あれからどうなった?

 伊藤祐介の体温を背中に感じながら、小野寺優子は再びこの男と関係を持った事を後悔していた。上司に付け込まれた自分の無防備さにいつもうんざりしている。職場では二人の関係を揶揄され、優子はとことん一人ぼっちだった。相談が出来る相手など一人もいない。わざと職場の中で孤立するように仕向けられているようにさえ思える。


「弟さんはどうしてる?」


「旅に出た」


「旅?」


「そう」


「9年引き篭もって、ようやくコンビニでバイトを初めたんだよな、確か」


 伊藤祐介は数週間前、優子と行った情事と、話した内容を思い出しながら言った。優子と行った情事はいつもと同じだったが、弟についての話はかなり興味をそそられたのだ。


「バイト仲間に誘われたんだって。最初は二泊三日の約束だったのに」


「弟君、やるなぁ」


 祐介が感心の声を上げた。


「何が?」


 優子が振り向いて不思議そうに祐介の顔を見る。


「だって、早速女の子と仲良くなったんだろう? 引き篭もりだった人間がそう簡単にやれる事じゃない」


「違うわよ。一緒に旅行へ行ったのは男」


「へえ」


 また感心した声を上げた。


「弟君、そっちの方だったんだ」


「違うわよ!」


 この男はすぐに女や色恋ごとと結びつける。女を見たらヤルかヤレないかの視点で最初に判断を下すのだ。そして男が二人以上で連れ立っていると無条件でゲイと認定する。ほとんど病的だ。


「多分、違うと思う」


 そう言って、また男に背を向けた。

 拓の性的指向については、優子は詳しくは知らない。アダルトビデオを家族が揃った居間で再生した事実をして「ゲイではない」と言い切る気にもなれなかった。性欲という形を拓に見出した事は一度もないのだ。


「どこへ行ったの」


東北とうほぐ


「随分ざっくりしてるな」


福島ふくすま


「へぇ、渋い」


 祐介は低く笑った。


「最初は二泊三日って言ってたのに、もう三週間くらい帰ってこないのよ」


 優子が不機嫌そうに言った。


「音信不通なの?」


 祐介が心配そうに聞く。


「いや、毎日電話してくる」


「凄いじゃん、偉いじゃん」


 この男はすぐに褒める、と優子は思った。でも、悪い気はしない。


「大したもんだよ。若い時なんて、朝帰りだろうが、サークルの旅行だろうが、家になんか絶対連絡入れなかった。しかも毎日だなんてあり得ない。楽しくて楽しくて家族の事なんかすっかり頭から抜けてたし、家族が心配してるだなんて露ほども想像した事がなかった。偉いよ、弟君」


「約束は守るようにって、言ったの」


 少し得意げになった優子が言った。


「へぇ、それにしても律儀な弟君だ。男のほとんどは、約束なんて破る為にあると思っている。これは生き方や矜持の問題じゃなくて、ほとんど男のDNAに刻まれてる抗いがたいさがなんだ」


「最悪」


「ごもっとも。最悪な男です」


 後ろからささやかな優子の膨らみに手を伸ばす。優子がバシッとそれを叩く。


「毎日連絡があるならいいだろう、好きにやらせれば」


「そうなんだけどね」


 優子は不満げに言う。


「弟君、冷たいの?」


「違うの、何か、電話するたびに楽しそうなのが伝わってくるの」


「いいじゃん」


「もちろん、良いんだけど」


「なるほど」


 ニィ、と後ろで意地悪そうな笑みを浮かべる雰囲気があった。


「お姉ちゃんをもっと頼って欲しい、と」


「違うわよ」


「じゃあ、意地悪な同僚と一緒に働かず、楽しそうに外界を謳歌している弟君が羨ましい、と」


「そう、なのかな……」


 小さな声で優子が言った。


「おいおい、弟君だって9年間引き篭もってたんだろう? 部屋から出てきただけでも大したもんだ。バイトして友達を作って、旅行へ行って帰ってこない。10年引き篭もるよりは、よっぽど健全だと思うよ」


「そうね、そうなんだけど」


 優子は自分の中ででも、気持ちが見定める事が出来なかった。鬱々と家で過ごすより、ずっと良い。それは分かっている。なのに、何故弟の行動を思うと胸が締め付けられるような気がするのだろう。心配とはまた別に。


「弟君はどうして引き篭もったの?」


「言ってなかったっけ」


「言いたくないって、君が言ったんだ」


 優しく首筋に唇を付ける。


「君は何か、弟君に割り切れない思いを抱えてるんだろう? 何か解決する道筋が、弟君が引き篭もった原因に隠れてるかも知れない。一緒に探そう?」


「多分、あなたも知ってる事件よ」


 観念したように、優子が話を始めた。


「どんな事件?」


「通り魔。小学生を狙った」


 ◆


 拓は毎日、仲のいい同級生と学校へ通っていた。小学校二年生の終わりか、三年生の始めの頃だ。


「拓くーん!」


 玄関先で拓を呼ぶ女の子の声がして、拓がトーストを牛乳で無理やり流し込んだのを覚えている。


「行ってきまーす!」


 玄関のドアがゆっくりと閉まって、拓はその友達と一緒に学校へ行った。あたしの記憶があるのは、ドアがゆっくりと閉まっていって、明るい廊下の反射が徐々に暗くなっていくところだけだ。どうせテレビは重たく真面目な朝のNHKでも流れていたのだろう。父が朝はNHK以外に見なかったから。それからあたしは制服をきちっと整えて、歩いて登校した。あたしはその時、中学二年生だった。


 学校の一限目は社会科で、公民の授業だったと思う。でも途中で放送が流れて、集団下校になった。周囲のクラスメートや友達は、何が起こったのかは知らないけれど嬉しそうだった。学校が早く終わるから。


 校庭に一度みんなで集まった時の、先生からの報告は衝撃だった。近くの●●小学校への通学路で、男の人が刃物を持って何人か刺しました。小学生が何人か、怪我をしたようです。その犯人は何とか捕まりましたが、今日は学校を早く終わりにするので、自宅で自習をしてください。


 悲鳴や啜り泣きが聞こえたけれど、あたしが心配したのはもちろん弟の拓で、無事何だろうか、それとも殺されてしまったのだろうか、と現実味のない不吉な思いが胸を突き上げた。今まで使った事がない心の場所が息苦しい程動悸して、頭がグルグルと回った。それからどうやって家に帰ったか覚えていない。


 自宅には誰もいなかった。

 救急車や警察のサイレンが遠くに聞こえて、ヘリコプターの音が大きく何度も聞こえた。やがて父さんが帰ってきて、あたしは泣いた。拓が心配だったから。父さんは「安心しなさい、拓は無事だ」って安心させてくれて、それから取り縋るあたしを一人置いてけぼりにして「警察へ行ってくる」と言って行ってしまった。何故、拓が帰ってこないのか、その時は分からなかった。どうしてあたしを一人にしていくのか。でも、後からそれは分かった。拓と一緒に学校へ行っていた女の子が殺されたのだ。恐らく、拓の目の前で。












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