風呂

 拓は服を脱ぐのに時間が掛かった。指に力も入らなかったし、本人は知らなかったが、十年近く部屋に引きこもっていたから、ほとんど身体がブリキのように固まってしまっていた。ギクシャクする。肘が曲がらない。肩が上がらない。太腿を上げる力も弱々しく、片足で立つ事も出来ない。洗面台に手を付いて身体を支えながらスウェットを脱ぐ。


 ずいぶん時間を掛けて裸になり、拓は浴室に入ってシャワーを浴びた。蛇口の扱い方が分からず、どことなく弄っていると冷水が頭から勢いよく降ってきて、拓は大声をあげたつもりだったが、その実「あ……」という掠れた空気だけだった。やがて水に打たれる気持ち良さに笑顔になった。水もやがて湯に変わっていった。拓はゴシゴシと顔を擦り、ずいぶんと久しぶりに身体を清潔にした。石鹸を使って手のひらで身体を隅々まで綺麗に洗った。


 拓は文字通り、生き返るような感覚を味わった。暖かなシャワーがこれ程の快感であったとは。何度も髪の毛を指で梳き、シャンプーも使わず石鹸で泡だてて洗った。髪は腰まで伸びており、全てを洗い切るのにすっかり拓は疲れてしまった。髭も仙人のように伸びており、拓は曇った鏡を何気なく手のひらで拭った時、文字通り戦慄が走った。シャワーの音がとても大きく聞こえた。


「あ……あ……?」


 およそ十年の間、鏡もろくに覗き込んでいなかったから、拓は自分の様相が一変している事に気付かなかった。知らないオジサンが目の前の鏡に映っている。毛むくじゃらで顔も肩も胸もただただ白く細い。目だけに昔の自分の面影を認めることが出来なくもない。しばらく言葉もなく鏡を見つめ、拓はまた身体の洗浄作業に戻った。特に感慨もない。というよりも、感慨を持つには拓は自分自身について考えるのに疲れ果てていた。拓の思考は身体の外にあった。それは十年程引き篭もっている間に得た感覚で、だからこそ部屋を出るに至ったのだが。とにかく、拓ができる事は何も考えず湯船に浸かり、身体が解けるような心地よさを味わう事だけだった。顎まで湯に浸かりながら、窓から射し入る光がゆらゆらと揺れる様子を眺めた。ずいぶんと長い間湯船に浸かっていたが、それまで拓が自室で失った時間に比べればほとんど誤差に過ぎなかった。


 失った?

 それは拓には分からない。

 

 拓は何も考えていない。

 ただただ、風呂が気持ちが良いだけだ。







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