手負い侍、匿いて候

五十鈴りく

壱❖始まりの三月

第1話

 日々の暮らしというものは、必ずしも同じ毎日が繰り返されるとは限らない。

 ある日、唐突に形を変えてしまうこともある。


 それは、浪人の向井むかい親信ちかのぶが、自身が師匠を勤める手習所てならいじょの後片づけを終え、浅草安倍川あべかわ町の裏長屋へ帰ってすぐのこと――。


「遅くなってすまん。加乃かの親太郎しんたろう、帰ったぞ」


 親信は二十六歳のやもめだ。一年前に妻の沙綾さやに先立たれ、二人の幼子を抱えて手習所の僅かな稼ぎで暮らしている。

 上の娘である加乃はまだ六つ。それでも年のわりにはしっかりとしていて、弟である親太郎の面倒をよくみてくれるのが救いだった。

 男やもめにうじが湧き――というから、長屋の人々も見かねて何かと手を貸してくれるのもありがたいところである。


 さて、そんな親信が子供たちの待つ裏長屋に帰ったのは夕刻で、いつもより少しばかり遅かったかもしれない。教え子に墨を零されて片づけに手間取り、知り合いと顔を合わせて話し込んだり、いつもよりも一時(約二時間)ほど遅くなってしまった。こんなことは滅多にないのだが、今日に限って帰りが遅れた。

 こんなに遅れてしまって夕餉のさいはどうしようかと、そんなことを考えながら年季が入ってささくれた戸を開ける。


 もともと日当たりは悪いが、日が落ちるとさらに暗くなる。

 その暗い長屋のひと間。幼子は二人、けば立った畳の上で困惑していた。


「ちーうえ、おかーりなしゃい」


 舌ったらずに、三つの親太郎が言う。てっぺんに結わえた柔らかな髪がふさりと揺れた。子供たちの表情は父の顔を見て幾分明るくなったが、それでもいつもと何かが違う。


「父上、おかえりなさいませ。あの――」


 丁寧に三つ指突いて迎え入れてくれた加乃も、顔を上げるなり不安げな様子を隠しもしなかった。心なし青ざめて見える。年頃になるのが楽しみだとされる器量よしの娘なのだが、表情は晴れない。


「うん? どうし――」


 そう言いかけて、親信はとっさに腰に差した刀の柄に手をやった。それというのも、一歩我が家に踏み込んだ刹那、血の臭いが鼻を衝いたせいである。

 ハッとして、子供たちが目を向けたかまどの前を見遣る。そこにはが横たわっていた。それが人で、男であることはひと目でわかった。ただ、男は体を折り曲げて動かない。


 何故なにゆえに、親信の家の中で倒れているのかは知らないが、子供たちにそれを訊ねる前に親信はその男に近づいた。気を抜かず、刀の柄から手も離さない。いつ起き上がって暴れるかもわからないのだ。


