「アルメリア王国」/1855年 冬

29.「情動を備えた生き物」

「あの時、約束したこと覚えてます?」


 他愛もない話の繰り返しで気が抜け始めた頃、見計らったかのように声は放たれた。


 幼馴染の少女から唐突に問い掛けられ、青年は唖然とする。

 すぐさま態度を取り繕ったが、よりによって一番答え難い事を聞きやがってと思わずにはいられなかった。


 ──金色の鱗を持つ飛竜の背に乗り、夕暮れに焼かれた雲海の中から飛び出して、地上から遠く離れた空高くにふたりはいる。

 

 表面上は極めて冷静に、落ち着いた態度で彼は背後から幼馴染の頭を眺める。

 ……心臓が焦りで暴れ回っていたとしても、相手に伝わらなければ問題はない。

 他者の内心を察するなんて、彼女が一番苦手とすることだしバレるわけもない。


 さっきまで雲を指差しはしゃぎ、夕暮れの美しさに見惚れていた少女が、母親のような穏やかさで返答を待っている。

 

 青年は握っていた手綱を軽く引いて、気分任せに飛ぶ相棒へ旋回の指示を出した。

 高度が多少変われば見える景色も変化するもので、ご機嫌な歓声が聞こえてくる。

 彼女が夕暮れに輝く地平線に気を取られているうちに答えを用意せねばならない。


 綿毛のように柔らかく、星で色をつけたと言わんばかりの金髪が風に揺れている。

 背後からでは表情が良く分からないが、懐っこい微笑みを浮かべているのだろう、きっといつものように。

 こっちの気も知らないで、と彼は思った。

 ……勝手に知られないようにしている自分が全部悪いのだとも。

 

