2.

 巳の国を治めるゲンシンは、下衆という言葉が服を着て歩いているような男である。しかも本人が自ら下衆を信条としているので、なおたちが悪い。

 シグレにとっては己の住む国の領主であり、友であるシオンの主君でもある。届けられた登城の求めを切って捨てることもできなくはなかったが、何しろ相手はガルレア大陸一の下衆。切って捨てれば、それはそれで面倒になるのは明白……というのが、シグレがクロサギ城に赴いた理由であった。

 いざゲンシンのもとに通されてみれば、そこには既にアルドの姿がある。


「シグレ! お前まで呼ばれてたのか!」

「それはこちらの台詞だ、アルド。……で、一体なんの用向きだ、ゲンシン様よ」


 事と次第によっては抜刀も辞さぬ、と言わんばかりの形相で、シグレは高砂に座る男──ゲンシンを睨めつけた。彼らの間に浅からぬ因縁があるのは、アルドにも、そして他ならぬゲンシンにもわかっていることである。だというのにも関わらず、なぜゲンシンは自分を呼びつけたのか……その理由を、シグレは未だに測りかねていた。ゲンシンは何やら神妙な面持ちでシグレを見据えると、わざとらしいほど真剣な声で言い放った。


「普賢一刀流のシグレよ。お主には……死んでもらう!」

「は?」


 素っ頓狂な声を上げたアルドの横で、シグレは腕を組んでほう、と唸った。


「い、いや待て待て待て! いきなりどういうことですかゲンシン様!」

「うむ、ここは問答無用で斬り捨てているところだが、わしも鬼ではない……」


 鬼の血を引く者たちが聞けば間違いなく眉を顰めるであろう台詞を吐いて、ゲンシンが懐から取り出したのは、皺だらけの紙切れであった。


「読んでみよ」


 ──普賢一刀流の継承者を皆殺しとせよ。さもなくば巳の国を滅ぼす。

 判読の難しい、コミミズののたくったような乱れた筆跡ではあったが、その一文だけははっきりと読むことができた。


「……これはつまり、脅迫状か? 子供の悪戯にしては悪質すぎる」

「うむ。城の大手門に矢文が突き立っておった。しかしわしには、普賢一刀流のサムライどもと事を構えるほどの暇はないのでなあ……」


 ゲンシンが右の口角を上げて、ニヤリと笑った。悪人面とはこれのこと、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、シグレは別の言葉を返す。


「成る程。つまりは巳の国のため、民のため、俺に死ねと? ゲンシン様にしては、随分と殊勝な考えではないか」

「ふ、わーっはっはっは! このわしがそんな真っ当なことを言うはずがあるまい」


 声高に笑うゲンシンが、ふっと声を潜めた。


「お主の手で、普賢一刀流を滅ぼすのだ」

「なっ! そんなこと……!」


 だが、狼狽えた様子を見せるアルドとは対照的に、シグレは笑いを堪えて己が国の領主を見ていた。それこそ、子供の悪戯に気づかぬふりをする大人のような表情である。シグレは童心を解する男だ。少なくともそう自負はしている。街の子供たちに勝負を挑まれれば全力で相手をするし、悪戯や遊びにも手を抜かずに付き合ってやる性分である。しかしそんなシグレであっても、さすがに大真面目な顔をした中年の男の悪戯心には付き合いきれなかったのか、とうとうぶはっ、と情けなく吹き出したかと思うと、高らかに笑声を上げた。


「くくくく、あははははは! ゲンシン様よ、俺をシオンの奴と勘違いしておるのではないか? 俺を嬲ってもつまらぬと言っておったではないか!」

「うむ、まあそう言うと思っておった。まっことつまらんのう……。シオンにならば是が非でもと迫ったところであったが、お前は本当に嬲り甲斐がない。親や親友を殺せと言えば、少しは良い顔をしてくれると思ったのだが!」

