第7話 若者①

 一方、伸介はその日の早くから落ち着きを失くしていた。

 初めてのデートということで興奮と不安の板挟みに合い、朝の五時には目を覚ましてしまってからはテレビを点けようと動画を見ようと落ち着かぬ。

 シャワーを浴びようとしたときには、間違えてトニックシャンプーを陰部に塗ってしまい、その貫くが如き刺激に浴室でのた打ち回った。

 九時に家を出る際には、何とか平生を装ったのであるが、

(今日限りの付き合いとなるかもしれん)

という恐れがその手を震わせていた。


 世継橋より三号線に入り、北上する。

 白川に沿うようにして続くこの道は、時に浄行寺交差点を抜けるまで酷い渋滞を引き起こすが、この日は幸いなことに殆ど詰まることなく進むことができた。

 そこで伸介は、藤崎宮を過ぎたところでセブンに入り、コーヒーを買い求める。

 駐車場に立ち口をつけると、ストローを通して喉に入る冷たさが伸介の心を落ち着けようとする。

 一つ、溜息を吐いたところで藤崎宮の大鳥居に目を向けた。

(思えば、一週間で変わるものだなぁ)

 偶々仕事を怠けていたところで、人助けをし、その相手と付き合うこととなった。

 それも、とても手が出せぬと思っていた相手である。

 暑い中で動いたせいか中々に疲れたものの、それだけに得られたものは大きかった。

 残ったコーヒーを飲み干して容器を店内に捨てると、シルバーのデミオが横に止まる。

 赤と銀の兄弟かと少し笑ってから、伸介は再び車を走らせた。




 北熊本駅を過ぎてから右車線に入り、県道五七号線へと進む。

 そして、小道に入ったところで伸介は車を止めた。

 居酒屋や雀荘のに並んである木製の看板が少し浮いたその店は、桑染のカーテンに深く閉ざされている。

 この雑貨屋が彼女の生業であり、この上にその住まいがある。

 然程に繁盛している様子もない店であるのだが、身寄りもないという彼女が生活に困らぬほどには稼げるようである。

 臨時休業という書かれた小さな黒板が中から架けられ、それを認めて頬が少年のように赤らむ。

 そこへ、降りてきた女の姿を見た伸介は思わず生唾を飲んだ。


「ごめん、待たせちゃった?」


 首を横に振った伸介は、今来たばかりだと言おうとしてうまく声にできず、やや歯噛みする。

 笑う彼女に苦笑して、開けた助手席へと彼女を誘った。


「こんな風にドライブデートなんて初めてだからちょっと緊張しちゃう」

「そうなのか、てっきり慣れたもんだと思ってた」

「よく言われるけど、お付き合いするのも中学生ぶりだからドキドキしてるの」

「そっか。俺なんかじゃ無理だけど、美夏なら声かけられそうなもんだけどな」


 ハンドルを握る両手に筋が走る。


「でも、お付き合いするって、違うじゃない。伸介くんみたいな人はいなかったかな」


 一つ咳払いをしてアクセルを踏むと、削るような音とともに動き出す。


「サ、サイドブレーキ、忘れてた」


 弾けるように笑われた伸介は、一度髪を掻いてからサイドブレーキを静かに下ろした。




 半時間もせぬうちに車は電車通りに突き当たり、右折してから鶴屋の前を過ぎる。

 そこから市役所の前を過ぎ、清正公の像に見守られ坂を上り詰めて二の丸公園へと至る。

 二〇一六年の熊本地震により大きな被害を受けた熊本城は、なおも復旧工事が進められており、その完了は二〇三八年と見込まれている。

 未だに崩れた石垣などを見ることができる一方で、堂々たる天守閣の威容もまた、この頃はクレーンを従えてはいるものの認めることができた。

 この巨大クレーンもまた九月の末には役目を終えたのであるが、この頃はまだ夏らしい日差しを浴びながら黙々と働き詰めていた。

 それと同じ陽光が真紅の車を降りた二人を照らし、瞬く間に汗を浮き立たせる。

 特に、黒いナイロンのマスクに覆われた口元は、堪らぬものである。


「まだ朝なのに洒落にならん暑さだな」

「そうね。この前よりましだけど」


 そう言って、美夏は黒いトートバッグより紅茶を取り出すと、マスクを下げて口にする。

 束の間覗かせた赤い唇に息を呑んだ伸介はコーヒーを口にして渇きを潤す。

 そして美夏の手を取ると、濃緑の柵で仕切られた道へと誘った。

 天守こそ見えるものの、その両脇は積み上げられた石と白い塊によって固められ、震災前の伸びやかな有様を目にすることは難しい。

 その細い通路を抜けると、やがて視界が開け、その先に深緑の先に武骨な白い鳥居が姿を見せる。


「あら、加藤神社じゃない。私が御朱印を集めてるから?」

「あ、ああ。考えたんだけど、ここなら車でも来やすかったから」

「でも私、ここの御朱印持ってるけど」


 美夏の一言に伸介が肩を落とす。

 その手を握る力を強め、また笑った。


「でも、そんなの関係ないじゃない」

「えっ?」

「だって、これってデートなんでしょ。なら、何度行ってもいいじゃない」


 伸介の頬が赤く染まる。

 それを見た美夏はさらに笑った。


 加藤神社は清正公を主祭神としており、三が日ともなると大いに賑わいを見せる。


初詣 今日を限りの 乙女かな


 その壮観は居並ぶ巫女と勇壮な社殿によって成されるものであるが、夏の終わりではごく静かなものである。

 一礼し、柄杓の取り払われた手水舎で手を清めると、二人はその本殿と相対した。

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