第11話 ホット・バタード・ラムの子守唄 後編
俺たちは食事をした後、大地と千里ちゃんと別れて用を足した。クリスマスにお客様に配るサプライズプレゼントを選び、次は酒屋で仕入れだ。
車に戻る途中、自動販売機をみつけ、ふと暁さんが『食後にブラックを飲むのも正義さんの名残だ』と言っていたのを思い出し、財布から小銭を取り出した。
「真輝さん、ブラックでいいですか?」
「あ、ありがとうございます」
真輝さんがちょっと戸惑いながら礼を言った。
「あの、どうしてブラックが好きだってわかったんですか?」
「さぁ、どうしてでしょう?」
眉尻を下げて言葉を濁した。
「酒屋に行きましょう」
俺たちは行きつけの酒屋に出向き、在庫分の酒を購入した。家路につく頃にはすっかり夕暮れだった。
帰り道の真輝さんは、行きとは違って言葉少なだった。
ときどき他愛もない話をするけれど、じっと車の中に流れるジャズに耳を傾けている。信号待ちのときに盗み見した横顔は、またあの遠くに行ってしまいそうな儚さをまとっていた。
「真輝さん、ジャズは好きですか?」
思わず話しかけてしまった。まるで真輝さんをこっちに引き戻すように。
我にかえった真輝さんが「あ、はい」と頷いた。
「お凛さんが『これだけは聴いておけ』って山ほどCD貸してくれたんですけど、俺、ジャズってよくわかんなくて」
真輝さんが目を細めた。
「お凛さんらしいですね」
そして、じっと耳をすませて呟いた。
「私、この曲好きですよ」
車の中に響いているのはサラ・ヴォーンの『バードランドの子守唄』だ。
なんとなく、意外だと感じた。勝手なイメージだけど、彼女なら『ラヴァーズ・コンチェルト』のほうを選びそうだったからだ。
「今日は真輝さんの好きな物がいろいろわかって意外でした」
「そうですか?」
「はい。インド雑貨とか『バードランドの子守唄』とか......」
真輝さんはただ、笑うだけだった。そう、ちょっと切ない顔をして。
俺と一緒にいても、どこかに飛んで行ってしまいそうな横顔に、少しの切なさともどかしさを感じた。なんだか、暁さんの気持ちがちょっとわかる気がした。
琥珀亭に戻ると、真輝さんはすぐに仕事にとりかかった。
日曜日はお休みをもらってる俺は、部屋でぼんやり音楽を聴いて過ごすことにした。
ベッドに横になりながら天井を見ていると、俺の胸の上でピーティーが丸くなる。その温もりと重みを感じながら、部屋に流れるサラ・ヴォーンの歌声に耳を傾けた。
『真輝さんをどう思ってるんですか?』
大地のあの言葉がずっと胸に渦巻いている。
「そんなもん、俺が知りたいっつうの」
思わず呟いた言葉は、宙に浮いて消えた。言葉では説明しきれない感情がこの世にはあるんだって、初めて知った気がした。
恋愛より、尊敬に近い感情だと片付けようとする自分もいるのは確かだ。でも、それじゃあ、どうしてこんなに浮き足立ったりするんだろう。遠くを見るような横顔にもどかしさを覚える理由はなんだ?
自分で自分がわからない。そして、俺の中に真輝さんがどんどん入り込んでいくのが、少し怖い。いつか心の中に住み着いた彼女の影が、染み付いてしまうんじゃないかと思えたからだった。
思えば、彼女を『赤い月のひと』と呼んでいた頃から、ずっとだ。真輝さんはどうしてこうも俺の中にすっと入り込んでしまうんだろう。今までそんな風に俺の中に入り込んできた人はいなかった。
どうして彼女なんだろう。そう思った。
その後、俺はピーティーの温かさに誘われて眠ってしまったらしい。気がつくと、時計の針は夜中の二時を指していた。
「あぁ、やっちまった」
起き上がると、ピーティーが『私まで起きちゃったじゃない』と言わんばかりに顔をしかめ、ぐっと伸びをした。
風呂に入ろうとしたが、あいにくシャンプーを切らしていたことを思い出す。買ってくるのをすっかり忘れていた。
「しょうがねぇな」
しぶしぶ、コートを羽織り、財布を掴む。琥珀亭を出ようとすると、店の灯りがまだついているのに気がついた。
まだお客様がいるんだろうか? 真輝さんも疲れてるだろうに。そう思い、コンビニでシャンプーを買ったついでに、差し入れとして真輝さんの好きなチョコレートもカゴに入れた。
コンビニから戻ってもまだ琥珀亭の灯りはついていた。ずいぶん長居する客だなと顔をしかめたが、店の看板の電気は消えているのに気づいた。お客様はいないらしい。
俺はなんだか気になって、裏口から戻り、琥珀亭の中へ続く扉をそっと開けた。
「尊さん? どうしたんですか?」
店に顔を出すと、カウンターに座る真輝さんが驚いていた。手元には一杯のウイスキーがあった。そばにあるのはタリスカーのボトル。
「真輝さんこそ」
歩み寄り、コンビニの袋をカウンターに乗せた。タリスカーにかかってある名札をつまみ上げると、そこには『私用』とあった。
「仕事が終わってそのまま飲んでたんですか?」
彼女は「えぇ」と目を伏せる。
「今日はなんだか、眠れない気がして」
そう言う顔には憂いが漂っている。朝に会ったときとはまるで別人だ。あの元気の良さはどこにいったんだ?
