第14話 夏の途中と思い出の場所②



 今週もまた、翌日、翌々日と、時間は流れていく。


 それから、俺は自分の家と図書室を往復するだけの生活を送ることになる。


 特別なことなど何もない、そんな時間が続いていく。


 図書館に行ったら紗季さき先輩がいて、軽い会話を交わしたり、お互い勉学に励んだりと、そんな日常が続いていく。


 もしかしたら、このまま先輩はこの町から消えることなんてなく、ずっと俺の傍にいてくれるんじゃないのかと、そう思うことが何度もあった。


 実際、俺が経験した過去とは違う経験を、俺自身がしているということは、先輩もそうだという証左になる。


 だとしたら、もう俺が過去に来た役割は既に達成されているのではないだろうか?


 創作物のSFでは、こういう目的が遂行された時点で、元の世界へと戻ってしまうというのが定説ではあるのだが、残念ながらこれはフィクションの世界ではない。


 だから、俺はもう二度と本来の時間軸には戻れずに、またこの世界で自分の人生をやりなおすことになるかもしれない。



 でも、それでもいいと思う。


 あの、俺にとっては何もない世界に戻るよりは、こっちの……黒崎紗季のいる世界のほうが、俺にとっては正しい世界なのだから。



 そんな結論を自分で導き出している間に、それなりの日にちが経過してしまった。


 現在の日付は、7月31日。


 夏も本格化していき、8月を迎える前に日本列島は連日のように猛暑日を記録していた。


 そして、俺はいつものようにクーラーの効いた図書室で、先輩の隣に座り本を読んでいた。


 殆ど毎日課題をこなしてしまったせいで、夏休みの課題はあっという間に終わってしまった。昔は課題を片づけるのに苦労した記憶があったのだが、集中して取り組めばこんなに早く終わってしまうのかと、喜びよりも虚無感のほうが強く印象に残った。


 紗季先輩も、三年生で殆ど受験勉強があるため指定の課題はないようだが、毎日午前中は何かの参考書を開いて勉学に励んでいる。


 ただ、昼食を摂ったあとの午後からは、読書の時間にあてているようだった。


 今、先輩が読んでいるのは、坂口さかぐち安吾あんごの『白痴はくち』という小説だった。


 坂口安吾といえば、太宰だざいおさむと同じ時代に活躍した小説家で、他にも推理小説や随筆なども執筆している。


 中でも『堕落論』や『白痴』といった作品は、発表された当時は大きな話題を呼び「時代の寵児ちょうじ」とまで呼ばれていた人物だ。


 そして、紗季先輩は最後のページを捲ると、名残惜しそうに本を閉じて、自分の机の前に置いたのちに、紗季先輩は俺に問いかける。


「……慎太郎しんたろうくんは、この作品を読んだことはあるかい?」


「……すみません。正直、あまり詳しくは……」


 素直に『読んだことがない』と言わなかったのは、図書委員としての見栄というよりは、紗季先輩の前であまり情けない所を見せたくないという気持ちのほうが強いのだが、先輩は俺が坂口安吾について明るくないことを咎めることはなかった。


「まあ、簡単なあらすじになるんだけど、戦時下で映画の演出家見習いをしていた男と、隣家の女性との関係を描いた作品でね」


 紗季先輩は、憂いを帯びた表情で俺にそう語ってくれた。


 先輩は、本の話をするときだけは年相応の少女に戻って話すのが特徴だ。まるで、昨日見たテレビを友達と話すような雰囲気になって、普段の人をあまり寄せ付けない雰囲気が少しだけ和らぐ。


 俺は、このときに先輩が浮かべる表情が好きで、図書委員になることを選んで良かったと、何度思ったことだろう。


 だが、今の先輩はその表情の中に哀愁ある雰囲気を纏っていて、いつもと少し違っていたことに、俺もなんとなく気付いていた。


「戦時下という舞台設定もあって、人間が抱く『愛』について考えさせられる作品だよ。もしよかったら、時間があるときに目を通すことをお勧めするよ。それに、私も慎太郎くんがどう感じたのか、少し興味があるからね」


