記憶

春嵐

01 ENDmarker.

 冷たい。

 それが、目の覚めるきっかけだった。


 ゆっくりと、起き上がる。

 冷たいのは。この、アスファルト。水たまり。


 雨が降っている。

 傘を差さなくても歩ける程度。水たまりができているから、きっと、さんざん降ったあと。


 水たまりに写る、自分の顔。

 見覚えがなかった。

 着ている服も。

 なんか、自分のものではないような感覚がする。


 服。濡れていなかった。雨。水たまり。


 自分の記憶が、なかった。


 何も。

 思い出せない。


 頭の横のほうが、少しだけじわじわする。どこかにぶつけたのかもしれない。


 立ち上がって。

 ゆっくりと、歩き出す。


 どこへ行けばいいのかは、分からなかった。


 上を見る。

 ビル街。かなり高い。

 地上にいるのに、空に落ちていきそうな錯覚を覚える。こんなにビルが高いのに。自分は、地面に倒れていた。


「蟻みたいだ」


 這いつくばって。雨に降られていた。


 横断歩道。交差点。車。信号待ち。

 なんとなく、後ろのポケットを探ってみる。

 財布が入っていた。


 運転免許証。

 郊外のショッピングモールのポイントカード。

 クレジットカード。

 10回行くと1000円引きになる床屋のスタンプカード。


 運転免許証には、知らない男の顔が写っていた。無表情。


「誰だこいつ」


 近くの電光掲示板。


 この国が他の国からサイバー攻撃で盗んだ多額の電子決済が、さらに何者かに盗まれたというニュース。

 いい気味だった。国がなんでもしていいわけではない。盗んだ犯人の行方を、国は血眼になって追っているらしい。


 犯人の顔。電光掲示板に、大映しになる。


「あ」


 見たことがある。

 この顔は。

 さっき財布から出した、運転免許証の男の顔。


***


 倒れたところに、走って戻る。

 やっぱり。


 自分以外に、もうひとり。倒れていた。見知らぬ顔。彼ではない。

 上を見上げる。ビル。

 このどこかから、落ちてきて。

 自分にぶつかったのか。


 服を脱いだ。


 男物の服だったので、胸がつかえてなかなか脱ぐのに苦労した。下着ぐらい、つけてくればよかった。


 着ていた服を。


 死んでいる見知らぬ誰かに着せて。


 自分は、その死んでいる人間の服を着た。


 彼のではない、匂い。

 いやだったけど、がまんした。

 雨に濡れている。


 急いで、その場を去った。


 記憶。


 思い出している。


 電光掲示板の、あの犯人は。

 わたしの恋人。


 彼は、この国のサイバー攻撃の不正を明るみに出すために、動いた。そして、追われている。


 そう。


 別れを切り出されて。


 それで、わたしは。

 彼の服を奪って、外に出た。


 彼以外の誰かを、彼に擬装して死なせるために。


 目の前に飛び降り自殺の人間が降ってきたのは、幸運だった。ぶつかって、記憶を失いかけたけど。なんとか思い出せた。


 走った。


 遠くから、救急車とパトカーのサイレンが聞こえる。


***


 部屋に入った。

 彼。

 服を着ずに、ベッドでぼうっとしてる。


 すぐに、服を脱いだ。見知らぬ誰かの匂いを落とすために、シャワーを浴びる。


 浴室から出ても。彼は、同じところにいて、ぼうっとしていた。


「よお。気は済んだか?」


「なにが?」


「不思議なやつだよ。おまえは。別れる前に俺の服を着て街に出るなんて」


「いいじゃない。あなたの匂いが好きなの」


「そして、帰ってきたら別な男の服を着てる。まあ、別れるんだから当然か」


「別れないわ」


「冗談言うなよ。終わった恋にすがるんじゃない」


「なんで、わたしを、捨てるの」


「飽きたからだよ。おまえに」


「うそね」


「そういうところに俺は飽きたんだ。強引で、後先を考えない」


「ええ。あなたは先々さきざきのことを考えすぎる」


「だから、別れるのさ。価値観の違いってやつだ」


「じゃあ、あなた殺すわ」


「勘弁してくれ」


「あの服。道端で死んでた人の服よ。あなたのと、着せかえてきた。たぶん飛び降り自殺」


「おい」


「これで、たぶん、あなたは飛び降り自殺したことになるわ。落としどころとしては十分でしょ」


「待て待て。おまえ。俺の服を着て外に出たのは」


「誰か殺すつもりだったんだけど。死体のほうから降ってきてくれたわ。ぶつかって記憶しばらく飛んでたけど」


「どこへ行く」


「外」


「雨降ってるぞ」


「降ってるわね」


 また。


 雨がわたしの記憶を、洗い流してくれるだろう。


「別れないで。あなたと一緒にいるわ。わたしは」


 それだけを言い残して、部屋をまた出る。


「おい。待て」


「なにか?」


「服着ないで外に出るのか。俺のを着ていけ」


 服が投げて寄越される。

 着た。

 彼の、匂い。


「ありがとう」


 心地よく、死ねそうだった。


***


 結局、彼は優しいから、服を貸してくれたけど。


 外に出てすぐ、脱いだ。

 この服で外を歩くことはできない。すでに死人になっている人間の服だから。調べられるとまずい。


 彼の代わりに、見知らぬ誰かが死んだ。そして、わたしは、それを偽装した。

 誰なのかは、知らない。ビルの高いところから、目の前に落ちてきた。それだけ。


 わたしとその見知らぬ誰かがぶつかって、倒れた。とっさに、彼の服をその落ちてきた人間に着せかえて。見知らぬ人間の服を着て。それで、その場からなんとかして離れて。そして、倒れた。


 目覚めたときは、記憶がなくて。

 街をさまよい歩いた。


 今は、もう。

 記憶が戻っているから。

 彼のために、死なないといけない。


 彼が生きられるように。

 まっすぐ、前を向けるように。

 わたしは。

 死なないと。


 寒かったので、彼の服を、やっぱり着た。

 暖かい。

 彼の匂いがする。


「愛するひとのために死ぬ」


 何の感慨も、幸福感もなかった。

 ただ、当然のように。その事実だけがある。

 愛するひとのためになら、簡単に死ねるんだと、なんとなく思うだけ。


「愛するひとのために」


 死ぬ。


 ビル。

 屋上。


 ありがとう。

 あなたのおかげで、そこそこ楽しい人生だったわ。生きてね。


 飛び降りる瞬間。


 彼の姿が、見えたような気がした。








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