第8話

その晩、轟島とどろきじま灯台はその開設いらい百数十余年ではじめて、火を灯さずに夜を明かした。異常はすぐさま沖合を行く船舶から急報され、たまたま現地に詰めていた海保職員との連絡も取れないことから、緊張の続く尖閣諸島より帰投中の大型高速巡視船が廻され、翌日の昼過ぎには積載された救難用ヘリコプターが島で唯一のヘリポートに降り立ち、救援隊が島南部の灯台へと向かった。


灯台の状態は、ひどいものだった。


門扉は開け放たれ、官舎も灯塔の入り口も施錠されておらず、投光器はめちゃめちゃに壊されて、上には何かの糞尿のようなものが撒き散らされていた。水銀槽はひっくり返され、 玻璃板はりばんは割られ、電気系統も切断され、通信機器も全滅していた。また非常用の無停電発電装置もどういう訳か全く作動せず、灯台は完全に沈黙したままだった。


それどころか、27名ほどいたはずの島民が、そっくりそのまま、全員どこかに姿を消してしまっていた。


当初は、緊張関係の続く隣国の偽装特殊部隊が上陸しての破壊工作ならびに無法な虐殺行為が疑われたが、同国は必死になって関与を否定し、国内問題をすり替えて巧みに外交の場へと展開する日本政府内の一部反動勢力の奸策を、口をきわめて非難した。




たしかに、島内になんらかの武装勢力が上陸したような形跡は全く無かった。また少なくとも住民虐殺の疑惑についてだけは、同国にとって極めて迷惑な言いがかりであったと言うべきである。その日のうちに日本政府は、住民たち全員の頭数とほぼ符合する焼却された遺体が、同島の最高所にある斎場の焼却炉のなかから見つかったことを公表した。


不思議なことに、3つ並んだロストル式焼却炉のうち右側の二つに合計20数体ぶんもの遺体が詰め込まれていた。それらはいずれも最大火力で焼かれていたものの、完全には焼却しきれず、各所に焼け残った脳組織や眼球や内臓などが付着し、現場には鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうたる死の臭いが立ち込めていた。しかし、左側のひとつだけは、中に一体のみが収められて常温で焼かれ、こちらは綺麗に焼き上がって中からは真っ白い遺骨と灰だけが出てきた。


島内で特に重大な疫病などが蔓延していた形跡はなく、なぜ住民たちが全員、このような状態になってしまったのか、わかる者は誰もいなかった。


また、その頭数には謎も残った。


発見された遺体 (焼却済の人骨)は、推定で26名ぶんほど。これ以外に、島外から運ばれて来ていた遺体が数体あったものの、それらには棺ごと一切手がつけられていなかった。つまり、島内の誰かが他の島民の遺体をまとめて炉に詰め込み、一人で焼却し、そしてそのまま海のかなたに逐電ちくでんしてしまったことになる。焼かれた島民が、その前に死亡していたのかあるいは生存していたのかもわからない。もし後者なら、これは由々しき大量殺人事件ということになってしまう。




また、悲劇の前日より上陸し、灯台の保守点検に当たっていた海保の三等海上保安士補の行方も、杳として知れなかった。口さがない者の中には、彼がこの怪事件の鍵を握る人物だと邪推する向きもあったが、彼が生きているのか死んでいるのかもわからない (もしかしたら、焼却人骨のうちの一体かもしれない)以上、そうと気軽に決めつけることはできない。


大型巡視船に続き2時間後、桟橋に船を付けた小型巡視艇「さかなみ」の乗組員たちは、彼らの運んできたその保安士補の様子に、特に変わったところは無かったと口々に証言した。同人は少し大人しく、一人ぼっちを好むような傾向はあるが、特に変わったところも極端なところもなく、至極まじめな辺地の番人であった、と。また島に上陸する際にも、いつものようにふざけ合い、軽口を叩きあって、全く常と変わらぬ様子であった。彼がこのような大それたことを、意図して実行するはずはない。だからきっと彼は、何か良からぬ事件に巻き込まれただけだ、仲間たちはみなそのように証言した。




その後数ヶ月にわたって、この呪われた島の怪事件は世間の大きな注目を浴び、全国から報道のヘリやチャーター船が殺到する事態になったが、隣国との係争地に近く、またそれ自体が国防要地でもあるこの島への安易な上陸や取材を、日本政府は断固として赦さなかった。島内にはしばらく、事件の捜査や事後処理に当たる小規模な一隊が残留し続けたものの、やがて彼らもその任務を終えて島を去っていった。


轟島の斎場は当然のごとくに閉鎖され、近在水路を照らす灯火として長年親しまれてきた灯台も、近隣に点在する別の光波標識群の稼働により航海の安全が確保できることがわかって以降、修復されることもなく、遂にそのまま遺棄されることになった。




轟島はまったく無人の島となり、かつてあった人々の営みの痕は、少し湿り気を帯びた汐風に吹かれて徐々に朽ちていった。そして今では、ただ打ち寄せる浪の音が、かつてギトと呼ばれた誰もいない層状節理の岸壁にむなしく響くだけとなってしまっている。


別に誰が見ているわけでもなかったが、そのとき、ギトの断崖直下、かつて春川憩が老婆の指し示す指の先になにかを見たあたりの水面で、青くぼうっと輝く光の輪がふたつ浮き上がり、波に揺られてかたちを変えつつ、なおも妖しく輝き続けた。


人間の言葉でいえば、それは夜光虫という直径1ミリメートルほどの渦鞭毛虫うずべんもうちゅうの集合体である。意識のない原生生物に過ぎぬそれらは、ただの物理的な反射作用で発光する。すなわち潮汐の具合や、海をわたる風など、さまざまな外的条件によりただ受動的に光を放つに過ぎない。


だが、もし誰かが崖の上から見ていたら、それらふたつの夜光虫の集合体は、仲良く睦み合いながら波間を漂い、いつかなにかがやって来るのを、楽しみに待っているかのようにも、見えたであろう。

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