異世界と現実のジレンマ

沫茶

1-表

「キーンコーンカーンコーン……」

 チャイムの音が嫌いだった。いったい生まれてこの方、この音を何回聞いたことだろう。この音を聞くたびに、どうして俺はこんなところにいるんだと無性に腹が立つ。

 窓の外は、良い赤色だった。グラウンドでは、ユニフォームを着た生徒たちがまとまってトラックを走っている。今の俺にとっては実に無縁なものだった。

 ちょっとの間、外を眺めていただけつもりだったのに、振り返れば、ほとんどの同級生が教室から消えていて、軽くため息をつく。ぼさぼさしていても怒鳴られるだけだ。重い腰を上げて鞄を掴み、向かったのは職員室だ。

 入るなり、いつもの左奥の席から、担任がこちらを睨んでいるのが何となくわかったけど、それを気にしないようにして担任のデスクまで歩いた。

「斎藤、なんで呼び出されたか分かるよな」

 思い当たる節はもちろんあったけど、そのまま言うと癪なので、さあと息を吐き出すように言えば、担任はバンっと机を叩いた。

「なんだその態度は。俺はお前の将来のことを思って言ってるんだぞ。前のテストだって全部赤点でっ。お前、自分が何年生で、今どういう時期か分かってんのか」

 もちろんわかっている。今自分は中学三年生で、おおよそ半年後には、高校入試があることくらい。そして、今からどうあがこうとも、自分が高校に進学するのは無理なことも悟っていた。だから、放課後補修をたびたびさぼっては、ゲーセンに遊びに行っていた。

「どうせ、今さらあがいても無理だよ。別にいいじゃんか。高校行ってない人だって結構いるんだ。でも、別に、みんながみんな、不幸じゃないだろ。逆に、高校に行ったところで、不幸なやつは不幸なんだ。だから、俺は高校に進学しない」

 さばさばと言葉を吐く俺に、担任の拳はぷるぷると震えていて、今にも掴みかかってくるんじゃないかなあと思った。でも、そうはせずに、こめかみに青筋を浮かべたまま、それとは裏腹に、ひどく冷めた声が返ってきた。

「そりゃ、もちろん。高校に行ってない人もいる。でも、そういう人たちみんながお前みたいに、勉強ができないから高校に行かなくてもいいやと思って行かなかったと思ったら大間違いだぞ。世の中にはな、高校に行く学力があって、高校に通いたくても、いろんな事情があって、通えない人もいるんだ。お前はそういう人たちに、勉強が出来なくて、努力しても無駄だと思って、高校行かなかったなんてことが言えるのか。お前が本当に高校に行く必要がないとよくよく考えてそういう結論を出したんなら、先生は何も言わない。だがな、自分が勉強が出来なくて、努力しても無駄だと思ってることの逃げ道に、高校に行っていない人がいるから、俺も行かなくていいやなんて言ってるのならな、先生はお前を許さないぞ」

 これだけ言われても、俺の心には何も響かなかった。行く行かないは個人の自由だ。そして、誰だってできないことから逃げることもある。無駄に努力するよりも、逃げて別のことをする方がいい場合だって多いはずだ。だから、俺は、高校に進学しない。補修も受けない。

 じっと、俺は担任の目を睨むように見ていた。担任の方も、俺を睨んでいた。先に目をそらしたのは俺だった。そのまま、回れ右をして、職員室の出口の方に足を向けた。

「いいか、斎藤。これだけは最後に言っておくぞ。あと、半年あるんだ。今から、お前が死に物狂いで頑張れば、進学するのも不可能じゃないんだ。それだけは、覚えておいてくれ」

 怒鳴るような担任の声に、俺はただ背を向けて、職員室の外に出た。

 

 そのまま逃げるように、学校を出て、ゲーセンに行って、どうやっても景品の取れないクレーンゲームを十数回やったあと、近くのコンビニでサンドウィッチを買って、帰り道にある公園で、ブランコに座りながら、冷え冷えのサンドウィッチを取り出して、ほおばった。中身は卵とチェダーチーズだったけど全然味がしなくて、柔らかいゴムを噛んでいるような気分になった。

