ルヴァルフェンサ 遺石蒐集家

綿野 明

プロローグ



 生命とは何か──


 そう尋ねられた時、貴方は何と答えるだろうか。


 それは呼吸である、と考える人がある。その理由は「息を引き取る」という言葉が存在することからも明白で、例えば人が道端に倒れていて生死が不明な時、貴方はまずその人物の呼吸の有無を確認するだろう。生きていれば息をしている。していなければ死んでいる。故に生命とは即ち呼吸であると。


 また心臓の鼓動をそう捉える者もある。赤くあたたかな血潮を送り出す心臓は生命そのもの──否、それだけではない、人を人たらしめる「心」そのものであると。喜びを感じれば胸が高鳴り、悲しめば締めつけられ、また生命の危機を感じれば、己の耳にドキドキとその音が聞こえるほど激しく脈打つ。


 その現象を生命の証であると解釈するならば、私の前に横たわっている彼女は、生命とは即ち脈動であると主張するかもしれない。動かぬ体、顔を隠した見知らぬ男、ゆっくりと持ち上げられる銀の刃。なのに助けを呼ぼうにも、声すら出ない。全身が強ばり、震え、息は浅く速く、その心臓の音は私にまでも聞こえそうだ。

 見えるかね、諸君? この瞳孔が限界まで開いたような目に浮かぶ、恐怖と、絶望の色。それは人間という醜悪な生き物の持つ中でも数少ない、美しいと言える素質だろう。鮮烈な恐怖の中に見え隠れする、自らの敗北を悟り、憎しみを超越した、深く暗い諦めの色。ああ、これほど複雑に絶望の感情を織り上げられる生物が他にあろうか?


「生命とは心臓の脈動であると、君はそう考えるのか?」

 声に出して尋ねると、彼女は鋭く息を呑んだ。

「あなた──」

「『助けを呼ぶことは許さない』」

 声から私が誰だかわかった様子の彼女は咄嗟に大声を上げようと息を吸い込んだが、私はすぐに「声」を使ってそれを禁じた。


「……あなた、魔法使いだったの?」

「質問に答えろ」

「質問? ……よく聞こえなかった。もう一度教えて」

「生命とは何か」

「生命とは? 哲学の話なら、私はあんまり詳しくないわよ。あなたの望む答えを言えるとは思えない。どうしてそんなこと訊くの? ねえ、助けて。お願い」

「助ける気があるなら、そもそもここには来ない」


 中身がないくせにやたら早口な回答に興醒めし、私はふいと手を振って彼女の言葉を封じた。この手の魔法はそれほど得意ではないが、かといって魔術には頼らない。派手な紋様を描く魔法陣など使えば、魔力の光を遥か遠方まで透視する「目」の一族に見咎められる可能性があるからだ。時刻は真夜中を少し回ったところだが、彼らはいつも油断なく塔の中を巡回している。

 だから術に注ぐ魔力についても、さりげない自慢話を生きがいとしているようなそこらの魔法使いとは違って、上品に最低限だけだ。残滓が数分で消える程度──そう、どのような術が使われたのか特定させない、或いは毒物か、麻酔や睡眠薬かと疑わせるくらい、一切の気配を残さないよう加減するのは非常に難しい。少なすぎれば彼女は暴れ出し、多すぎればそこらじゅうに気配を振り撒く。


「いいか、生命とは魔力だ、ルセラ」

 静かになった彼女に、甘ったるく囁く。月明かりで冴えた青色に輝く銀のナイフを見せながら。

「魔力という表現が乱暴に感じるなら、神殿流に『祝福』と言い換えてもいい。生命とは呼吸でもなく、血潮でもなく、神に与えられた祝福の光だ。他の何でもない」


 語りながら彼女のローブをはだけ、下着を切り開き、露わになった白い腹部にすうっと細い線を引いた。途端におびただしい紅色が溢れ出し、濡れた鉄の香りを広げながら彼女の体や服を、私の手を、床を染め上げる。月光のもとでその色は黒にしか見えぬと言う者もあるだろうが、私にとってそれは深く艶やかな紅色にしか見えなかった。何か常人にはない色を見抜く能力というものが私には備わっているようで、ものの色合いや輝きの具合について私の目は、ほんの少しの差も決して見逃さなかった。


「見てご覧、ルセラ。君の腹の中だ。夜半の三日月の明かりに照らされた紅の中で、かすかな陽光が渦を巻いている。君の魔力だ」

 私はそう言ったが、彼女にはもう聞こえていないようだった。この貴重な光景を見ずして失神するとは、本当にもったいないことをする。最初で、最期さいごの機会なのに。


「ほら、起きなさい。結晶が始まったよ。今見ないでどうするんだね、君」

 しかしそう言いながらも私は、特に魔法を使って覚醒させることもせず、彼女を放っておいた。それは痛みと恐怖に耐えかねたらしい彼女への慈悲でもあり、情趣じょうしゅを解さない彼女への意地悪でもあり、またこの美しい時間をひとりきりでしっとり過ごしたいという我儘でもあった。


 ちらちらと光りながら渦を巻いていた魔力が、中央で小さく強い光を放ち、結晶が始まった。まるで銀河の中心に星が集まるように、キラキラと瞬く光が尾を引きながら集束し、凝縮し、小指の先ほどの小さな宝石を生み出してゆく。


「美しい……まさに奇跡だ。神よ、祝福に感謝します」


 私はじっくりと光が収まるのを待って、指先でそっと、その小さな石をルセラの腹の中から拾い上げた。袖口で血を拭って、月明かりにかざす。水晶のように透明で、しかし水晶より硬度の低いやわらかなきらめきを宿し、そしてほんの少しだけ白っぽく濁っている。澄んだ透明に一雫の情緒を与えているこの濁りを、私は「絶望の濁り」と呼んでいた。


「ルセラ、ありがとう。こんな宝物を譲ってくれて」


 私は彼女へ丁寧に感謝の言葉を述べて一礼し、床に大きく広がる血溜まりから立ち上がった。一瞬祈るように──私のこの腹もいつか奇跡の結晶を生む時が来るのだろうかと、少し感傷的な気分になりながら自分の腹に手を当て、そして遺体から数歩距離をとると魔法を使う。浄化の術が青く渦を巻き、私の全身からルセラの血液を、そして部屋から私の痕跡──足跡や抜け毛や埃といった諸々──をかき消した。魔力の残滓はしばらくそこで渦を巻き、扉を開けて立ち去った私の指紋を真鍮製の取手から綺麗に拭い去るはずだ。


 全てが完璧だった。私はいたく満足して、自室への道を足取り軽く辿った。





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