第7話 闇からの生還

「なんと言うことだ。辛かっただろう……」

「はい……。そしてそれからがもっと……。私たち家族は、私は……苦しみに翻弄されました」


 淡々と語られる言葉には、けれどだからこそ大きな悲しみがうかがい知れた。黒豹が案ずるかのようにロディーヌを見上げた。彼女は大きく息を吸い、また静かに語り始めた。





 まるでどこか遠くで起こった誰か知らない人の物語のように、セオドアたちはしばらくの間、自分たちの上に起こった出来事を受けとめることができなかった。なにもかもが嘘で、明日には息子たちの笑顔が見られると思ってしまうのだ。しかしカラスになった息子たちが帰って来ることはなかった。息子たちの明るい声が聞こえなくなった領主館、それがこれは現実なのだと無情にも告げていた。


「キャメオン! リーディル! アドラン!」


 声を限りに叫んでも答えはない。悲しみが少しずつ輪郭を現し、やがて大きな枷となって家族の上に、領民たちの上に覆い被さった。あの日その場に居合わせなかった者たちも、まるで悪夢のような話を伝え聞いて唖然とするばかり。誰もが予期せぬ不幸に打ちひしがれ力を失った。

 夫妻は泣き暮らしたいと思ったけれど、立場がそれを許さない。天空草の花の摘み取りは今が最盛期で、加工もこれからが山場だ。動き出さないわけにはいかない。セオドアは領主として気丈に振る舞い続けた。その姿は見る者の涙を誘わずにはいられない。誰もが忙しさとがむしゃらに向き合い、絡みつく想いと戦い続けた。


 しかし、一人残されたロディーヌには両親のような強さはまだ備わってはいなかった。十歳の少女にそれはあまりに過酷すぎた。あの日以来、心はばらばらに打ち砕かれたまま。部屋に閉じこもりがちになり、たまに姿を見かければ、その憔悴ぶりに誰もが驚かされた。薔薇色の頬は色を失い、青い瞳は伏せられて光を感じさせない。長い髪は梳られた様子もなく、ロディーヌは生ける屍のようだった。

 彼女は必死で理解しようとしていた。兄たちは自分を助けて力尽きた。それが父の怒りを買い呪いとなった。なのに……すべては自分から始まっているというのに、自分一人が残された。なぜ、なぜ、なぜ……。父を恨む気にはなれなかった。父もまた犠牲者の一人なのだ。発した言葉が兄たちを変えたことは、この先もずっと父を苦しめるだろう。

 それもこれもすべて自分のせいだ。あの日自分が泉に落ちさえしなければこんなことにはならなかった。兄たちをあんな姿に変えてしまったのも、両親をこんな風に苦しめているのも、すべて自分のせいなのだ。罰を受けるベきは自分なのに……ロディーヌは悩み続けた。


 それなのに、誰一人ロディーヌを責めようとはしなかった。それどころか彼女を守り労わろうとする。けれどそんなみなの優しさが、逆にロディーヌを苦しめた。この娘の心を守ってやらねばと、周りが必死になればなるほど、ロディーヌの自己嫌悪は深まっていったのだ。

 元凶である自分が誰よりも優先されるなどあってはいけないことだ。自分が傷つけた人たちが、傷つけた自分をかばってくれる、そんな状況は到底受け入れられるはずもない。ロディーヌは罪の意識から自分自身を恥じて恥じて、このまま消えてしまいたいと思った。底の見えない暗闇に深く囚われてしまったのだ。

 季節がめぐり、大好きな青い花がまた世界を彩るようになっても、ロディーヌが苦しみから開放されることはなかった。暗く重く塗りつぶされた世界の中で、ロディーヌはあの日の夢を何度も繰り返し見る。泉に落ちた自分、力尽きた兄たち、汚れゆく青い花、燃え上がるエピステッラ、飛び去る大ガラス。


「待って! お兄さまたち! どうして……。お願い! 私、私……」


 恐ろしさと悲しさが押し寄せてきて涙とともに目覚める朝。重ねられていく悪夢は消えることなくロディーヌの心の中に巣食い、深い闇を生み出し続けた。彼女はその底で一人膝を抱えてうずくまる。爽やかな初夏の風も、眩い輝きも、その足元に届くことはなかった。

 けれど両親は根気よく待ち続けた。同じように傷つきながらも、それでも言い続けたのだ。ロディーヌ、あなたがいてくれてよかったと。自分たちは諦めたわけではない、目の前に投げ出された現実が、いくら経っても入り口さえ見つけられない迷宮のようであろうとも、決して希望は捨てないのだと。いつか必ず……。

 繰り返される両親の言葉は少しずつ彼女の心に沁み込んでいった。頑な心、けれどひび割れだらけの心。その隙間に沁み込んで、彼女に呼びかけ続けたのだ。


「ロディーヌ、あの子たちを信じましょう。きっと私たちを待っているわ」


 膨れ上がる闇の下で縮こまっていたロディーヌはふと顔を上げた。小さな明りのような声が自分を呼んでいる。優しくて温かくて大好きな声。


(あぁ、お兄さまたち……)


 朗らかな声がこだまする。ロディーヌ、ロディーヌ。それは果てしない暗闇の中に風穴が開いた瞬間だった。


「あぁ、私……」


 ロディーヌは大きく息を吐き出した。途端、世界が色を取り戻す。目の前の両親の青い瞳には揺るぎないものがあった。辛いのは自分だけではない。誰もが想像を絶する巨大な闇の前で、風前の灯のような希望を、それでも掲げ続けているのだ。

 ただ逃げているだけではダメなのだとロディーヌは気づかされた。やるべきことをやらなくてはいけないのだと。自分の罪は決してなくなったりはしないけれど、それでも自分のために涙を隠して笑ってくれる両親をもうこれ以上は悲しませてはいけない。

 ロディーヌは、両親のために微笑もうと覚悟を決めた。たとえ心の底では枯れぬ涙を流しても、複雑な想いを言葉にすることはできなくても、その微笑みで少しでも安心してもらおうと、今はただただ両親に尽くそうと心に誓った。

 しかしそれはまだ歪だった。心を失くしたままのロディーヌではどうしようもないのだ。けれど彼女にはそれが精一杯だった。空洞のような心を抱えたままの長い日々がこうして始まった。

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