 といっても、男には動く余力がない様子だった。ここで昇天されても困るので、行き倒れるのならば外にしてほしかった。

 血の臭いがするということは、怪我をしているのだ。親信は仕方なく、うずくまる男に声をかけた。


「もうし、そこもとは怪我をしておるのか?」


 返事はない。

 死んで――いたらどうしようかとゾッとしつつ、親信は恐る恐る男の肩に触れた。

 まだあたたかい。そのまま手を滑らせ、首筋に触れる。

 どくり、どくり、と鼓動があった。ということは、生きている。


 男は気を失っていた。

 生きているのなら、放っておいてはいけない。盗人ぬすっと同士の仲間割れで刺されたなどということでなければいいのだが。


 男は士分のように見えた。

 袴を履き、帯刀している。それも、古着ではなくて立派な小紋の絹物だった。

 身分のある侍ならば供もいたはずだが、何故こんな裏長屋の中で倒れているのか。


 疑問は膨れ上がるばかりだが、それよりも手当てが先決である。

 親信は竈の前の土間から男を明るい戸口の前に動かす。どうやら傷は脇腹にある。そこから滲んだ血が土間を汚していた。


 男は、思ったよりも小柄であった。親信が長身であるから、それに比べればというところだが。

 それに、若い。まだ十七、八といったところだ。

 身なりからして旗本の子息だろうか。青ざめ、脂汗を浮かべているが、顔立ちは整っていた。


 こう若くては、それこそ命を散らすのは早すぎる。親信は若侍の脇腹の傷を改めた。

 予想通り、刀傷だ。なんらかのいざこざで斬られ、逃げ込んだ先がここだったということらしい。


 不幸中の幸いで、傷は浅かった。臓腑は傷ついておらず、命に関わるほどではない。そのことに安堵した。傷口を洗い、清めて寝かしてやればじきに目覚めるだろう。


「加乃、私は水を汲みに行ってくる。すぐ戻るが、何かあったら大声を出すのだぞ」

「はいっ」


 その返事を聞くと、親信は急いで井戸に水を汲みに行った。ただし、そこで長屋の女房たちにつかまると長引いてしまうのである。


「あら、チカさん。今日もいい男だねぇ。はりはり漬けがあるから後で持っていくよぅ」


 眉剃りお歯黒、長屋の女房その一、みち。亭主は左官の菊次きくじである。みちにとって、ぼてっ腹の菊次に比べれば誰でもいい男になれる。

 最初はもっと畏まった態度で接していたのだが、浪人風情にそう固くならなくていいと建前で言ってみたところ、本当にまるで固くなくなってしまった。


 妻の沙綾は長屋の人々の砕けたところが好きだと言っていたので、こうした間柄を喜んでいたとみえる。

 ただ、頭の固い親信は前のめりで来られると未だに戸惑うのだ。


「あ、ありがたい。しかし、部屋が少々散らかっておるので、後で加乃を向かわせよう。娘に渡してもらってもよろしいか」


 すると、みちはコロコロと笑った。


「散らかってるって、そりゃあ男親だけじゃあねぇ。どれ、あたしがついでに片づけてあげるよぅ」


 散らかっているのは倒れている男と垂れ流した血のせいで、そんなものの片づけはさすがに頼めない。親信は急いで水を汲み上げると桶に移し、下手な愛想笑いを貼りつけた。


「い、いや、おみち殿も忙しい身の上だ。そこまで世話にはなれぬのでな」


 それだけ言うと、返事を待たずに水を持って戻った。そうして、加乃へ口早に言う。


「加乃、おみち殿がさいの裾分けをくれるというので、後で取りに行ってくれ。今、持ってこられては腰を抜かしてしまう」

「はい。父上、そちらのお方は、その、助かりますか?」


 加乃は気丈に振る舞うが、本心では怯えている。自分の着物の裾を握って擦り寄ってくる親太郎がいるから、泣くこともできずに気を張り詰めているだけだ。そんな様子がなんともいじらしくて、親信の方が泣きたくなる。


「ああ、死ぬような怪我ではない」


 それを聞くと、加乃は幾分ほっとしたようだった。引き締めていた幼い顔がほんのりとゆるむ。


「それはようございました」


 しかし、怪我は怪我だ。刀傷というのは馬鹿にできない。化膿してしまっては、結局のところ命とりになる。思ったよりも傷が浅いとはいえ、油断してはならないのだ。


 親信は若侍のそばに桶を置くと、襟を広げた。身を横たえ、猫の子のように背を丸めているので、それも難しい。若侍の体を転がし、傷口の付近を湿らせた手ぬぐいで拭いた。その時、ぐっと小さく呻いたけれど、それだけで目覚める気配はない。


 血を拭き取った手ぬぐいを洗い、また血を拭き取り、若侍の体を清めてまた新たな手ぬぐいを傷に当てると、さらしを巻いて固定した。いつまでも土間に寝かせておいたのでは気の毒かと、畳の上に運ぼうとした。


 ただ、着物は血で汚れている。このままで寝かすのは躊躇われた。

 親信は屏風の裏に片づけてある夜具を畳の上に広げると、そこに若侍を寝かせたのだが、汚れた着物ははぎ取らせてもらった。真冬ではないのだから、下帯ひとつでも夜具の中ならいいだろう。