「はははこの下衆め」


 シグレの乾いた嘲笑など意にも介さず、しかし、とゲンシンは続ける。


「だからと言ってこの文を捨て置くわけにはいかん。わしも死にたくはない。具体的に言うとだな、巳の国を落ち延びる時間が要る」

「あっ、国を守りたいとかそういうのじゃないんだな……」

「当たり前だ! わしが国を守るのではない、国がわしを守るのよ! ……で、だ。西の剣士、お主とシグレを呼びつけたのは、外でもない──」




「……差出人を捜して成敗しろ、だなんて。何か上手く使われてないか、オレたち」

「ま、あの下衆にしてはまだ良心的な振る舞いであろうよ」


 イナナリ高原、普賢一刀流道場にて。

 アルドとシグレは件の紙切れを前に、二人して頭を悩ませていた。何しろ、これ一枚から名も知れぬ差出人を見つけよと言うのだ。レンリやセティーといったこの手の捜査を生業とする者たちならばお手の物であろうが、そうした者には本業というものがある。すぐには呼びつけることができない。……と来たらばここは二人でなんとかせねば、と意気込んだはよいものの、アルドもシグレもかたや一介の冒険者、かたや一介のサムライに過ぎない。戦いに関してはまだしも、こと人探しに関しては、はっきり言ってずぶの素人である。


 だからといって、諦めてしまうにはまだ早い。数点、紙上に残された手掛かりもある。


「やはり、筆跡を見るにきちんとした身分の者ではなかろう。文字を覚えたばかりの子供が書き殴ったようにさえ見える」

「ところどころに間違いもあるし、確かにすごく読みにくいな……」

「それでいて、普賢一刀流に恨みを持つ者、か」


 二人とて何の当てもなく道場にやってきたわけではない。普賢一刀流が何者かの恨みを買うような事件があったかと、師範と師範代──つまりはシグレの祖父と父に尋ねるためである。

 普賢一刀流は非常に長い歴史を持つ剣術だ。それも一子相伝の剣ではなく、大陸じゅうに多くの門弟を抱えている。当主はすべてが血縁者というわけではなく、子がなければ実力の確かな門弟を当主に据えることもあったし、あくまでも世襲を重視した当主もいたという。……つまりは、戦に家督争い、他流派との勢力抗争、火種となりそうな出来事などいくらでも想像できるということだ。だが、少なくともシグレの父や祖父の知る限りでは、ここ数十年そういった類の事件は起こっていないという。「むしろ平和に過ぎるくらいだったがな」というのはシグレの祖父の言葉である。


「原因に覚えがないとなると……どうしたもんかな」

「うむ……。ならば動機から探るよりも、矢文を放った者を捜す、という見地に立つのはどうだ。文を書いた者が接触しているかもしれん」


 この文はクロサギ城の大手門に刺さっていたものだ。たとえ矢を放った者と文を書いた者が同一人物だったにしても、差出人の手蔓を掴むことができる可能性は皆無ではない。

 しかし、問題はどうやってそれを探し出すかである。当て所なく理由を探すよりは幾分かましだ、巳の国の人々すべてに話を聞いてゆけば、いずれは見つかるかもしれないのだから。しかし、それこそ先日の橋探し以上の労力を要することになろう。

 ゲンシンの言によれば、生憎と大手門には何の証拠も残っていないという。あの下衆のことだ、隠しているのかもしれぬ……とはシグレとて考えた。刀を突き付けて迫れば吐くかもしれないが、一歩間違えば己やアルド、そしてゲンシンに仕えるシオンの首まで飛びかねない。かような危険を冒すことはできない。

 顎に手を当てて、何か名案はないものかとでも言わんばかりに考え込むアルドに、シグレは如何なる勝算あってか、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせる。


「この国で、後ろ暗い者たちがどこに集まるかなど決まっておろう」


 余人の目の届かぬ場所。光の当たらぬ、ならず者と妖怪たちの巣窟。かつてはシグレ自身も、密談のために使用したことがある。


「……荒れ寺か!」


 大雑把な予測ではあったが、あながち的外れではないだろう。事実、巳の国の街や街道のほとんどは人の往来が多い。物陰で不法な取引や賭博に興じる者たちもいるが、何しろ足がつきやすいのだ。その点、荒れ寺には多くの魔物や妖怪が住み着いていることもあり、監視の目はほとんど無いと言ってよい。事実上、悪事を黙認されている状況にある。

 文を寄越した人間は、恐らくきちんとした身分の者ではないのだろう。その手の者の多くが、日の当たらぬ世界で日銭を稼ぐならず者になることを余儀なくされるのが、悲しいかな、世の中というものだ。そうした者たちが荒れ寺を寄る辺とするのも、まあ頷けぬ話ではない。