 紗季先輩は、俺の目をじっと見ながらそう告げた。


 いつもなら、俺は「わかりました」と言って、なんならそのまま図書室で本を探して借りていくくらいのことはするのだが、何故か今回だけは、そんな風には思えなかった。



 違和感があったのだ。


 表情や雰囲気だけではない、何か、根本的な違い……先輩がいつものように本を薦めてくれているだけじゃないような気がしたのだ。



 しかし、その答えが分からないまま、先輩が視線を逸らしてしまったので、この話はそのまま終わりとなってしまった。


 そして、先輩が図書室の時計を確認したので、俺も自然とそちらに視線を送ると、時刻はもう六時の少し手前の時間になっていて、図書室を閉める予定の時間になっていた。


「……それじゃあ、そろそろ帰ろうか、慎太郎くん」


 俺は、そう告げた先輩の指示に従って、帰りの支度を始める。


 だが、この時すでに、先輩の雰囲気が明らかに違うかったことに、この時の俺はまだ、全く気が付いていなかった。


 そして、図書委員としての仕事を果たした俺と紗季先輩は、二人並んで帰路につく。


 今日の俺はちゃんと自転車で通っていたけれど、先輩に合わせて自転車を降りて一緒に歩いて学校の門をくぐった。これも、もうすっかり俺の中ではお馴染みになってしまったルーティンワークだ。


 ここから長い下り坂なので、俺は腕に力を込めて自転車が離れないようにしっかりと掴む。結構大変だけど、先輩を置いて先に帰るという選択肢なんて俺にはない。


 別に、だからといって特別な会話をするわけではないし、お互い特に話題もなくて話さないことだって何度もあったけれど、俺はそれが嫌だとか、気まずいと感じたことはない。


 むしろ、その時間が心地いいとさえ思っている。


 きっと、この感覚は静かな図書室で二人で過ごすあの時間と似ているからだろう。


 ただ、いつもと違って、今日は坂を下ろうとしたところで、太鼓の音がかすかに聴こえたのだ。


 その音を聞いた瞬間、俺は嫌な記憶と共に胸のあたりに痛みを感じた。


 あの日、俺が帰省して自分の部屋で過ごしていた時も、この音が聴こえてきた。


 それが、俺には何故か、どうしようもなく嫌だった。


「……そうか、もうすぐ神社のお祭りだったね」


 紗季先輩は、俺に話しかけるというよりは、独り言のように呟いた。


「でも、確か祭りは来週だった気がするんだが……」


「……多分、子供たちの練習ですよ。あの太鼓、近所の子供が何人か集まってやってますから」


 昔ながらの風習なのか、祭りの太鼓は小学生の子供たちが自由参加で手伝うことになっている。今年もそうやって集められた子供たちが、今も一生懸命太鼓を奏でているのだろう。


「それじゃあ、慎太郎くんも小さい頃は参加していたのかい?」


「いえ、俺はやったことないです。こんな性格ですし」


 母からそれとなく参加を促されていたけれど「友達と遊びたい」という今では考えられないような言い訳を見繕って参加を拒んでいた。まあ、実際そのときは実際に遊びにいく友達もいたので、嘘は言っていない。


 確か、みどりはちゃんと、小学生の間は毎年太鼓役として参加していたはずだ。無理やり俺まで手伝わせようとしたのを、必死で逃げていた記憶がある。


 ただ、今の会話で、少し気になることがあった。


「先輩は、ここらへんの子供が太鼓役で集められること、知らなかったんですか?」


 てっきり、ここらへんに住んでいる人間なら知っていると思ったのだが、学区が違うとそういう話もなかったのだろうか?


