正義の行方 ――刺客に襲われた私、政治の闇――


 八月の終わりはまだ暑かった。陽は落ちたものの大気は湿気を含んで肌にまとわりつく。秋が待ち遠しいですねなどと話していると、駐車場の端に人影が見えた。この駐車場はFCH専用なので、見知らぬ人間などいないはずだ。


 その男は小柄で短髪だった。どことなく声をかけにくい雰囲気が漂っている。警戒しながら歩いていると、何事もなくすれ違った。どこに向かうんだろうと振り返ると、その男もこちらを向いて目があった。手には刃物が握られている。


 男は無言で近づいてきて、岩根さんの腰のすぐ上のあたりに、刃物ごとぶつかって来た。

「うっ! ぐっ!」

 岩根さんの口から押し殺したような低いうめき声が漏れた。


 男が刃物を引き抜くと、傷口から真っ赤な血が噴き出した。男がさらにもう一突きしようとした。私のマイクロチップが、その動きに反応して身体が動いた。男の右肩にショルダーチャージして吹っ飛ばす。


「岩根さん、大丈夫ですか」

 倒れた男から視線を離さず、地に伏している岩根さんに声をかけるが返事がない。すぐに手当てをしないとまずい、と思ったところで男が立ち上がった。


 暗い目をしている。行動を阻止されたにも関わらず、男には微塵の動揺も見られなかった。右手にはしっかりと刃物が握られている。十センチぐらいの小さな刃物だ。

 男は目的を達するためにはまず私を排除する必要があると考えたようだ。私の動きに対処するためにゆっくりと近づいてくる。


 私はマイクロコンピューターに筋肉系のコントロールを任せ、男と同じ自然体で構える。刃物ごと男の身体がすっと近づいた。私は左の掌底で刃物を持った右手を叩き、右拳を男の顔面に叩き込んだが、感触なく右手は流れた。

 男はスウェイして私の拳をかわしていた。右手を打たれながらこれができるとは、おどろくべき身体の柔らかさだ。


 男は何の感情も表わすことなく、再び右手に握った刃物を私の身体に近づける。私のクロスさせた両腕が男の右手を挟み込むようにして搾り上げ、男の身体が右腕を頂点として一直線になったところで、私の右膝が深々と男のみぞおちに入った。


 今度こそ男は昏倒して地面に倒れたので、急いで岩根さんの下に駆け寄る。出血がひどくてショック状態を起こしかけている。私はすぐにスマホを取り出し救急車を呼ぶ。続けて警察にも連絡した。


 この間、私の頭はパニック状態で正常な判断はできなかったので、動作は全てマイクロチップによる指示だ。先ほどの戦闘にしても、マイクロチップに身体の制御を任せなかったら、刃物に対する恐怖で小指一本動かすことはできなかっただろう。


 サイレンの音が近づき、まず救急車が来た。救急隊員が岩根さんの止血作業をしている間にパトカーが来た。降りてきた警察官に地面に倒れた男を指さしながら、岩根さんが刺された事情を説明する。


 岩根さんを病院に搬送する準備が整ったので、警察官に訳を話して救急車に乗り込む。

 慶新大病院に着くまで、岩根さんは昏睡したままだった。救急隊員はカンフル剤など打ち込み、懸命に意識を戻そうとするが反応はなかった。


 もしかしたら岩根さんが死ぬかもしれないと思うと、身体がぶるぶると震えてきた。

「岩根さん、しっかりしてください。二人でつながりの場を作ると、約束したじゃないですか。岩根さん! 目を覚ましてくれ! 岩根さん!」

 何度読んでも岩根さんは目を開けてくれない。FCHから慶新大病院まで、車で五分の道程がえらく長く感じられた。


 病院に着くと救急のメンバーが岩根さんを待っていてくれた。手際よくストレッチャーに移し替え、岩根さんをオペ室に運ぶ。その中に慎二先生の姿も見えた。

「先生、慎二先生、お願いです。岩根さんを助けてください。突然刺されたんです。何もしてないのに男に後ろから。岩根さんは一緒にやるんです。二人でつながりの場を作ろうと約束したんです!」