「まあ、空振りという可能性も大いにあるがな。行ってみるだけ損はあるまい」


 善は急げだ、とシグレは立ち上がる。もし万が一この文が悪戯などではなく、本物の脅迫文なのだとしたら、巳の国を滅ぼしかねない事態なのだ。真剣な面差しで黙って頷いたアルドを見て、シグレは満足して一言「よし」と笑った。


 ──結論から簡潔に述べると、矢文を射った下手人はすぐに見つかった。荒れ寺を根城とする賊の一派である。

 頭領は初めこそ強気な態度を崩さなかったが、少し問い詰めればあっさりと書状の件を白状した。だが、問題は彼がすっかり怯え切って、落ち着いて話をするのも一苦労、といった状態であったことのほうである。


「だ、だから俺たちは、あの女に言われて文を届けただけなんだよ!」

「……ええと、確認なんだけど。その女の人の素性はわからないってことでいいんだよな?」


 アルドの問い掛けに対し、千切れんばかりに首を縦に振る男を見て、シグレはふむと考える。頭領を名乗るこの男は無事のようだが、彼の仲間の姿は見えない。


「頭領を名乗るのであれば、仲間の一人や二人連れているだろう。どこへ行った?」

「そ、それも、あの女が……」

「文を持ってきたって女の人か」

「ああ、ふらっと現れたかと思ったら、まるで紙でも切るように、俺の仲間たちを……」

「惨い話だ。その女、余程腕が立つらしい」


 曲がりなりにも武装した賊をあっという間に斬り捨ててしまったとなれば、その腕は相当なものだろう。頭領が怯えるのも無理はない。


「それでその女、どこへ行った?」

「し、知るか! 詳しい話を聞く前に、イナナリ高原のほうに消えちまったから……」


 イナナリ高原。

 その言葉を聞くや否や、シグレの顔から表情が失せた。


「……アルド、まずいぞ」

「どういうことだ?」


 未だ理解が及ばぬ様子のアルドを置いて、シグレは一人走り出した。アルドも慌ててそれを追う。全力で荒れ寺の境内を駆け抜けていく。

 ──ええい、なぜこんな単純なことに思い至らなんだ!

 己の浅慮と愚かさとに、シグレは歯噛みする。あの文の差出人、賊の言う「あの女」とやらが悪意を向けていたのは誰か? それは他の何でもない、「普賢一刀流」だ。であれば敵が狙うのは……。


「シグレ、待て! どこ行くんだよ!」

「……うちの道場だ!」


 とんだ罠もあったものだ。いや、こんなものは罠とさえ呼べない。こちらが勝手に深読みをして、こちらが勝手に隙を晒しただけなのだから。最初から道場で待ち受けておくべきだったのだ。しからばこちらから出向かずとも、敵は襲撃を仕掛けてきたことだろう。


 いま時分、シオンは道場を出払っているはずだ。シグレの祖父も、先程道場で話を聞いた直後、アカネと共に出掛けていった。恐らく今はシグレの父が一人で道場を守っているのだろう。彼は東方一と言っても過言ではないほどの手練れではあるが、賊をあれだけ震え上がらせる剣鬼が訪ったとあらば、事がどう転ぶかわかったものではない。


