第3話

 一週間後、久々に登校した菜月に最初に声を掛けたのは、意外な人物だった。

「おはよう、気分はどう」

 教室までの渡り廊下で、無機質な声に顔を上げると、唯が手を後ろに組んで立っていた。目つきは冷たく、とても心配から言葉を発したとは思えない。

「大丈夫。もう治ったから」

 不機嫌な調子でそう返す。――また何か嫌味を聞かされるのだろうか。

 こちらに会話の意思がないことを示すように、足早に横を通り過ぎようとする。すると、すれ違いざまに唯が呟いた。

「可哀想にね」

 菜月は足を止める。振り返って「何が」と疑わし気にめつける。

「ぶり返すよ、それ。今も身体が怠くて辛いでしょう」無言のままの菜月を一瞥する。「きっと皆、返ってくるのが怖くてそのままにしてあるだろうから。早く誰かにうつさないと、ずっとあなたのところに溜まっていくよ」

 そう言うと、唯は口元に薄笑いを浮かべながら去っていった。


 明らかに唯は鏡のことを知っていた。自分たちのしていた噂話が誰かに聞かれていたのだろうか。いや、たとえ聞かれていなくとも、十年前に流行ったという鏡の呪いを知っていれば、凜と交代するように休んだ菜月の様子から、鏡の呪いを当てはめることは出来そうな気もする。それでも、「ぶり返す」とは何の確信をもって言い切れるのか。――疑問は尽きなかったが、その答えを知る時間は残されていなかった。

 唯の言葉通り、菜月の体調が悪化したのだ。熱だけは薬の効果で治まっている日も多かったが、身体が錆びきった機械のように動かず、ほとんど寝たきり同然だった。

 ――誰かに、うつさないと。

 寝ても醒めても、脳内に渦巻くのは卑しい自分の囁きだった。しかし一体誰にうつせばいいのか。見ず知らずの他人を呪うことは難しい。菜月は団地の人間に疎かった。だから名前も顔も思い浮かばない人間に、憎しみなどあるはずもない。それに、相手の家へ確実に鏡を向ける必要があるのだ。

 ――そんなの、一人しかいないじゃない。

 幾度考えても同じ結論に達する自分が悔しかった。しかし身体は限界を告げていた。

 

 ある日、菜月は薬の効いた一瞬を狙って、心春の家へ行った。

「菜月ちゃん……動いて大丈夫なの」

 玄関に入るやいなや、本心から気遣いの言葉を掛ける心春に、菜月は胸が痛んだ。「少しだけ話したい」と部屋にあげてもらい、可愛らしい花形の円座に座った。

「学校はどう?」

 訊くと、心春は僅かに目を伏せた。

「……みんな元気にしてるよ。二人ともすっかり体調が良くなったみたい」

「でも、楽しくはない?」

「……あまり話さなくなったかも。穂乃果ちゃんは独りでいることが多いし、凜ちゃんは話しかけてくれるけど、菜月ちゃんのことなると口をつぐんじゃうの」

 そう、と返すことしか出来なかった。

「私、どうしても穂乃果ちゃんが言った鏡の話が忘れられないの。いくら四人でいるからって、私たちの間でだけ風邪が感染うつるかな。こんな綺麗に一人ずつ順番に体調を崩すかな。治ったそばから、会話が無くなるような険悪な雰囲気になるかな……」

 正座のまま膝の上で両こぶしを握る心春を、菜月は直視できなかった。立ち上がり、窓際へ歩む。霞のような雲を抜けて、春の柔らかい陽光が降り注いでいた。

「呪いなんてないよ」菜月は外を見ながら、穏やかな声音で言う。「心春は優しいから、色んなことを考えすぎて心配してしまうだけ。ほら、私の体調も出歩けるくらいには良くなってきたし」

 だから心配しないで、と振り返る。心春は目に涙をためながら、口角を精一杯上げてこっくり頷いた。

 菜月は再び窓を向いて、ごめんね、と口だけを動かした。


 憑き物が落ちたように、菜月の体調は回復した。一日だけ様子を見て、学校に復帰した。

 廊下で穂乃果に出会った。無言のまま抱きしめられた。何度も何度も耳元謝られ、菜月が止めなければ土下座をしそうな勢いだった。本心からの謝罪かどうかは分からない。しかし穂乃果が、予想以上に強い呪いの効果に恐怖心を抱いていることは確かだった。

