顔は口ほどに物を言う

木沢 真流

顔認証にはご用心

 目の前に大柄な男が立ち塞がる。ちょっと失礼と右に避けようとすると、男も合わせるように横に移動する。これはこれはと左に避けようとすると、同じように男も移動した。その時わかった、この男は私に用があるんだと。

 改めて男をしっかり見た。がっちりした体型から最初は気づかなかったが、髪の毛にはだいぶ白髪が混じり、皺も深い。相当年季が入っている、という表現がぴったり合っている。

「何か用ですか」

 私の言葉に男は口元だけ緩めたが、それ以外は隙がない。ベージュのコートの下には一糸乱れぬスーツを仕込んでいる。素人ではないかもしれない、とその時初めて感じた。

「突然申し訳ありません、わたくし、こういうものです」

 男がさっと胸から何かを出して私に見せてはすぐにしまった。何だったのかはっきりとは見えなかったが、旭日章があるのだけは見えた、どうやら警察のようだ。

「ここじゃなんですから、私の車でゆっくりお話聞いていただけませんかね」

 男が指差す方には、一台の車が止まっている。その前には一人、微動だにしない男が一人待つ、おそらく彼も警官だろう。

「いえ、ここでいいです。なんでしょう」

 畜生、なんでこんな時に。こんなところで足止めくらうわけにはいかないんだ、たとえ相手が警官だったとしても。

「そうですか、こんな駅構内で話す話じゃないと思っての気遣いだったんですがね。ではせめてあそこのベンチでお話し願えないでしょうか」

 夕方の長野駅構内は学校、仕事帰りの人でごった返している。ここで変に抵抗して何か疑われては元も子もない。私は警察にお世話になるようなことはしていないから大丈夫、すぐに話を済ませてここを去ろう。

 男は私をエスコートするようにベンチまで促したが、その立ち位置も計算され尽くされており、いつ私が走り出しても捕まえられる距離を保っていた。

 私は一足先にベンチに深く腰かけると、あからさまに大きなため息をついた。それに続いて、男も腰掛けた。ベンチがぎしぎしと歪んだ。

「確認です、あなたのお名前は四ツ目さん、四ツ目 勉さん、28歳。ええ、信州理科大学の薬品物理化学教室で講師をなさっている、間違いないですね?」

「お詳しいですね、どこかでお会いしましたっけ、どちら様です?」

 私は思いっきり嫌味を言ってやった。わかってる、どうせ顔認証システムのせいだろう。駅についている顔認証の精度は目覚しく、今はその映像から以前のデータにアクセスすればその人の名前、年齢、生年月日、前科までワンクリックで参照できる。気の抜けない世の中になったもんだ、でも問題ない、私は何もやっていない。

「おっと、失礼。自己紹介がまだでした。私は神宮龍次郎、長野県警の者です」

 私は腕時計を見た。新幹線の発車の時刻が迫っている。

「何の用ですか? 私この後約束があって……」

「そうですか、それは失礼。では単刀直入に申します。駅の監視カメラの映像からあなたが『社会的勾留者』と認定されました。つきましては、ええ今から最低24時間、最長3ヶ月の勾留に入り……」

「嘘だろ? 何で私が?」

 そんなはずはない、「社会的勾留」なら私でも知っている。顔認証AIシステムがその人物の顔色、挙動を分析し、今までの膨大なデータからその人物が犯罪を犯そうとしているかどうかを認識する。このシステムはすでに2020年には90%以上の精度をもって完成していた。それを一歩前進させて、犯罪を犯す前にその人物を勾留し、犯罪を未然に防ぐ、それが『社会的勾留』の意義だ。

 その成果は目を見張るものがあり、突発的な犯罪が50%以上減ってしまったものだから、警察は尚更強気だ。

「拒否したら?」

「できません、公務執行妨害で正式に逮捕します」

 頭から血の気が引いた。背中を支えている骨がぐにゃりと音がするのを感じた。だめだ、そんなことしたら……だって私はこれから——。その時、胸元でスマホが震えた。私はすぐさま電話に出た。

「はい、もしもし……。そう、今向かってる……うん」

 神宮は遠くを見つめながら、相変わらずまったく隙がない。首はほとんど確認できず、分厚く鍛えられた皮膚が少しだけ覗いていた。

「今ちょっと色々あって……必ず行くから、頼む。待っててくれ……なあちょっと」

 私は声がしなくなったスマホを胸にしまった。

「どうかしましたか」

「どうもなんも。私はこれから新幹線に乗って、羽田にいかなければならないんです。付き合ってた彼女が——結婚まで考えていました。その子とちょっとしたことでぎくしゃくして、しばらく会わなかったんです。でもやっぱり自分はあいつじゃなきゃダメなんだ、そう気付いた時彼女が今日フランスに発つって聞いて——。どうしても思いを伝えたい、行くなって言いたいんです、この機会を逃したら、私は一生後悔すると思う。お願いです、何とかなりませんか?」