 幾らつむじを睨んだってご機嫌に揺れている少女には何一つ届かない。

 自由という言葉が服を着て歩いているような彼女の気紛れに、今日も振り回される。


 落ちた沈黙はそれほど長くは続かず──続けるわけにもいかず、平静を装った青年はこれが当然の流れとでも言うように口を開いた。


「悪い、なんだっけそれ」


 ──忘れた、とただ言えば良かった。

 言葉を発する直前までそう答えるつもりでいた、なのにその一言だけは、たとえ死んだって口に出来なかった。 


 想定よりも苦し紛れな返答を口にしてしまい、彼はそれ以上何も喋れなくなる。

 嘘を吐くのを躊躇って半端な答えを口にしてしまった、そんな内心を俯瞰する、自分自身が一番呆れていた。


 いっそ忘れてしまいたいことなのに、それが出来ないから困っている。

 一夜の夢みたいな思い出が、視界の端から滲んでくるのを止められない。

 ──あの日の光景を思い出すと、泣きそうになるからいやなのだ。


 青年の返答を聞き少女は、肩を震わせ可笑しそうに笑った。

 はっきりとした表情は見えなかったけれど、この世でいちばん面白いものを見つけたとでも言いたげな笑い声が空に響き渡る。


「そうですか、忘れましたか」


 そういうことにしておきます、と揶揄うように続いた言葉を青年は聞き流した。

 冗談でもこれ以上突かれたくない。

 突き放したようにも捉えられる態度だったが、特に不満げでもなく少しも傷付いていない様子で、少女は気ままに向かい風を指先で受け戯れ始める。


 ──何を考えているか分かり易いようで分かり難い、能天気で気分屋な幼馴染。

 彼女はそれだけの存在だ、と青年は何度も己に言い含めた、そうでなければ必ず後悔する日が来ると知っているから。


 五年前に出会ったときはお互い子どもで、だけど彼の方が三つだけ歳上だから何かと世話を焼いた。

 当時の彼女は本当に妹で、故郷の滅びと共に別れた実妹と妙に被るところが多かった。

 だから本来なら取るべき距離が取れず、いつの間にか誰より彼は彼女に近かったのだ。

 ……それがどれほど罪深いことか。


 彼女に出会ってしまったことで、狂わされたという自覚が青年にはある。

 生との向き合い方も、死の受け止め方も、何もかもが前振りもなく唐突だったあの日の出会いを起点に変わっていった。


 頼りなくて意志の弱い女の子、幸福にも不幸にも流される危なっかしい皆の妹。

 そんな立ち位置にいた少女がいつの間にか第一階級になって、彼女にしか出来ない役割を任され多くの人と騎士を救っている。


 その事実を誇らしく思うと同時に、湧き上がってくる複雑な感情。

 それを何と呼ぶべきなのかは知っている。

 ただ言語化するのが怖くて、考えないようにしているだけだ。


 これ以上、腕の中で笑う幼馴染へ抱いた情動が何なのか自覚したくないと怯える。

 そんな心を、彼は五年前から飼っていた。


 ──大きくなったら。


 幼い頃、踏み越えてしまった一線、残酷すぎる約束が蘇ってくる。

 あんな言葉はことにするべきだ、秘めて黙さなければ、大切な者を焼く呪いになってしまうから。


 心底から誰より幸せになれと願っている相手を、災厄に招くことなど出来ない。


 せめてあの夜だけは、美しい思い出の中で終わってほしい。

 たまに思い出して泣きたくなるくらいで丁度良いのだ、それが一番互いの為になると彼は信じていた。


 信頼されているのが分かる動作で、寄りかかってくる幼馴染を身体で支える。

 信じられないくらい軽い体、速く動いて高く飛ぶ、多くを救い美しさを愛し、枷をものともせず自由に生きる女の子。


 ──どれだけ酷い死に際だろうと俺は、この娘の脚だけは掴むまい。

 彼が考えていることなど知らない少女は、夕暮れの曖昧な空を楽しそうに眺めていた。




 ◇ ◇ ◇



 ──世界暦1855年、冬。


 ライオス王国が崩壊を迎えたことによる混乱は、人類圏全域に渡った。

 

 もう春も近い、暖かくなり始めた日差しとは反対に人々の関係は冷え込んでいく。

 人類の共喰いじみた戦いにすら、否応なく引き摺り込まれるのが騎士の運命だ。

 良くも悪くも事態は動き始めた、広がり始めた波紋に浮かぶ葉ができることなどない。


 アルメリア王国の中心部に建造された赤の砦、その最上にひとりの竜王騎士がいた。

 眼前を見据える彼の瞳は真紫、宝石の如き精霊眼の虹彩に、人類圏の北と東を隔てる山岳が映っている。


 聖王領域と竜王領域、正義と科学のライオス王国と、竜と信仰のアルメリア王国。

 二つの国を別つのは王結界だけではない。

 岩と草木が天高く積まれた竜霊山。

 ……名の通り、竜と精霊が棲まう魔境がそこには聳える。


 竜王騎士団が抱える唯一の第一階級。

 ──朝川忠明あさかわただあきは考えていた。

 山岳の向こうから迫る脅威から、自分は仕える王と民を守らなければならないのだと。

 脅威と己が捉えたものに思いを馳せる。


 ライオス王は、人類軍の一部隊を私兵とし山越えに挑んだ。

 アルメリアに侵攻する為の最短、竜霊山を真正面から突破する力技に出たのだ。


 部下からの報告でそれを知ったとき、忠明はライオス王が正気だと思えなかった。

 これは策ですらない、兵法としては完全な悪手だと言い切れるほどの無謀だった。


 竜王騎士ですら使役に生涯を捧げる竜種と、術式による制御が無ければ自然災害として現出する精霊。

 彼らは惑星を形作る意志そのもの、騎士や神とはまた別種の万能である。


 人智を超えた存在が群生する山を踏破する、なんて人間が束になっても不可能だ。

 ……箱庭はそういうルールで出来ている、人は弱者でなくてはならず、万能や異能を打倒する術を持つことはないと。

 仮に万能に打ち勝つ人がいたならそれは、この惑星における人類とは認められない。


 だから竜霊山を超えてライオスの私兵がアルメリアに辿り着くなんて事はあり得ない。

 国王の乱心によって自滅させられた兵の死体が麓に転がっておしまいだ、本来ならば。


 物事はそう単純には運ばず、想像出来る限り最悪の現実が目の前にはある。


 ──ライオス王が発動させた王権レガリア「絶対王令権」により聖王騎士団が支配された、という事実は竜王騎士団を震撼させるに足るものだった。


 騎士団は人類圏を守る為に団結する組織だ、仕える国が違っても、加護を戴く騎士王が違っても人類守護の命題は変わらない。

 時に戦地を共にし、同じ敵に立ち向かう。


 聖王騎士団と竜王騎士団は幾度となく共同戦線を戦い抜いてきた。

 しかし、かつて肩を並べた戦友たちは王の傀儡と成り果て、もはや殺戮兵器としての機能しか持たないという。


 多くの竜王騎士が怒り嘆き、これから起こる全てに悲観し、どうか悪い夢であれと願った、それは忠明も例外ではない。


 しかし感情に身を任せていられるほどの猶予はなく、今や脅威は目前に迫っていた。

 ……これは聖王騎士団を用いた竜王領域に対する侵攻である、竜霊山の頂に彼らが立った時、同胞との殺し合いが始まるだろう。


 ──力強い山岳の頂を見据え、血で塗れるだろう右手を忠明は握り締める。

 悲しみがあった、苦しみが、怒りがあった、それを全て飲み下して。


 自分は友を、家族を殺すのだと覚悟した。


 人類圏の完全な崩壊を止めることを最優先とし、情動と体を切り離し、殺すと決めたものを殺す。

 血溜まりの上に安寧を築き、その為ならば死ぬことすら本望だと笑う。


 彼はアルメリア王の護衛騎士にして、竜王候補の第一階級。

 一番初めに「最優」と称された、箱庭という惑星を脅かす災厄の殲滅兵器である。

 

 

 


 

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