「……心春が休みだって」

 悟ったように呟く穂乃果は、目を閉じて何度も首を横に振っていた。

「分かってたけど、でも……心春は何も悪くない……」

 ――そう、心春に非はない。始めたあんたに責任があるの。

 あらゆる感情に蓋をして、菜月は穂乃果の背中を押しながら教室へと向かった。

 その日は三人が集まることはなかった。穂乃果も朝会話したきり、菜月に話しかけなかった。体調は万全でも、罪悪感に圧し潰されていた。

 

 帰り、校舎を出ると正門に唯が立っていた。菜月の姿を認めると、小さく手招きする。

「ねえ、一緒に帰らない」

 誰とも満足に会話できなかった一日の終わりに、その言葉は甘美に聞こえた。菜月は「いいよ」と返し、二人は並んで歩いた。

「上手くやったじゃない」微笑しながら唯が言う。「一週間以上かかったから、相当悩んでたみたいだけれど。結局悩んでも結論が変わらないのが、あなたらしいよね」

 棘のある言葉に腹が立ったが、菜月は沈黙したままでいた。

「別に蔑んでるわけじゃない。ただ四人の中で一番上手く立ち回ってるなと思っただけ」唯は左指を四本上げる。「穂乃果は自分が中心でありたいと思うタイプね。良くも悪くも他人を使うことに慣れている。凜は常に冷めていて、付き合いも必要なだけと割り切ってる。凜のような思い通りにならない人間は、穂乃果にとって厄介でしょうね。けれど周囲をイエスマンで固める虚しさを知っているから、穂乃果は凜を手放さない」

 指を一本ずつ折りながら滔々とうとうと分析する唯に、菜月は呆気に取られていた。

「心春は素直な子ね。真面目で、優しくて、他人のことを常に考えて謙遜している。だからこそ欺かれても怒れないし、ストレスの捌け口として上手く使われてしまう――そしてそんな自分を仕方ないと宥めてしまう」

 最後に小指が残った。人気のない住宅街に溜まった生温い空気に、息苦しさを覚える。

「そしてあなた。普段は穂乃果や凜と対等のように接しているけれど、一たび彼女らに何か言われると、委縮して従ってしまう。そうかと思えば、心春と一緒に肩を寄せ合って、怯えた被害者の振りをすることもある。そして状況が変わると、必要なくなった心春は切り捨てる。ちょうど昨日、あなたが彼女に鏡を向けたように――」

「違う!」菜月は叫んだ。「私は心春を切り捨ててなんかいない!」

 目の前で肩を震わせている同級生を、唯は無関心な目で眺めている。

「確かにあんたの言う通り、私たちは歪な関係かもしれない。一緒にはいても、仲が良いかどうかは分からない。……憎いと思うかと言われても、否定は出来ない」

 心の内では悪態をつき合っているに違いない。

「でもね、嫌なことがあっても、殴りたくなるほど悔しくても、呪い殺したいとまでは思ってない! 穂乃果も凜も、ずっと寂しそうにしてる。私だって、どれだけ後悔してるか……」

「後悔じゃ誰も救えないわ」

「そう。だから私は心春に全て話すつもり。謝って済む問題じゃないことは百も承知よ。それでも一緒に考えることは出来る」

 咄嗟に出た言葉だったが、これが自分の本心だ、という気がした。心春を犠牲にすれば、菜月は助かる。しかし一生罪悪感で苦しむことになるのだ。

「正義感が強いのね」

 強くて悪い、と言い放つと、唯は呆れたように溜息をついた。

「眩しい青春ね。きっと十年後、二十年後に再会したとき、あなたたちは学生時代のいざこざなんか忘れて、とても清々しい気持ちで語り合うのね」

「羨ましい?」

 刹那、唯の蟀谷こめかみがぴくりと動いた。

「……無邪気な幼少期も、苦悩の学生時代も、長く儚い大人時代を経て辿り着く、穏やかな老後も――何もかも見え透いていて面白くない。そうは思わない?」

 鋭い眼光を向けられ、菜月は呼吸を忘れてしまうほど硬直した。

「数千年後まで名声を轟かせても、宇宙のすべてを知ろうとも、またひっそりと愛に満ちた人生をまっとうしたとしても、何も残らないの。……でも何故でしょうね。私たちは身に降りかかった危険を必死に避けて、生きようとする。それこそ命を懸けて」

 唯の声は萎んでいく。いつしか眼の光は消えていた。

「あなたでは呪いを解くことは出来ない。あなたは自分を犠牲に出来ない、ごくまっとうな人間だから。かといって誰かが犠牲になれば、四人は破滅する」

「そんなことさせない」

 菜月は挑戦的な目を唯に向けると、勢いよく駆けだした。

 深紅の夕陽を浴びた背を見ながら、唯はふっと笑みを溢す。

「……やっぱり正義感の強い子ね。少しつつけば燃え上がる」

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