 私は必死にすがった。ここを逃したら、もうチャンスはない、希望の光を掴み損ねてしまう。

 神宮は頬をぽりぽりと掻いて、口をへの字にした。

「そうですか。青春ですな、私もそういう時期がありました。何を隠そう今の妻も、海外にいる他の男に行こうとしたところを私が略奪して今があるんですけどね、あ、これ内緒ですよ? 警官が花嫁泥棒なんて笑えませんから」

 そういって、はっはっはっはっと大声をあげた。

 笑っている。もしかしたら……そんな小さな希望の流れを感じていた。運がいい、ひょっとしたら何とかなるかもしれない。

「四ツ目さん、ご存知かもしれませんが『社会的勾留』はあくまでAIによって成り立っています。最終判断は人の目で決めていいということになっています。機械ごときが何ですか。私はあなたの目を見てわかりました、こんな人が犯罪を犯すはずがない」

「それじゃ」

「何とかしましょう、私も人の子ですから。信じる気持ちを失って機械に頼ってては平和な社会を築けませんからね」

 ふうと、安堵の息が漏れた。助かった、危ないところだった。

「ただ、一つだけ確認したいことがあります」

 そう言って、神宮はその大きな体をにゅっと私に近づけた。

 駅構内では、今も多数の人間が行き来して、その全ての顔認証が今もあくせくと行われていた。


 私はJR新幹線はくたか578号、東京行きに乗っていた。座席は通路側で、窓側は空いている。警察に足止めを食ったのは予想外だったが、それ以外は計画通りだった。大宮駅に停車したが、乗り込む乗客は少ない。自分の隣が指定席と思われる男が現れた。私は通路側だったため、少し足をよけた。男はサングラスに、ウール素材でできた茶色のキャップを目深にかぶっていた。

 やがてドアが閉まり、新幹線はゆっくりと滑り出す。それを待っていたかのように私は独り言を吐いた。

「本当に……明日香は無事なんだろうな」

 男はただひたすら窓の外を見ていた。

「私の言った通りだったでしょう」

「質問に答えろ、明日香は無事なんだな?」

 私の手に力が入った。明日香の身に何かあったら今すぐこいつを殺してやる。

「随分殺気だってますねえ。私のお陰で助かったくせに」

「お陰だと? 貴様……約束は守れよ。これを渡したら明日香は解放するんだよな、もし明日香の身に何かあったら——」

 私は男の胸ぐらをつかんで大きく揺すった。サングラスが振動で落ちて、キャップは頭からこぼれた。すると男の顔がにゅっと現れた。ひょろながの卵顔に目が垂れている。色は薄く、里芋のようだった。その口元がにやりと笑う。それから私の手を離し、サングラスをゆっくり拾うと、キャップを再び目深にかぶりなおした。

「大丈夫ですよ、娘さんは安全なところで保護しています。手荒なことはしたくないんでね、私も。それでは例のものを渡してもらいましょうか」

 私はかばんから新聞紙に包まれた瓶を取り出した。それをゆっくりと男に渡す。男は当たりをキョロキョロし、周りの座席に客がほとんどいないことを確認してから出ていないよだれをすすった。

「本物でしょーね、嘘はいやですよ」

 そう言いながら、男はカバンから小さなスプーンとスポイトを取り出した。私の渡した瓶の中の粉を取り出し、それに試薬を垂らす。成分を確認しているのだ。

 中身は合成麻薬のNT-8964。末端価格でサラリーマンが一年かかっても稼げない金額になる。

 男からの電話は突然だった。娘は預かっている、返して欲しければ……と今までの手順を突きつけてきた。有機化学の研究に精通し、あらゆる化合物の合成方法を知る私をゆすったのだ。犯罪には変わりないが、娘の命には変えられない。

「さすが、四ツ目講師。明日香ちゃんは良い父親を持った」

 くそ、全てが済んだらこいつの顔を数回分なぐってやらなきゃ気が済まない。私は胸ポケットについていたペンを強引に返した。

「おやおや、これ、役に立ったでしょう」

 胸につけていたのはペン型の小型カメラ。私の胸元から見える光景は全てこの男の元へ送られていた。そこで警官に社会的勾留を持ち出された時、男が私に電話をかけてきたのだ。そこで男はこう言った。

『ちょっとお待ちください、あなたはうん、とか待ってくれ、たのむ、などと言って時間を稼いでください。えー、たった今顔認証が完了しました。警官の名前は神宮龍次郎、ちょっと待ってくださいね、今AIにこの警官の経歴を調べさせて、この状況の攻略法を計算させてますから。……わかりました、出ましたよ。この神宮という男は妻を空港で略奪していますね、大した男だ。AIの導き出した作戦はこうです。あなたは今から羽田に行く、そこで付き合っていた彼女が海外に発ってしまう、それを止めに行きたいと言ってください。そうすれば、彼は同情して許してくれますよ』