 果たして、道場は不気味な沈黙に包まれていた。元より静かな場所ではあるが、ひどく重苦しい雰囲気が漂っている。やはり、既に──。


「おやじ殿ッ!」


 ──道場の奥の壁に、力なく寄り掛かるシグレの父の姿があった。その手には、未だ刀が握られたままだ。


「おやじ殿、大丈夫か」

「ああ、大事ない……」


 駆け寄った息子を見上げる顔には、じっとりと脂汗が滲んでいる。大事ない、と言ってはいるが、とてもそうは見えなかった。


「……私のことはいい。今は、一刻も早く奴を追わねば……」

「奴……まさか……」

「道場破りよ。それも、かなりの強者」


 それは女かという問いに、シグレの父が首肯する。長く艶やかな濡羽の髪の女。巳の国においてはありふれた特徴ではあるが、シグレの心中には一つ、引っ掛かる面影があった。

 ──やっと見つけた。

 いつかの夢に現れた女。あの女人も、長く美しい黒髪をしていた。

 だが、そんなものは所詮偶然の一致に過ぎぬ、とシグレは頭を振って憂いを払う。


「やっぱり、荒れ寺の連中が怯えてたのは……」

「ああ、ここを襲ったという女人に違いあるまい。……おやじ殿、彼女の行き先に心当たりは?」

「……イザナだろう。道場主は何処、と言っていた。父上を捜す腹積りに違いあるまい」

「じじ様ならばアカネもいるし心配はなかろうが……イザナの者たちが気にかかる。向かってみよう」

「頼む。……一太刀浴びせはしたが、その程度ではどうにもならんような相手だ。気をつけてゆけ」


 父の言葉に黙って頷き、そのまま飛び出していこうとするシグレに、アルドが慌てて声を掛けた。


「オレも行くよ!」

「お前がいてくれれば百人力よ……と言いたいところだが。奴の狙いは普賢一刀流だ。アルドを巻き込むのは本意ではない」

「今更なに水臭いこと言ってるんだよ、シグレ。乗り掛かった船ってやつだろ」

「……そうか。そうだな。……かたじけない!」

 二人は軽く拳を合わせ、一路イザナへと駆ける……。



 夕暮れ時のイザナは混乱の只中にあった。慌てふためいた様子の門番に聞けば、突如としてイザナに現れた女が、道行く者に普賢一刀流を知っているかと尋ね、知っていると答えれば場所を尋ねて斬り、知らぬと答えれば黙って斬る——そんな辻斬りめいた行為を繰り返しているのだという。アルドとシグレが街にたどり着いたときには、既に城下人々のほとんどはクロサギ城へと避難し、人っ子一人見えぬ様相であった。


「これは……」

「……来るぞ、アルド」


 シグレはそう言って、腰の刀に手を掛ける。波の如く叩きつけられる殺気に、その手が僅かに震えていたことは、シグレ自身にもわかっていなかっただろう。

 路地の向こうから、コン、コン、と控えめな足音が聞こえてくる。静まりかえったイザナの街には、よく響き渡る音である。

 ——長く、艶やかな黒髪の女だ。鮮やかな紅を差した美しい顔立ちは、ともすれば少女とさえ呼べるほど幼いものだ。しかしその黒々と燃え盛る双眸を見れば、彼女がかように幼気な存在ではないというのは火を見るより明らかである。そして何より異様なのは、彼女が携えたその大太刀だろう。鞘から抜き放たずとも、ひどく禍々しい妖気をまとった代物だとわかる。


「……これはとんだ別嬪よ」


 笑ってそう言ったシグレの腋を、冷たい汗が伝う。眼前の女に、シグレは見覚えがあった。間違えるはずもない。——いつぞやの夢の中で、橋の上に立って泣いていたあの女なのだから!


「やっとお会いできましたね。普賢一刀流」

 女の微笑みは、至上の喜びに綻んでいた。

「まさか、あの刀に操られているのか?」

「いや……そうは見えん」


 女が徐に大太刀を抜き放つと、その小さな手に握られた柄が、露わになった刀身が、青黒い妖気に包まれる。軽くそれを振るえば大気が裂け、土壁が裂け、周囲の民家の屋根は瓦を撒き散らした。


「出鱈目だ……!」


 仮に女が振るったのが、アルドの腰に下がったままの魔剣であれば、この破壊力にも頷けよう。しかしあれは、見る限りただの大太刀だ。妖刀や魔剣の類ではない。あの青黒い妖気は、女自身から吹き出したものだ。女はその破壊に酔いしれるでもなく、ただ鈴の転がるような声で、この邂逅を言祝ぐ。


「この日をずうっと待ちわびました。死んで死んで生まれて生まれ、朝も夜もなくあなた方を想って刀を振るい続けたのです。ただ——復讐を果たすために」

「さて、俺はオナゴを泣かせたことは……なくもないような気がしないでもないが、お主の顔はとんと記憶にない。名を聞いても良いか」

「ふふふ、わたしの名前? かようなものは些事です。わたしにとっての重大事はただ一つ、この一刀にてあなた方の命脈を断ち、この世から普賢一刀流を消し去ることのみなのですから」


 いつ斬り合いが始まっても不思議ではない緊迫感。女は一歩、また一歩、じりじりとシグレの間合いに詰め寄ってゆく。


「はは、普賢一刀流をこの世から断つというのも難しい話であろう。あれは別に、血縁者に受け継がれる一子相伝の剣術でもなし、門弟もそうでない剣士も山ほどおるのだ。それを根切りにするとなれば骨が折れるぞ」

