第2話 元凶

 その日は日曜で、尚美と賢三叔父さんは映画を見に行っており、姉は奴隷制度を復活させた遼の「牛丼大盛りテイクアウトしてこい」命令でいなかった。


 私はといえば姉と共同生活している部屋でイヤホンから流れる歌を聴きながらコミック雑誌を読んでいる最中だった。


 視界の隅でドアが開くのが見えた。

 姉が帰ってきたのかと思い「おかえり」と言った。


 ゆっくりと歩いてくる相手を見て飛び起きた。

 姉ではなく、遼だったのである。


 口の端をぎこちなく上げ、目は異様な色を帯びていた。

 異変を感じた私は壁まで体を移動させたが遼はゆっくり近づいてくる。


 そして声をあげる直前、遼は蛇のように素早く移動してきて私の口を手で塞ぎ、もう一方の手で肩をがっちりと掴んだ。


 恐怖と息苦しさとで喘いでいる私に顔を近づけ「おとなしくしろ、家から放り出されたいか?」と遼は激しい息遣いで言ってきた。


 遼は私の上着を強引にまくりあげ、胸のほうへ震える手を滑り込ませる。


 口はいまだ手で覆われ僅かに息が出来る状態だった。


 力を入れた手で胸を揉まれ、私は悲鳴をあげることも出来ず頭の中が痛みでくらくらし眼球が飛び出しそうなる。


 ふいに口を塞いだ手がなくなり、覆いかぶさっていた遼の体の重みが消えた。



「悠に何てことしてんの!」



 姉の声が耳に響いた、これまで聞いたことのない恐ろしい声だった。

 

 咳き込みながら上半身を起こすと尻餅をついた状態の遼が姉を見上げている。


 その顔は“何を怒っているんだ? 冗談だよ、冗談”という、どこか人を小馬鹿にした笑みを浮かべていた。


 顔を姉に向けると目を見開いて遼を睨んでいた。

 そして顎を引き、その目が眠気に誘われたよう変化した。


 私は目が据わる、というのはこういうことかと頭の隅でぼんやり考えていた。

 それと同時に姉が途方も無い、取り返しの付かないことを始めるのではないかという恐怖がこみ上げてきた。


 遼も姉の雰囲気に只ならぬものを感じ始めたのか、笑みが徐々に消えていった。


「お姉ちゃん」


 私は声をかけた。


 だが聞こえてないのか、姉は机の上にあるハサミを手に取ると遼に向かって歩き始めた。


 止めなければならないと姉の足にすがりつく、そこで姉が足を止めるとこちらを向いた。


 途端に魔法が解けたように遼が「このことは黙っていろよ、わかってるだろうな」と怒鳴り、勢い良く立ち上がると部屋から大きな足音をたて出て行った。


 姉は下をむいたまま数回荒い深呼吸をすると「大丈夫?」と尋ねてきた。


 その瞬間、私の中の奴隷制度による思考停止状態がいっきに崩れ、どうしようもない惨めな気持ちがあふれてきた。


 そして姉の足元で、あふれる涙を隠すように顔を両手で覆った。


「どこかへ行こうか」


 低い、くたびれた声で姉がそう言った。


「もうここには居たくない。どこか遠くへ行きたい」


 そう言って泣きじゃくる私を抱きしめる。


 私たちは一つの方向へ突き進んでいった。


 テレビでいつか見たことがある疲労骨折、金属疲労のようなもので、ある箇所に慢性的な負担がかかるとある日ぽっきり折れてしまう、その箇所が私達の場合心だったのだ。


 場所は姉が一週間倉庫整理でアルバイトをしたことがあるビルに決まった。

 そのビルは管理人を見たことも無く、出入りが簡単なうえ、屋上への鍵はつねにかけられていなかったからだ。


 そういえば姉はどこへいるのだろう? 


 目に入るものといえば純然たる闇、上下左右の感覚もない空間。

 これが死後の世界なのならそれでも構わない、ただ一人は嫌だ、一人っきりは絶対に嫌だ。


 姉は、お姉ちゃんはいったいどこに……


 そして声を上げる間もなく次の瞬間、投げ出された。


 体は仰向けになり落下してゆく、漆黒の闇は灰色に変わりつつあった。

 その灰色の空に、とてつもなく巨大な鳥が翼を広げ浮かんでいるのが見えた。



       ◆



 異変が私を襲った。


 最初に感じたのは呼吸だった。

 

 自らの意思とは関係なく強制的に肺が呼吸させられているのに驚いて目を開ける。


 白い天井が見え、口と鼻を覆っている器具が僅かに見えた。

 医療ドラマでよく聞く、呼吸マスクの音や医療機械の定期的な電子音が聞こえてくる。


 目のほかに首がほんの申し訳程度に動く以外、まったく体は動かなかった。


  頭の中は何も考えられず真っ白になった。


  そこへドアの開く音がして一人の女性が部屋に入ってくるのが見えた。


 その女性に見覚えがあった、


 両親を亡くした三年前、親戚同士が姉と自分の引き受けでもめているとき、黙ってタバコをふかしていた父方の叔母である琴音(ことね)さんだ。


 姉の引き受け手は賢三叔父さんが真っ先に名乗り出たのですんなり決まったが、私はそういかなった。


 親戚達はいろいろ家庭の事情とやらを持ち出してはお互い牽制し合い、あまつさえ兄弟喧嘩の様相を見せ始めたときだった。


 手に持ったタバコを灰皿でもみ消しながら「ぐだぐだみっともねぇな!もういい、あたしが面倒みるよ」と琴音が言い放ったのだ。


 もともと六人兄弟の中で一番歳下の琴音叔母さんは学生時代から喧嘩で警察にお世話になったり、高校を卒業するなりふらりとアジアを単身で放浪したりと昔から兄弟達の鼻つまみ者で見られていた。


 そんな鼻つまみ者に一喝されたうえ、借りを作られたのでは兄弟達も立つ瀬が無いと思ったのだろう、渋々と妥協案を出し始めた。


 結局、賢三叔父さんが渋々私を引き取ることが決まり、親戚一同は内心胸を撫で下ろすこととなるのだが、私の脳裏に琴音叔母さんは印象強く残ったのだった。



「うぉ」


 目を開けているのに気づいた琴音さんがオレンジジュースのペットボトルを片手に声をあげた。


「見える?わかる?」


ペットボトルをゆっくり上下させながら尋ねてくる琴音さんに頷く。


 にこりと琴音さんが笑うとこちらの側に駆け寄り、ベッド脇のナースコールを押した。

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