「真輝さんって、意外と感情の起伏が激しいんですね」
そう呆れながらも、こんなときまで『伏し目が綺麗だな』なんて思ってる男のさがを感じる。
コンビニの袋からチョコを出して、真輝さんの前に置いた。
「きっと、ウイスキーに合いますよ」
「あ、ありがとうございます」
「俺も一杯いいですか?」
返事を待たずに、俺はカウンターに入った。氷の入ったグラスを用意し、真輝さんの隣に腰を下ろす。
そんな俺を真輝さんが黙ったまま、じっと目で追っている。その視線を感じながら、俺はタリスカーをグラスに注いだ。
俺は無言で真輝さんに向かってグラスをくいっと持ち上げると、タリスカーを口にした。
こみあげるアルコールとピートの匂いに、思わず「くはぁ」と変な声を上げる。
それから俺たちはしばらく黙ったまま過ごした。何も言わず、ただ隣に座って、飲んでいる。
俺がもの言わずチョコレートの箱を開けて差し出すと、彼女も何も言わず一つだけつまんだ。BGMのない店内に、溶けた氷が崩れる音が響いた。
「......ときどき、眠れないんです」
やっと、真輝さんが口を開いた。ちょっと声が擦れている。
「今日みたいに、いろんなことを思い出した日は」
相づちも打たず、ただタリスカーをちびちび飲んだ。真輝さんは俺に構わず、ぼそぼそと呟くように話している。
「大地と千里ちゃんみたいにプレゼントを選び合ったりしてたなぁって思い出したり」
正義さんと、だね。俺は心の中で呟き、頷いた。
「男の人と買い物に行く事も随分なかったし」
それはお互い様。俺も昔の彼女を思い出してた。
「それに、私にブラックの缶コーヒーを手渡してくれる人がまだいるんだなぁって思って」
思わず、グラスを包み込むように手で覆った。真輝さんは泣きそうな顔をしていた。涙はないけれど、歪んでいる。心では泣いているのかもしれない。
「真輝さんは、眠れないときはいつもこうして一人で飲んでるんですか?」
「はい」
そっとグラスについた水滴を拭う。真輝さんの涙を拭うつもりで、優しく。
「今日からは、俺も一緒ですよ。吐き出す相手がいるでしょう?」
返事がない。
「真輝さんは迷惑でも、俺は一人で飲ませませんからね。嫌ですよ、自分が寝ている建物で誰かがこんなにしんみりしてるなんて、寝付きが悪くなります」
俺はそこまで言うと、あることを思いついた。すっと立ち上がると、わざと元気よく言う。
「真輝さんに、俺からクリスマスプレゼントがあります!」
俺はお湯を沸かし、グラスを温めた。その間に冷蔵庫からバターをひとかけら取り出す。次に、グラスのお湯を捨て、角砂糖を少量のお湯で溶かした。ラムを注ぎ、お湯でグラスを満たし、ステアする。仕上げにバターを落とし、シナモンスティックをさした。
俺が作ったのは『ホット・バタード・ラム』という熱いカクテルだ。
「どうぞ。これ、眠れないときに良いなぁってずっと思ってたんです」
「あ、ありがとうございます」
真輝さんの顔が綻んだ。やっと笑ってくれたことに、左胸が締め付けられた。心がどこにあるかを、まざまざと知らされたように感じる。
真輝さんの隣に戻り、俺はまたタリスカーを手に取った。
「俺はサラみたいに子守唄なんて歌えませんからね」
「......歌えませんか」
俺が何か言おうと隣を見ると、そこには意外な顔の真輝さんがいた。自分の言葉に驚いたようにハッとし、すぐに耳まで真っ赤になる。そしてすぐ小さな声で「忘れてください」とだけ言った。
呆気にとられて、俺は何を言おうとしていたか忘れてしまった。
「あ、あの......まぁ、子守唄って言っても、俺は英語もわかんないし」
「あ、あの、そうですよね」
言いよどむ真輝さんが、おどおどしている。
「あの、もしかして不味いですか?」
「いえ!」
真輝さんが弾かれたように俺を見た。
「美味しいです!」
「寒い夜にはぴったりですからね。また眠れなくなったら作りますよ」
俺はふっと笑ってしまう。何故かは知らないけど、動揺しているらしい真輝さんが面白かった。
俺たちはそれから少しの間、また黙って飲み出した。互いのグラスを空にして琥珀亭を出たとき、時計の針は三時を指していた。
部屋に戻った俺は、すぐシャワーを浴びた。シャンプーのときに目をつぶると、真輝さんの顔が浮かんでくる。
そしてベッドに潜り込んで眠ろうとすると、またもや彼女の憂い顔が浮かんで、目をつぶることができなかった。
早く寝なきゃと思っていたが、今夜は諦めたほうがいいらしいと悟った。瞼の裏に真輝さんの顔がすっかり焼きついてしまい、気分が昂ぶっていたからだ。
俺は観念して、天井を見つめたままぼんやりすることにした。
彼女をあれだけ思い悩ませる正義さんが、会ったこともないのに羨ましくもあり、ちょっと憎らしくもあった。
タリスカーのアルコールが自分の呼気からこみ上げるのを無視して、俺の作ったホット・バタード・ラムを飲んで顔を綻ばせた真輝さんを思い出す。
最後にちょっとでも笑ってくれて良かった。真輝さんが挙動不審になっていた理由がわからないけれど。そう思って、タオルケットを引き寄せる。
何故、あのとき真輝さんがあんなに慌てていたかは、もう少し後で知ることになる。
なにせ、そのときの俺は『バードランドの子守唄』の意味を知らなかったんだからね。
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