16.「淑女になりたいわけじゃ、ないのですけど」
「――柳さん、もうちょっと前の方に行こうか。あいつギターボーカルだから、真ん中の方に行けば見えるよね?」
葵くんがニコッと笑ってそんな提案をするものだから、私は慌てて返事をしました。
「……あっ、ハイ! ……紅さんは待たなくていいでしょうか?」
「……トイレから戻ってきたときに声を掛ければいいんじゃないかな、このままライブが始まっちゃうと、前に行くの難しくなりそうだしさ」
「……た、確かにそうですね」
そう言って、私たち二人はぎゅうぎゅうの人込みの中をねじりこむように、ズリズリと前に進みました。満員電車というものを知らない私は、至近距離で人に囲まれた経験がありません。知らない人の肌が衣服を介して私に触れて――、ジワジワと、不安な気持ちがちょっとだけ、胸の奥から広がります。
「……柳さん、大丈夫? やっぱり後ろに戻ろうか?」
何かを察した葵くんが、そんな言葉を掛けてくれて――
「――い、いえ! 平気です! お気に、なさらず……」
慌てた私は強がるように、そんな言葉を返しました。
――ガヤガヤガヤガヤ、ザワザワザワザワ……
人込みのど真ん中に移動すると、喧騒の喧しさと騒々しさに拍車がかかったようでした。混線する人々の声に古い洋楽ロックのBGMが混ざり合って、私のすぐ目の前に、知らない人の背中があって――、『視覚』と『聴覚』にノイズがかかった私は、恐怖をごまかす様に思わず地面に目を伏せました
「……すごい人だね、雷のバンドって、人気なのかな?」
私のすぐ隣にいる葵くんが、耳元で囁きます。……おそらく、怖がっている私の気を紛らわせるため――、ああ、友人に気を遣わせてしまうなんて、私はなんてダメな女なのでしょうか。淑女失格です。……あ、いえ、淑女になりたいわけじゃ、ないのですけど。
「……そう、ですね。私たちと同じ、高校生が大半みたいですけど、なんだか、怖い見た目の人も多いですね」
「さっき、舌にピアス刺している人を見かけたよ」
「……えっ、舌に? 痛くないのでしょうか……?」
「刺すときは、痛いんじゃないかな。なんか、ソフトクリームとか食べづらそうだよね」
「そ、ソフトクリーム? ……ふふっ、葵くんは、面白いことを言うんですね……」
「……え、僕、面白いことを言ったつもりじゃ……」
思わず私が口元を綻ばせると、葵くんもはにかむように笑いました。
……ふと、昨日の廊下のワンシーン。
コトラくんと葵くんのやりとりが頭によぎります。
――僕が好きなのはね、うちのクラスの、柳さんだよ――
葵くんの笑顔を見ていた私は、
心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような痛みを覚えて――
……葵くん、お願いだから。
そんな顔、しないでください――
――ガヤガヤガヤガヤ、ザワザワザワザワ……
喧騒は、相変わらず喧しくて、騒がしくて。
――ドンッ……、と、誰かの身体が、私の肩にぶつかりました。
「……あっ――」
弱々しい声を漏らしたのは『私』で――、スローモーション映像みたいに私の視界が揺れました。ヨロリと倒れそうになって、慌てて足を踏ん張って――
――パシャリと、手に持っていたオレンジジュースがこぼれました。白のYシャツが淡い橙色に染まりました。胸の上のあたりが、ヒンヤリと冷たい……。
「……や、柳さん。大丈夫?」
――珍しく慌てた声をあげたのは『葵くん』で――、私は両手を頭の位置くらいまで掲げながら、彼に向かって力なく笑いました。
「……あ、全然、平気ですよ、コレくらい――」
「……何言ってるのさ、制服がびちょびちょじゃない、ちょっと待って――」
――言うなり、彼はごそごそと肩から掛けていたスクールバッグをまさぐり、何かを取り出したかと思うと、「ハイ、これ」と、タオル地のハンカチを私の目の前に差し出しました。
「……え、わ、悪いですよ。本当に、平気ですから……」
「……いいからいいから、早く拭かないと、シミになっちゃうよ」
葵くんが、半ば強引にタオル地のハンカチを私の手に握らせます。彼の掌と私の掌が触れ合って、……私は、ちょっとだけドキッとしました。
「……あ、ありがとう、ございま――」
ポツンと、お礼を言おうと声をこぼした私の眼前――
ニコッと笑った葵くんが、ふと、私ではない誰かの背中に向かって目を向けて――
――トンッ、トンッ……、と、私たちの前にいる、制服を着た見知らぬ生徒の肩を叩いたんです。見知らぬ生徒は、まごうことなく、『先ほど私にぶつかってきた殿方』で――
「……あっ?」
――赤い長髪がなびいたかと思うと、彼は細い目つきで葵くんのことを睨みました。
「……なんだよ、テメー、誰――」
「謝りなよ」
――えっ……?
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