 ついさっきまでは、まだ明るかったのに、もう空は真っ黒で、公園の電灯が、寂しく辺りを照らしている。きっと人生というものはこういうものだろう。明るいところは明るくて、暗いところは暗いのだ。明るいところにいる人には暗いところにいる人の気持ちは分からない。

 人通りのない暗い道を通って、家まで歩いた。

 扉を開けても、中は真っ暗で、ただいまと言う気にもならない。スイッチを押して、照らされた廊下を歩いて、そのまま階段を登って、自分の部屋に入った。

 鞄を投げ捨てるようにベッドの上に置いて、床に寝っ転がる。いつも見ている天上が、いつもより広く感じて、蛍光灯の明かりが目にまぶしかった。

 寝ころんだまま伸びをすると、手に何かが当たった。目だけを向けると、一週間くらい前に買った、ライトノベルの小説だった。あまり読む気がしなくて読んでいなかったけど、せっかくだし、仰向けのまま、本を開いた。

 いわゆる異世界転生ものと言うのだろう。前にネットで面白いと紹介されていたライトノベルをたまたま本屋で見つけて買ったのだった。

 普段から本を読むわけではないので、なかなかすらすらと文字を追えなかくてイライラしかけたが、別にこれと言ってやることもなく、特に嫌なことも読んでいる間は思い出さないので、我慢して読み進めた。すると、次第に小説の内容が頭の中で分解されて、情景が視覚ではないどこかに浮かぶようになった。

 気がつけばいつの間にか、ふふっと笑っていた。主人公とその仲間たちの掛け合いが面白かった。主人公が、チートを使って敵を一網打尽にするところは、胸がスカッとした。仲間が傷つけられるところには、胸が痛んだし、主人公の熱いセリフには胸を打たれた。

 現実世界よりもはるかに楽しくて、面白くて、悲しくて、辛くて、胸を動かされる世界がそこには在った。気づけば、厚いと思っていた文庫本だったのに、最後のページだった。その一ページを何度も読み返した後、本を閉じて胸の上に置いた。

 充実感というか、幸福感というか、そういうものが体を包み込んでいるようだった。常に鳥肌が立っているかのように、体が震えているようだった。いや、震えているのは自分の心なのだろう。物語に揺さぶられた心が揺れているんだ。

 自分もこの主人公みたいな冒険がしたいと思った。能力があって、仲間がいて、困難があって、すばらしい結末のある、そんな世界線を生きたいと思った。でも、そこまで考えて、急に震えが止まった。

 今の自分を考えてみれば、どうだろう。まったくもって、現実と理想は程遠い。現実の俺は、みんなのように勉強が出来なくて、担任に呼び出されて、一人でゲーセンに行って、帰ってきても、真っ暗な家に一人だけだ。落ちこぼれで、仲間もいない。

 急にそれまでの高揚感が消え、むなしくなった。どれだけ、小説を読んでいる間は心が満たされても、現実に引き戻されればこうだ。ただつらいだけだ。一時は現実を忘れられても、やっぱりそれはまやかしで、読み終えれば、みっともないとさえ思うただの自分だ。主人公は主人公で、読んでいる間は自分も主人公のつもりだけど、やっぱり、俺は俺だ。主人公でも何でもなく、ろくでもない人生を、ただ惰力で生きているだけの人間だ。

 主人公と自分の落差を考えて、余計につらくなった。

 いっそのこと死んでしまえば楽なのではないかとさえ思う。このライトノベルの主人公は死ぬことで異世界に転生していた。自分も死ねば、同じように転生できるのではと、そんな考えが頭をよぎる。でもそんな都合のいい話があるわけない。死ねば、そこにあるのはただの無だ。そう俺は思っている。

 勉強に使わない勉強机の上の時計を見れば、もう深夜一時くらいだった。欠伸をして、鞄をのけて、ベッドに横になる。今日もまた嫌な一日になるのだろうと思いながら、蛍光灯の明かりを消した。

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