24.キスまでの距離

 体中に響き渡る、とくん、とくんという音は、俺の心臓の音なのか、それとも、かのんの心臓の音なのか。


 お互いに一言も発しない時間は、気まずいはずなのになぜか心地よく、俺は戸惑いながらも、柔らかな感触や甘い香りに魅了されていた。


「……かのん」


 思わず抱きしめている相手の名前を口にすると、うん? と、ほんのり頬を染めてかのんが振り返る。


 透き通るほどに青く大きな瞳、長いまつげ。そしてほんのり潤った唇。


 十センチもない距離まで顔が近付くと、俺たちは吸い寄せられるように互いの口をそのまま――。


 ……って、直前のところでハッとなった! 俺はいま、何をしようとしていたんだ!?


 慌てて顔を遠ざけると、そこには文字通り口を尖らせているかのんの姿が。


「……してくれないの?」

「しないよ。付き合ってるワケじゃないしさ……。ほら、幼なじみなんだろ? 俺たち」


 我ながら酷い言い訳だ。そんな風には少しも思ってないのに、逃げたい時に限って、都合良く『幼なじみ』を口にするなんて。


「そっか……。それもそうだね」


 明らかに落胆するかのん。なんだよ、なんでそんなに落ち込むんだよ。付き合ってないのは本当だろ?


「そ、それよりも、今日の夕飯さ、何が食べたい?」


 締め付けられるような胸の痛みから解放されたい一身で、俺は強引に話題を転じた。


「別に、蓮くんが作ったものだったら何でもいいよ?」

「何でもいいが一番困るんだよなあ……。せめて和洋中のどれかとか、ジャンルを決めてもらいたいんだけど」


 立ち上がった俺に、かのんは苦笑いで応じ返す。


「蓮くん、お母さんみたい」

「悪かったな。どうせ俺はオカンだよ」


 ボリボリと頭をかきむしりながら、とにかく冷蔵庫の中身を確認してくるわと、俺は逃げるように部屋を後にした。


***


 冷蔵庫の野菜室を覗き込んだものの、夕食のレシピなどは頭にない。


 脳裏に焼き付いているのはついさっきまでの光景で、思い返すたびに叫びたくなる衝動をこらえるのがやっとだった。


 ――俺はかのんをどう思っているんだ?


 かのんが俺に好意を抱いているのは間違いない。それはうぬぼれじゃなくて、行動となって現れていることからも確かだろう。


 まったく、七年前の俺は、かのんにどんな魔法をかけたというのか? あんな美少女から一方的に好かれるなんて奇跡といっていい。


 ただ、俺は? 俺はかのんを、ひとりの女の子として好きなのか?


 答えを明確にできない理由は、イマイチ、かのんがわからないという他にない。


 短い付き合いで、なんとなく人となりはわかってきたような気もするけれど、それでも、肝心な事には何ひとつとして触れていない気がする。


 そんなあやふやな状態のまま、俺自身が好きと言っていいのだろうか? それはかのんからの好意に甘えているだけなんじゃないか?

 

 ……はあ。我ながら、堅っ苦しい考え方で嫌になるね。こういう思考もオカンと呼ばれる一因なんだろうか?


 これが陽太とかだったら「とりあえず告っちゃえばいいじゃん!」とか言ってきそうだけど、そんなに気楽に告白できたら苦労はしないんだよな。


 ……おっと、ヤバイヤバイ。かのんをひとりにしたままだった。とにかく部屋に戻らないとな。


 野菜室のドアを閉めると、俺は二人分の飲み物を用意して、寝室へと踵を返した。


***


 部屋で待っていたかのんは、おかえりと俺を出迎えるなり、机の上にあったキーケースをかざして口を開いた。


「ねえ、蓮くん。これ、蓮くんの家の鍵だよね?」

「そうだけど?」

「どうしてふたつもあるの?」


 そりゃお前、ひとつは予備で何かあった時のために決まってるじゃないかと応じたものの、聞きたいのはそういうことではなかったらしい。


「予備なら、一緒に持ち歩いてちゃダメなんじゃない? ひとつは別の場所においておかないと」

「ああ。その通りなんだけどね……」


 これには事情があって、引っ越しを手伝ってくれた母親に手渡そうと、ふたつセットでキーケースへしまっておいたんだけど。


 帰り際に渡すのを忘れてしまい、まあいいか、ついでの時に渡せばと、ついそのままにしてしまったのだ。


「ふぅん。じゃあ、これ、私が預かっていい?」


 一通り話を聞き終えたかのんは、慣れた手付きで鍵を取り外し、自分のものにしようとしている。


 待て待て待て! じゃあってなんだよ、じゃあって。ダメに決まってるだろ?


「え? どうして?」

「どうして……って、そりゃあ」


 家族でもないのに、と、言葉を付け加えようとした瞬間に気付いたね。


 ――そういや、俺、かのんの家の合鍵持ってるわ、って。


 いや、違う! そういうんじゃないんだ! 朝食作りに行く際、ふたりを起こすのもなんか可哀想だなって話してたら、じゃあ合鍵あげるとか言い出すんだよ、かのんのやつ!


 ……うん、そうだな。断ればよかった。なんか、強引に押し切られたのもあって、ついうっかり受け取っちゃったんだよなあ。


「はい、決まりー! お互い合鍵持ってないとフェアじゃないもんね?」


 かのんはそう言うと、手にした合鍵に頬ずりし、ウヘヘヘとだらしない笑い声を上げた。


「言っとくけど、預けるだけだからな?」

「わかってるって。あっ、でも、急に雨が振ったりした時、蓮くんの代わりに洗濯物取り込むとかできるよ?」

「……取り込まんでいい」

「なんでよぅ。もしかしたら、『彼シャツ』してる私が見られるかもしれないんだよ?」


 ……確かに。俺のシャツを羽織るかのんの姿は見てみたいけど……って違う! 流されるんじゃない!


 とにかく。


 この後もずっとこの調子だったので、あみぐるみを教えるどころではなく、終始、雑談をして日は暮れていった。


 で、この翌日。


 俺は早速、かのんへ合鍵を預けたことを後悔するのだった。

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