第9話 陰影①

 二人の捜査より十日ほどした夕暮れに、伸介が浩一の喫茶を訪ねた。

 見遣るなり、その瞼の舌に薄っすらと浮かぶくまを認めた浩一は、


(何か、あったな……)


と読んだのであるが、それにしては伸介の様子が酷く落ち着いている。

 若さ故に際限なく……ということも考えられぬではないが、それにしても重なる疲労が重すぎる。

 いつものようにコーヒーを出すと、溜息を一つ吐いてからそれを口にした。


「どうした、随分疲れてるみたいだが」

「いや、そんなことないですよ。今日も元気に仕事してきただけですって」


 落とした肩に喝を入れるようにして笑顔を作った伸介を見て、浩一は大声で笑った。


「大将、何がそんなにおかしいんですか」

「いやなに、若いから盛んなことはいいことだが、孕ませるような真似だけはするなよ」


 浩一の浴びせかけるような一言に、伸介の顔は真っ赤に染まる。

 それはとても二十も半ばを過ぎた男の姿には見えず、それこそまだ汚れを知らぬ少年のようなものであった。


「大将、俺、言いましたっけ」

「言わなくても分かるに決まってるだろう。まあ、それにしても疲れが浮き出しすぎだがな」


 あの翌週末、伸介は美夏の家に招かれ、そのままどちらともなしに肌を重ねたのであるが、伸介が予想もしていなかったことに美夏はまだ男を知らなかった。

 夢にまで見たひと時に、


(俺はもう死ぬかもしれん……)


とまで思った伸介であったが、それから続けて三日通いその度に彼女が求めてきたために応じることとなった。

 「事」が済む度に伸介は精も根も尽き果ててしまう思いがするのだが、ここまで求められては無理を押してでも立ち向かおうとする。

 心地よさもさることながら、何と言ってもその声がよい。

 その声を聴いていると、伸介は男として何か満たされるものを感じ、強い幸福を覚えるのであった。


 流石にその全てをこの場で話すには忍びなく、伸介は首を竦めて珈琲を口にしながら掻い摘んで語るに止めた。


「まあ俺も若い頃は獣のようだったからなぁ」


 そう言って笑う浩一を、伸介は直視することができないでいる。


「でも大将、本当にいいんですかね。俺、こんなこと初めてで」

「なあに、そんなに不安ならその彼女とやらをここに連れてくればいい。何かねえか、俺が見定めてやろう」


 顔を上げた伸介を見て、浩一はまた笑ってみせた。


「ところで、例の件はどんな具合だ」

「大将に言われた通り健軍神社も行ってみましたけど、何も変なところはなかったんですよ」

「そうか。となると、後は藤崎宮を当たってみるしかないか」

「大将の方は何か掴めてないんですか」

「ああ。技力が漂ってたから買ってみた酒も、かかってたのは回復と通潤橋の景色を思い出させるだけの回顧技令だったからな。全く、どこの酔狂な奴の仕業か知らんが、飲んで心地よくさせてくれるためだけにあんな細工をするなんてなあ。それもいつか確かめに行きてえな」


 そう言って頭を掻いた浩一は、ふと一匹の使い魔が中に入ってきたのを認めた。

 ナナホシの姿をしたそれは、伸介の前を横切ると浩一の前に止まり、そのままそこで羽を閉じた。


「この虫、どこから入ってきたんですかね」

「ばか。こりゃ使い魔だ」

「えっ、でも技令の気配がしませんよ」

「見事なもんだ。使い魔でここまで力を抑え込めるなんてなかなかできねぇ。いやぁ、じっちゃんの腕は確かなもんだなぁ」


 浩一の言葉に使い魔は一度羽を広げ、再び閉じた。


「見つかって褒められても嬉しくはないなぁ。まあ、気付かせるために少しだけ出してたんだがな」


 使い魔を通して昭一の声が店内に響く。

 それに合わせるようにして浩一もまた店の周りに結界を張り、他の客が入らぬようにする。


「それで、芳江さんの家と藤崎宮はどんな様子だった?」

「芳江さんの住んでたとこは変わりありませんよ。ほんとに何もない寂しい部屋になっちまっただけで。で、藤崎宮の方は月曜の昼間に続けて来た奴がいるんだが、どうもこれが技令士のようなんだ」


 昭一の言葉に、浩一も伸介も息を呑む。

 遠くから響く救急車の音が微かに聞こえるだけであった。


「じっちゃん、そいつをつけられねぇか」

「やってみよう。この前は僕としたことが見失っちまったが、今度は逃がさねぇ」

「じっちゃん、頼むな。俺も出張ってからそいつの様子を探って何か残してねぇか見てみるからよろしくな」


 浩一の言葉に羽音を二度鳴らした使い魔は、そのままその場から姿を消す。

 僅かばかりも技力を残さぬその有様に、伸介はただただ呆然と口を開くばかりであった。


「おい、そんなに呆けてりゃ、じっちゃんが口に入っちまうぞ」

「す、すいません」

「まあ、いい。それよりお前も明日にはその女を連れて来いよ。もしかしたら、もしかするかもしれん」

「えっ、それはどういう」


 慌てる伸介に対して、目を細めた浩一は静かにカップをひとつ手に取るとそれを慣れた手つきで磨き始めた。

 その視線の先には長く伸びた窓際の影が色濃く刻み込まれていた。

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