 男の言う通り嘘をついて、私は今ここにいるのだった。顔認証とAIはこんな男にも悪魔の凶器を与えたのかと思うと身震いがする。


——次は、上野、上野です——


「それでは四ツ目さん。娘さんによろしく」

「ちょっとまて、明日香はどこにいる?」

 男は立ち上がって、私の膝にぶつかりながら強引に抜けた。

「申し訳ないですが、何のことやら」

「何だと? お前、約束が違うじゃないか」

 男は、ひっひっひっと肩を震わせた。

「あなたは本当に素晴らしい人だ。もう少し我々の力になってもらいますよ、また別の部署から電話がきますから、もう一仕事、お願いしますね」

 おい、と叫んだ声は男にはもう届いていなかった。男は足早に上野駅に口を開く扉へと向かい始めていた。私がとっさに立ち上がった時、男の前から車内販売のカートがやってきた。男がそれをするりと避けようとしたがスペースが無い。間髪入れずに反対側からもカートがやってきた。男が目を丸くするや否や、まるでハサミうちのように男は挟まれた。

「何だよあんたたち」

 するとカートを持っていた店員が慣れた手つきで、男を押さえ込み、そのまま身柄を確保した。

 ゆっくりと、遅れて神宮が私の横に立った。

「四ツ目さん、間に合いました。明日香ちゃんは無事です」

「神宮さん、なかなか現れないので冷や冷やしましたよ」

 男は後ろの手にちょうど手錠をかけられるところだった。

「おい、どういうことだ?」

 神宮が手をうしろに繋がれた男の顔の前に顔を近づけた。

「どういうって、説明する必要があるか? その顔を見れば全て情報はあがるんですよ、顔認証でね。なあ鍋島、鍋島隆二、32歳、前科3犯執行猶予中。まだ聞きたいですか?」

「顔認証? どこで……顔認証カメラは完全に避けてきたはずなのに?」

 私も神宮の横に立った。

「カメラはここだ」

 そう言って私の胸に刺さっているのペンを見せた。

「この小型カメラでお前の顔はしっかり認証させてもらったんだよ」

「この野郎……娘の命は無いと思え!」

 神宮は鍋島の肩をぽんぽんと叩いた。

「はいはい、お客さんが入ってくるからとりあえず早くそいつを連れてって」

 はいっ、と威勢の良い声とともに私服警官数人が男を連行していった。

 そのまま新幹線のドアが閉まると、再びゆっくりとはくたか578号は滑り出した。

「神宮さん、明日香は……無事なんですよね?」

「ええ、確認が取れました。奴の顔認証に思いのほか時間を取りましてね、心配させて申し訳ありませんでした」

 私は座席にへなへなと座り込んだ。よかった、これでやっと全部終わったんだ、と。


 あの時、長野駅構内で神宮は私に確認したいことがあると言った。

 何だろうと思っていると、突然私の中に声が聞こえてきた。背中側の死角に隠れていた別の警官が、骨伝導を利用し私にだけ聞こえるような装置を使って声を届けていたのだ。

『四ツ目さん、ご安心ください。あなたが脅迫を受けてNT-8964を届けようとしていること、こちらはすでにつかんでいます。私の声に決して頷いたり返事をしないでください。わかったら右手で鼻をこすってください』

 私は鼻をこすった。

 今も神宮は私の目の前で、関係のない桜や富士山にまつわる昔話を独り言のように続けている。犯人に気づかれないようにするためだ。私はつばをゴクリと飲み込んだ。

『犯人を逮捕するには現場を押さえる必要があります。それと明日香ちゃんの身柄の安全確認もです。そのためには犯人の顔認証が必要になります。今から私がのペンを渡しますから、それを胸ポケットに入れてください。そして何も知らないフリをして犯人の顔を映し出してください。そうすればその人物の足取り、行動から明日香ちゃんの居どころを掴むことができます』

 私は鼻をこすった。

『いいですか? しっかり顔を映してください、全てはそこにかかっています。それと私たちが行動を起こすまではじっと待っていてください、下手をして我々の行動に気付かれた場合、相手は自暴自棄になって明日香ちゃんに危害を加える可能性もあります。大丈夫です、私たちを信じてください、必ず明日香ちゃんを無事に助けてみせますから』

 それだけ言うと、私の左手に銀色のペンを握らせ、背後の人影はいなくなった。私は言われた通りそのペンを胸に挿し、今に至る。


 それにしてもAIによる顔認証には脱帽せざるをえない。今後軽犯罪はぐっと減ることになるだろう、しかしそれと同時に犯罪自体もより高度になっていくのかもしれない。

 しかし今はそんなことはどうでもいい。早く明日香に会いたい、ただそれだけを願って、夜の東京の光を窓越しに眺めた。

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