 そう思っての質問だったが、先輩は顔色を変えずに、さらりと答えた。


「うん、私がこの町に来たのは中学の頃でね。だから、あまり詳しくはないんだ」


 知らなかった。


 てっきり、俺と同じように学校までは徒歩で通っているので、中学はもちろん小学校もこのあたりの小学校に通っていたものだと思っていた。


 そういう話さえ、以前は先輩と話していなかったのだと痛感させられる。


「だから、祭りも存在は知っていたのだけど参加したことはないんだ」


 そう告げた横顔を見て、俺の中に浮かび上がる、一つの記憶。



 夏祭りの日。

 私はずっと、きみを待っています。



 栞に書かれていた、誰かからのメッセージ。


 もし、それを書いたのが先輩だったとしたら……。


「あの、先輩……」



 ――俺と一緒に、祭りに行きたいと思ってくれているのだろうか?



「慎太郎くん」


 だけど、そんな俺の疑問を、紗季先輩に確認することができなかった。


 規則的に動いていた先輩の足が止まり、俺をじっと見つめる。


 まだ日が落ちるまで時間はあったが、空の青い色が、少しずつ赤い色を帯び始めていた。


「ちょっとお願いがあるのだけど、いいかい?」


 そして、紗季先輩は俺が返事をする前に、こう告げた。


「きみの自転車に乗せてくれないだろうか?」


 …………はい?


「いや、一度自転車というものに乗ってみたかったんだけど、私は自転車には乗れなくてね。だから、一度経験してみたかったんだ」


 ふふっ、といたずらな笑みを浮かべる紗季先輩。


「どうしたんだい、慎太郎くん? もしかして、私が自転車に乗れないことに対して何か苦言があるのかい?」


「いや、そういう訳じゃないですけど……」


 咄嗟にイメージしてみたけれど、確かに紗季先輩が自転車を漕いでいるというのはあまり想像ができなかった。


 ただ、先輩が自転車に乗ろうとしてコケる姿というもの、なんとも想像しずらい。


 俺がそんな妄想に耽っていると、先輩はその間にも距離を詰めてきて、自転車の後ろにある荷物を載せるために設置されたであろう金具に触れる。


「まあ、完全に校則違反にはなってしまうけれど、見つかったら私が責任を取るから慎太郎くんは心配しないでくれたまえ」


 紗季先輩は、まるで高価な品物を手に取るように、優しく俺の自転車に触れる。


 別に、二人乗りくらいなら以前にも翠と経験しているので(しかも、大抵行きの通学に利用させるため、必然的に上り坂を走ることになるので地獄だった)紗季先輩が乗りたいというのなら、俺に異論はない。


「そうか、ありがとう慎太郎くん。きみは本当に悪い子だね」


「そこは従順な後輩なんですから逆の言葉が欲しかったんですけど……って、ああ、そうか。今から校則違反に協力するわけですから、悪い子でいいのか」


 おそらく、校則違反どころか道路交通法違反にも当てはまるはずだ。


「まあ、そういうことさ」


 しかし、紗季先輩はどこか嬉しそうに微笑んでいた。


 そして、俺が自転車に跨ると、先輩もそれに合わせて後ろの荷物置きに腰掛ける。


 身体を少し斜めにして少しバランスを崩しそうにしながらも、しっかり俺の腰に腕を回してきた。


 一瞬、その行為にドキッとしてしまったが、安全のためには必要な行為には違いなく、俺は全く気にしない振りをすることにした。


「じゃあ、行きますよ」


 そして、ペダルを踏みこもうとしたところで気付く。


「……どこに行けばいいんでしたっけ?」


 紗季先輩は、俺に行き先を指定していないことに今更気付いた。


 普通に考えたら、先輩の家まで送ればいいのかもしれないが、あまりあの家にはいい思い出がないので、近づきたくないというのが本音なのだが……。


「慎太郎くんが行きたい場所でいいよ」


 そして、紗季先輩はぎゅっと、俺を抱き寄せるようにして身体を預けてきた。


 俺の行きたい場所……か。


「わかりました」


 俺は、ペダルに力を込めて走り出す。


 下り坂を一気に駆け抜ける勢いにも、後ろの先輩は戸惑う様子もなく、声を上げたりすることもなかった。


 だけど、俺の背中には、確かに紗季先輩の存在を感じさせる温もりがずっと伝わってきたのだった。


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