 血がついた着物を堂々と洗うのも憚られるので、もう少し暗くなって外にいる長屋の住人が引っ込んだ頃合いを見て洗ってこようか。若侍を寝かせ、脱がせた着物を丸めて持った時、若侍のものらしき緞子どんすの紙入れが中にあることに気づいた。


 それを取り出してみると、厚みを感じた。懐紙ばかりで膨らんでいるのではない、硬い手ごたえがある。しかし、深く考えるのはやめ、親信はその三つ折りの紙入れを若侍が眠る夜具の中に放り込んだ。


 刀も横に置いてやろうかと思ったが、こればかりはやめておいた。まだこの若侍のことを何ひとつ知らないのだ。急に暴れたり、子供を人質に取ったり、そんなことをしないとも断言できない。だから、刀は壁際に立てかけておく。


 加乃がみちのところに裾分けをもらいに行ったせいで、親太郎が心もとなげに親信の背中に寄りかかってきた。


「ちーうえ」


 いつもと違う。

 ほんの小さな違いでも子供には大変なことであるのに、こんな物騒な事態が起こり、恐ろしくないはずがないのだ。


「うむ。親太郎と加乃のことはこの父が守る。心配するでないぞ」


 小さく丸い頭を撫でると、親太郎はとろけるようにして笑った。この笑顔が亡き妻にそっくりで、親信も嬉しくて仕方ない。この笑顔はなんとしても守りたい。


 それならば、この若侍のことは放り出した方がいいのではないかと、頭のどこかで鐘を鳴らしているのも事実であった。

 いざこざに巻き込まれでもしたら。子供たちに害を及ぼしてしまったら。

 そんなふうに考えてしまったら、何もできなくなる。


 この見知らぬ若侍を助けなかったとして、それで、しばらくは罪悪感に苦しむのは間違いない。

 面倒事は御免ではあるけれど、だからといって見捨ててしまえば、手習所で何食わぬ顔をして子供たちに偉そうな顔ができる気もしないのだ。子供を正しく導くためには、己が正しくあらねばならない。少なくともそう思う。


 加乃がみちのところから戻った。しかし、持たせた鉢とはまた別の、もうひとつの鉢を持っていた。小さな手でふたつの鉢を器用に持っている。

 落としても怒れない。それくらい、加乃は必死の形相であった。

 親信は急いで加乃から鉢を受け取った。安堵した加乃は大きく息をつく。


「うちの鉢に入っているものが、おみちさんから頂いた五分漬ごぶづけはりはりで、もうひとつの鉢は、お多摩たまさんがくださいました。焼き豆腐の煮つけです」


 親信が男やもめであるため、この長屋の住人はあれこれと世話を焼いてくれる。ありがたいのだが、慣れない頃は物乞いにでもなったようだと、ちっぽけな自尊心が傷ついたりもした。


 けれど、二人の子を育て上げることが肝要であり、実入りの少ない己がそうしたことにこだわっている場合ではないのだと、今では厚意を素直に受け取ることにしている。

 代わりといっては何だが、力仕事などの労力として返す。世の中は持ちつ持たれつでいいのだと、長屋の大家は言ってくれるが、親信は持たれてばかりのような気がしないでもなかった。


「そうか。お多摩殿にも明日、鉢を返しがてら礼を言わねばな」


 多摩は家族で一年ほど前に越してきた若い娘だ。子供好きらしく、何かと助けてくれる。可愛らしい娘なので、きっと嫁いだ後はいい女房、いい母親になるだろう。


 親信は朝の米の残りを茶粥にしようかと思ったが、この手負いの若侍のおかげで時を浪費してしまった。今から竈に火を起こしていたのではいつ夕餉にありつけるのかわからない。幼い親太郎に待てというのは可哀想だ。


 よって、冷や飯に貰いものの菜、そこに朝餉の残りものを少し。それで夕餉を済ませた。はりはり漬けを皆で咀嚼する音が薄暗い部屋の中に響くけれど、それでも若侍が目覚めることはなかった。


 今起きられると飯がないので、起きてくれるなと親信が思ったせいかもしれない。

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