「承知の上です。わたしはそのすべてを殺す。何百年とかかろうとも」


 アルドもシグレの傍らで剣を抜き、構える。そうせざるを得ない闘気が、女からは放たれていた。


「……なあ、どうしてそんなに普賢一刀流を恨むんだ?」

「知れたこと。彼らはわたしから、飛鷹奉天流の誇りを奪い去ったのです」

「飛鷹、奉天流……?」


 女の口が、凄艶な笑みを湛えた。

気づけば彼女は、シグレとアルドの間合いぎりぎりのところまで距離を詰めている。


「——問答無用。いざ……参る!」


 女の踏み締めた地面が、ぐしゃりと砕ける。

強烈な踏み込みと同時、横薙ぎに振り抜かれた大太刀。シグレがそれを咄嗟に受ければ、柄を握るその手に痺れが走り、呻きが漏れる。およそ女の膂力とは思えぬ一撃であった。


「なんだ、この馬鹿力は……!」

 女の答えはない。答えの代わりに返しの一撃が飛んでくる、そう察知してシグレは咄嗟に地面を蹴った。受けに回れば、あの尋常ならざる重さの一撃をまともに受け続けねばならないのだ。たとえ的確に捌き続けることができたとしても、必ずどこかで限界が訪れるはずだ。──ならば、こちらが攻勢に出るまで。


「アルド! 合わせろ!」

「任せてくれ!」


 大太刀の一閃を掻い潜り、シグレは女の懐に斬り込んだ。この手の剣術は広い攻撃範囲を誇るが、一度懐に入ってしまえば攻めの手を失うものだ。……それが考慮されていないなど有り得ぬ話だろうが、今のシグレにはその僅かな可能性に賭けることしかできなかった。

「無駄なことを」

 女は大太刀を手放さぬまま、回転を付けての蹴りを放った。何かしらの手を打ってくるのは見えていたが、よもや豪快な蹴撃とは。意表をつく一撃に、シグレは思わず飛び込む勢いを殺すことを余儀なくされた。そして女はシグレの背後から剣を掲げて飛びかかってきたアルドを、大太刀の一閃で気合の声と共に弾き飛ばすと、続け様にシグレに斬りかかる。

 鍔迫り合いの間に、視線と視線とが交錯した。

 美しい女人だ、とシグレは思った。彼は女人の容姿や年齢に拘泥するたちではない。しかしそれでも、彼女の顔貌は間違いなく美しいものであるとわかる。漆黒の瞳には憎悪の炎が燃え盛っているが、それさえも化粧のひとつのように、凄絶な美しさに華を添えている。


「死んでください」

 女が得物に力を込める。それを受け止めるシグレの愛刀が、甲高い悲鳴を上げるのが聞こえた気がした。


「悪いが、それは聞けぬ頼みだ」

「では、わたしの手で殺すまで」

「……よくもまあ、おやじ殿はこの怪物に一太刀浴びせたものだ」


 そう軽口を叩きつつも、シグレはちらり、と、女越しに空を見上げて微かに笑った。

女がその視線の意味を悟ったときには、「切り札」の影が鳥の如く、高い城壁の上から飛び立っていた。


「——ご覚悟!」


 日暮れの空を翔る烏の如く舞い来たのは——アカネであった。

 女は咄嗟にシグレの刀を弾き飛ばす。そうせざるを得なかった。頭上から襲い来るアカネの対処に迫られたゆえだ。如何なる超人であろうとも、高所から落下する勢いを付けた神速の一太刀を防ぎ切ることなどできはしまい。そんなものは「あり得ぬ」剣だ。命を捨てる覚悟、あるいは命を失わぬという確信がなければ、決して振るえぬ剣である。

 アカネの刀は、女を袈裟に斬った。

 斬られてなお、女の体から血が吹き出すことはなかった。代わりに吹き出したのは、白い桜の花弁だ。それは、アカネの一撃が有効打を与えたこと、そして女が人ならざるものであることの証明でもあった。


