第5話 夢見心地

 磯の臭いが鼻をつく。身を焦がさんばかりに太陽が照りつけており、人々の喧騒に混じって、潮騒しおさいの音が聞こえる。


 凪義が身を起こすと、そこは砂浜であった。目の前には、穏やかに波を寄せる海が広がっている。海にも砂浜にも、そこかしこに海水浴客の姿を認めることができる。


「兄ちゃん、こっちこっち!」


 声が聞こえる。その声は弟、祐樹ゆうきのものであった。浮き輪をした弟と妹が、海からこちらに手を振っているのが見える。

 ふと、何か嫌な予感が胸をざわめかせた。この後何が起こるのか、自分は知っている気がする。気がするだけで、自分はそれを思い出せないでいる。


「今行くから、遠くまで行くなよ」


 二人に聞こえるように、凪義は声を張り上げた。そして浅瀬を歩き、弟と妹の方へと近づいていく。

 二人の顔がはっきりと見える。見慣れた弟と妹の顔なのに、なぜか、不意に凪義の目からは涙がこぼれた。


「お兄ちゃん、何で泣いてるの?」


 妹、天音あまねに指摘されて、凪義は指で涙を拭った。弟と妹の前で涙を見せるなんて、全くかっこ悪い兄貴ではないか……凪義は心の内で密かに自嘲した。

 

 凪義は三人で日が傾くまで海で遊んだ。元々色白であった彼の肌は日焼けで赤くなり、シャワーを浴びるとひりひりと痛んだ。結局のところ、当初の予感とは裏腹に、悪いことは何も起こらなかった。


 炭戸一家が宿泊しているのは、母方の祖父が経営する旅館であった。海水浴場からほど近いこの旅館は、古いながらもこの季節は繁盛する。

 旅館で出された夕食は、海の幸を中心とした豪華なものであった。


「兄ちゃんこれ食べてよ」

「しょうがないなぁ……他の野菜はちゃんと食べなきゃだぞ?」


 隣の弟が、青菜の煮浸しが盛られた小皿を凪義に押しつけた。凪義は渋々それを受け取り、青菜を箸で摘まんで口へ運んだ。凪義自身にとってもあまり好きな食べ物ではないのだが、口に入れた青菜の煮浸しは、何故だか美味しく感じられた。


 この時、凪義は何か、言いようもない違和感を覚えた。けれどもその正体を明らかにする術はなかったし、そうしようとも思わなかった。


 ――せっかくの家族旅行なのだから、楽しまなきゃいけない。


 胸の内の違和感を封殺した凪義は、何かから逃げるように目の前の料理を平らげた。


 その後、凪義の胸につかえた違和感は、温泉で体を洗っている時に再び襲来した。


「あれ……?」


 洗髪しようとして髪を掴んだ凪義。しかし、自分の後ろ髪が、思っていたより短かった。

 

 ――やはり、何かがおかしい。


 ここまで来ると、もう見て見ぬふりをして違和感をやり過ごすことなどできなかった。とはいうものの、違和感の正体を探る術がない。

 凪義は石鹸を泡立てた手で自らの体を撫でた。日焼けで赤くなった肌が、ひりひりと刺すように痛む。自分の体は、前より細かった。腕も脚も、まるで女のように細い。過酷な修行によってつけたはずの筋肉は、見る影もなく萎えしぼんでいる。


 ――過酷な修行、とは何だ。


 そんなものとは縁がない。元々、自分はそこまで筋肉質な男ではなかったはずだ。白くて細っこい、女のような容貌こそ、元々の自分の姿ではないか。

 元々持っていた自分の記憶に、何か別の記憶が絡まって混線している。どうにかなりそうだった。ぎりぎりと歯を食いしばって、大声を上げて走り出しそうになるのを何とか抑え込んだ。

 

 その夜、皆が寝静まった後のこと。凪義は共用のトイレで用を足した後、廊下を歩いて部屋に戻っていた。この旅館の客室にはトイレの個室がないため、各階にある共用のトイレを使うしかない。

 曲がり角を曲がった凪義。その視線の先で自分の部屋の前に立っていたものを見て、彼は言葉を失った。


 目の前には、自分自身が立っていた。少しばかり背が高く、少女のような中性的な顔立ちは大人の女性のような麗しさを帯びつつあるが、それは紛れもない、もう一人の自分であった。

 もう一人の凪義は、黒い詰襟の軍服の上に、緑と黒の市松模様の羽織を羽織っている。そして、両手で大きなチェーンソーを構えていた。

 蛍光灯に照らされた彼の顔は、幾つもの試練を乗り越えたかのように険しい。二人は暫く見つめ合った後、もう一人の凪義の方が口を開いた。


「これは偽りの夢だ。早く目を覚ませ」


 切れ長の目に、刺すような視線を向けられる。彼の目つきは、強いものであった。強いと同時に、悲しい目でもあった。もう一人の自分を見て、凪義の頭で混線していた記憶は、ようやく整理整頓された。


 ――そうだ。家族はもう全員死んでいて、自分は鮫人間シャーク・ヒューマンなのだ。


 どうして忘れていたのか……答えは簡単だ。ここは夢の世界で、現実ではない。何者かが見せている甘い幻覚に、自分は縋り付いてしまった。ただそれだけの、単純な答えなのだ。


「こんなもの、全てまやかしだ」


 もう一人の凪義は、吐き捨てるようにそう言いながら、客室へと入った。凪義はつられるようにもう一人の自分の後に続いた。


 凪義の家族が眠る部屋に踏み込んだもう一人の凪義は、チェーンソーの刃を唸らせた。遅れて客室に戻った凪義は、もう一人の自分が何をしようとしているのかすぐに察した。


「や、やめてくれ! 殺さないでくれ! 僕の家族なんだ!」


 叫び声は、届かなかった。もう一人の凪義は、チェーンソーで父の首をはねてしまったのである。


「やめろって言ってるだろ!」


 凪義はもう一人の自分の背中に飛びかかった。が、強烈な回し蹴りを食らい、壁際まで吹き飛ばされてしまった。ものすごい力だ。とても自分自身であるとは思えない、凄まじい身体能力である。


 もう一人の凪義は、父に続いて母、弟、そして妹と、次々に首をはねていった。全員の首をはね終える頃には、彼の足元に血だまりができていた。


 足元に転がる、家族の生首。それらは全て、


 チェーンソーの刃が、凪義に向けられる。目の前のもう一人の凪義が自分自身であることを思えば、その意図は自然と理解できた。


 ――夢から醒めなければならない。サメを殺すために。


 もう一人の凪義が、チェーンソーの刃を振り下ろす。その時、彼の目からは、涙が一筋、頬を伝ってこぼれ落ちていた。

 チェーンソーに切られても、痛みはなかった。凪義の意識は、くるくると回って暗闇へと落ちていった。



 



 




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