。失敬、部屋着だったものでね。着替えてこよう」

「……部屋着?」

 その、淡く紫がかった灰色の絹糸でびっしり刺繍がしてあるローブのことを言っているのだろうか? エテンが眉を寄せていると、タナエスは部屋の隅でその豪華な上着を脱いだ。そうすると中に着ている服が見えたが、スッキリした細身のズボンに皺ひとつない立ち襟のシャツ姿で、やはりとても部屋着には見えない。少なくとも師匠は部屋でくつろぐ時、もっとゆるっとしていて肌触りの良いローブやチュニックを着ている。


 うんざりするほど丁寧に着ていたローブを畳んで椅子の背にかけたタナエスは、無駄にばさりと翻しながら縁に金刺繍の入った白いローブを羽織った。「白」としての正式な装束だ。塔の白ローブ達が着ているそれはそれぞれ好みに合わせて少しずつ意匠が異なっているが、無地の純白に金の縁取りというのは共通している。師匠のローブは細めに植物柄の刺繍が入っていて、裾は少し床に引きずるくらいの長さだ。


 タナエスは確かもっとずるずる長くて刺繍も豪華絢爛なローブだったはず……と思ったが、エテンの予想に反して彼が着込んだのは、かなり細身で丈も膝より少し下くらい、刺繍も最低限しか入っていないローブだった。実用的を超えて魔術師らしくない姿に拍子抜けしていると、こちらに歩いてきたタナエスはエテンの視線の意味を把握したのか、それとも単に群衆はみな自分に興味を持っていると思い込んでいるのか、片方の眉を器用に上げて「ああ、これか」と言った。


「薬品を扱う際はこちらを着るようにしているのだよ。私の美学からすれば少々物足りない意匠だが、しかしこれはこれですっきりとしていて、仕事に集中できる」

「はあ」


 仕事用とそれ以外用とで正式な白ローブを二枚持っているのはだいぶお洒落というか、そもそも白ローブは仕事着だろうとエテンは思ったが、しかしタナエスがあのおそろしく幅の広い袖のローブで仕事をしない人間だったと知って、エテンは少し彼を見直した。ちょっと立ち居振る舞いが変な人だが、自分の研究には真摯に向き合っているらしい。


 仕事着に着替えたタナエスは、やはり癖なのか妙に絵画的に体を捻りながらファロルの向かいの椅子に腰掛け、指先にふわりと小さな明かりを灯すと、「目」特有の鮮やかな緑眼を覗き込んだ。


「……あれ、タナエス様って魔法使いでしたっけ?」

 彼の動きを観察していたが、確かに魔法陣なしで明かりを出していた。彼のことを魔術師だと思っていたエテンが気になって尋ねると、タナエスはファロルの目の奥を覗き込みながら「いや」と言った。


「ごく小規模の、それこそ読書灯程度の魔法しか使えぬよ。風持ちではあるが、催眠術系統はどうも苦手でね──君が気になっているのはそういうことだろう?」

「あ、いえ……」


 言い当てられてしまってエテンはもごもごしたが、何か不思議な形の拡大鏡でファロットの目を診ていたタナエスは特に気にしなかったようだ。「網膜や視神経が傷つくほどではないが、相当無理をしたな? 遺伝形質魔法とはいえ、酷使すれば失明にも繋がりかねん。二時間おきに鏡を見て、瞳の色が少し褪せたと感じたら呪布を巻くようにしたまえ」と医者のような口調で言っている。


「僕だって休みたいんだけどね……」

 ファロルが疲れた声で言って、苦笑しながら黒い目隠しを頭に巻いた。それで少し楽になったらしく、ふうと肩の力を抜いている。タナエスの口にした「遺伝形質魔法」とは生まれた時から勝手に発現している魔法のことだが、トナの放電体質のように突然変異的なものではなく、一族に脈々と受け継がれているような能力を指す。

 これも魔法の一種なので、ファロル達もトナも、記憶力を底上げできるエテンも、厳密に言えば魔法使いの仲間だ。しかしこの塔で「魔法使い」と言えば自由自在に大きな現象を引き起こす妖精のような力の持ち主を指すので、小さな魔法しか使えないというタナエスが「私は魔術師だ」と首を振るのは間違っていない。


 でも、魔法が使えるのか──


 けれどエテンはタナエスの返事を聞いて、そう疑り深く腕を組んでいた。魔術が使えるほど魔力を持っている人間はとても貴重だが、魔法が使える人間というのはもっともっと珍しい。ここが月の塔だからこそそれなりに見かけることもあるが、それこそ国中探して一人もいないような土地だってある。要するに魔術師と魔法使いとの間にはそれだけ大きな隔たりがあって、魔法使い体質であるという彼は、それだけで十分怪しかった。

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