「くっ……!」

 膝をついた女のそばに猫の如く着地し、警戒を解かずにアカネは笑ってみせる。


「よく来た、アカネ!」

「はい! 自分、助勢せよと兄上に言いつけられましたので!」

「じじ様は!」

「ご無事です! お側に兄上が!」

「ならば心配は無用だな!」


 ちき、とシグレは女に刀を突きつける。


「さて、これで三対一だ。それも皆、相当の手練れだぞ。手負いのお主では、些か分が悪いのではないか」


 女は蹲ったまま、わずかに肩を震わせた。何がおかしいのか、俯いたままのその口からはくつくつと笑声が漏れている。


「苦しまずに殺してさしあげようと思っていましたが」


 ——途端、女の小さな体が、淡い燐光を放った。上げた顔が酷薄に歪む。


「余程、苦しみ抜きたいようですね」

 それはいかなる魔術か。迸った眩い光に皆が目を覆うと、すでにそこに女の姿はなく——。


「……なっ!」

 そこには巨大な、白い毛の猫とも獅子ともつかぬ妖怪の姿があった。身の丈は、人間のおよそ二、三倍はあろう。ふさふさとした尾は、根元で二つに割れている。……その姿は、いつか、紅葉街道で見たあの猫又を彷彿とさせた。いや、夢で見たあの女の面影といい、あの猫と無関係と言うことのほう困難だろう。


「おかしいと思っておったのだ。今考えてみればあの魔物、ひどく怯えておったが、この化け物を相手にしたのであろう。手負いであったのも頷けると言うものよ……」


 この巨体を相手にすれば、いかに魔物とて太刀打ちできまい。やられていたのは、魔物のほうだったのだ。


「ふふ……おかげで貴様らを呼び寄せることができた」


 どうすればこの窮地を切り抜けられるのか。皆がそれぞれに策を練る。戦力は三人。敵は一匹。増援の期待はできないが、それはおそらく敵も同じこと。


「シグレ、アカネ、行くぞ……!」

「……あれか! よし、任せておけ!」

「? 何のことだかわかりませんが、自分、完璧に合わせてみせます!」


 アルドは剣を納め、この戦いにおいて抜かれることのなかった、もう一振りの剣に手を掛ける——瞬間、大気が鼓動を打つように震えた。腰の巨大な鞘から抜き放たれたのは、真紅と深蒼の魔力を帯びた一振りの剣。


 銘を、魔剣オーガベインと云う。


 オーガベインは、時の流れさえ歪める力を持つ剣だ。シグレや他の仲間にとって、いや、使い手であるアルドにとってさえも理解の領外にある存在である。それがどのようにして時空に干渉しているのかを彼らが推し量ることはできない。わかるのは、その剣が敵に動く隙を与えずに勝負を決することさえできる代物だということだ。つまりは、奥の手中の奥の手である。

 歪められた時の中を駆け抜け、アカネが、シグレが、それぞれの一撃を放つ。妖怪は己が斬られたことさえも分からぬまま、アルドの振るったオーガベインに両断されることとなった。


 剣が鞘に納められると、時間は再び、清流の如く澱みなく流れ出す。妖怪は突如として己が身に起きた異変に悶え苦しみ、大地さえ揺るがすような悲鳴を轟かせた。


「き、さま、あ……!!」


 その巨体は見る見るうちに縮んでゆき、あの日の紅葉街道で見た猫の姿と寸分違わぬ、小さな白い猫の姿となった。獅子めいた悍ましい化け物も、こうして見れば可愛らしいものだ。

 これにて解決か、と、一行が思った──その瞬間である。


「!」


 白い猫の背後に、なんの前触れもなく青白い稲妻が走った。──時空の穴。アルドたちにとっては見慣れたものである。猫はふらふらと覚束ない足取りで、光の中に姿を消した。


「……逃げるつもりか!」


 真っ先に飛び込んだアルドを追って、シグレも穴に飛び込もうとするが、ふと思い至って足を止める。何にせよ、この破壊の理由を伝えねばならない。アカネを穴の向こうへ行かせて、自分が報告に行くか? だが、誰かがアカネの手綱を握っていなくては、どこへ走ってしまうかもわからない──という一瞬の逡巡を経て、シグレは鋭く告げる。


「アカネ、この顛末をシオンたちに伝えるのだ!」

「! はいっ、シグレ殿!」

 シオンがついていれば問題ないだろう。信頼と言うべきか、責任感の欠如と言うべきかは兎も角、これで良い、とシグレはアカネの背を見送る。

 そして彼が飛び込んだ直後、穴は閉じてしまった。


 謎の破壊の痕だけを残し、剣士たちも、その元凶たる妖怪も、イザナから忽然と姿を消すことになったのである。

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