 信じられないぐらい大声でお願いしていた。


 慎二先生は厳しい顔で私を見て、やや高い声で言った。

「分かった。柊さん、分かったから落ち着いてくれ。我々は頼まれなくても全力を尽くす」

 それを聞いて、私は自分が興奮していることに気づいた。岩根さんが死んでしまうと思って、パニックになっていたのだ。一挙に力が抜けて声が出なくなった。


 岩根さんがオペ室に入ってから長い時間が経ったような気がした。

――こんなに経っているのになぜ手術は終わらない。

 不安でいらいらしながら腕時計を見ると、まだ一五分しか経っていなかった。

 それでも一時間も経つともう不安でじっと座っていることができなくなった。立ち上がって廊下を何度も往復した。


 往復回数が十を超えたところで、毬恵さんの姿が見えた。

「毬恵さん、岩根さんが……」

 言葉が続かなくなり、どっと疲れを覚えて廊下に座り込んだ。

「柊一さん……」

 毬恵さんは黙って私の肩を抱きかかえてくれた。暖かい温もりに包まれて、心が落ち着いてきた。


――手術が続いている限りまだ生きている。ここで希望を失っちゃだめだ。

「ありがとう、毬恵さん。もう大丈夫です」

 私は毬恵さんに礼を言って立ち上がった。それでも毬恵さんは心配そうに私を見ていた。

 その視線から伝わる優しさが、身体にエネルギーを注ぎ込む。


 生まれて初めて愛した女性に、心配させている。その事実は情けなくもあり、同時に心地良くもあった。


 ダンダンダンダンダン、走って来る靴音が聞こえて来る。東さんのものだった。

「すいません、遅れてしまって。岩根さんの容態はいかがですか?」

 どんな苦しい時も明るい東さんの顔が、今はすっかり青ざめて血の気がなかった。


「分かりません。手術が始まってもう一時間経つのですが、まだ終わりません」

「どんな具合に刺されたんですか?」

「私たちは夕食を取ろうとして、駐車場の岩根さんの車に向かって歩いていると、知らない男が私たちに向かって歩いて来て、何事もなくすれ違った後で背後から……」


 話していて気持ちが悪くなった。岩根さんの腰から噴き出す鮮血を思い出して、頭から血が引いていく。

「先生、今は駄目です。柊一さんはやっと落ち着いたばかりです」

 また動揺し始めた私を心配して、毬恵さんが東さんに抗議した。

「申し訳ありません。柊さんの気持ちも考えずつい聞いてしまった。今は岩根さんが助かることを祈るだけですね」


 それから三人で黙って岩根さんの手術が終わるのを待った。二時間経ったところで、手術室から慎二先生が出てきた。

 三人とも立ち上がって、慎二先生の側に詰め寄る。東さんが待ちきれないという風に、口を開いた。

「どうだった、助かったのか?」

「とりあえず一命は取りとめた。まだ予断は許さない」

「助かるのか」

「助かっても、岩根さんは元のように歩くことはできないだろう。良くて松葉杖か、下手するとずっと車椅子で生活することになる」


 東さんは笑った。凄味のある笑い顔だった。

「そんなことは何の問題もない。歩けなくても寝たきりになっても助かりさえすれば、あの人にとってそんなことは何の問題もない」

 東さんはそう言い切った。だが私には自分にそう言い聞かせてるように思えた。


 命がつながったということに、私は少しだけ安堵を覚えて、慎二先生に訊いた。

「それで、岩根さんはこれからどうなりますか?」

「今夜一晩はICUで様子を見る。意識が戻らなくても、容体が安定したら一般病棟に移す。柊さんたちは帰った方がいい。状態が変われば必ず連絡する」

「私はここに残ります」

「駄目だ。柊さんは帰って休んだ方がいい。そうでないと柊さんも倒れて、入院する羽目になるぞ」

「私は大丈夫です。ここに居させてください」

「駄目だ。倒れそうな人間がいるだけで、看護師も俺も気を遣う。本来なら岩根さんに、百%集中しなければならないのに、足手まといになる。お願いだから帰って、明日また来てくれ」


「柊一さん、帰りましょう。岩根さんのためにも休まなくちゃ。柊一さんも倒れたら岩根さんは残念に思うよ」

 毬恵さんにそう言われて、私は帰ることにした。

 岩根さんの思いに背くのは嫌だと思った。


 慎二先生に後を託して、病院の玄関に来たところで、速足で入って来る中年の女性の姿が見えた。それを見て東さんが叫んだ。

「亜希子さん、岩根さんは一命を取りとめましたよ」

 東さんの言葉に、亜希子と呼ばれた女性は、ホッとした顔をして言った。


「東先生、来てくれたんですね。ありがとうございます。今日、主人に頼まれて東京に行っていて、知らせを聞いて急いで戻って来たのですが、遅くなってしまいました」

「東京って、笹川先生のところですか?」

「ええ、主人が隠蔽はどうしても許せないって怒っていて、私が剛さんを説得することになったんです。でも会えませんでした……」

「そうでしたか。岩根さんはICUにいます。ご案内しますから、ついて来てください。柴田君、三上さんを頼む」


 東さんはそう言って、亜希子さんを連れて奥に消えた。

「さあ、柊一さんは帰りましょう」

 毬恵さんに促されて、タクシー乗り場に向かって歩き始める。

「柊一さん、今日は私の部屋に来ませんか? 心配で柊一さんを一人にできない」

 毬恵さんはこっちを見ずに、自分の部屋に誘った。

 身体には先ほど毬恵さんのくれた温かい感触が残っていた。

 私も今日はできることならそばにいて欲しいと思った。

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