第6話 時計屋


 チェシャ猫が指差した小屋までは、実際に歩いてみると目で見た以上に結構な距離があった。


(こ、こんなに遠かった……?)


 森に囲まれこじんまりとした街中を、目的地へ向けて足を進めていると、ふと小さな疑問が浮かび違和感に気がつく。


「……?」


 街中には、チェシャ猫の指差した小屋だけではなく、他にもいくつかの家があった。誰かが住んでいる雰囲気は感じ取れるというのに、人の姿が一切見当たらない。物音もせず、野良猫の一匹もいない……まるで、

 

(ここだけ、時が止まっているみたい)

「やあ。やっぱりここに来たんだね、アリス」


 突然、耳に届いたアルトの声に驚いて勢いよく振り返ると、そこに立っていたのはこの世界へ来て最初に出会った――大きな懐中時計を斜め掛けポシェットのように所持し、チョッキを着て胡散臭い笑みを浮かべる、黒いウサギ耳の生えた男。


「あなた、は……」

「……ああ。そういえば、まだ自己紹介してなかったんだっけ。僕は……黒ウサギだよ、アリス」


 口元の三日月型を崩さず『黒ウサギ』と名乗った男は、私への殺意が無い……ように、思えた。

 それでも少し警戒しつつ二、三歩後ずさって距離を置くと、彼はクスリと笑いながら小屋の方へ歩を進める。


「ほら、おいでよ」

「……言われなくても行くわ。私はそっちに用事があるんだもの」

「ああ、うん。そうだろうね。だって、アリスは時計屋に“頼らなきゃいけない”もんね」


 時計屋……初めて耳にする名前だ……と、思う。


「……」

 

 特に言葉は返さず、二人で黙々と足を進めていると、やっと小屋までたどり着いた。遠目からは小さな建物に見えたが、こうして目の前にするとそこそこ大きな家である。

 

「こ、この家に入ればいいのかしら……」


 チェシャ猫はただ「あそこへ行くといい」とだけ言っていた。だが、そのあと何をすればいいのか、私はどうするべきかまでは説明を受けていない。

 あの猫に限った話では無いが、あまりにも無責任だ。

 今度会った時には文句を言ってやらなければと考えていた時、今まで沈黙を貫いていた黒ウサギがゆっくりと口を開く。


「ねぇ、アリス。ここから二枚選んで」


 そう言って彼がこちらに差し出したのは、いつの間にかその手に現れていたトランプ約十枚。言われた通り、適当に二枚を選んで表を見てみると、それは両方ともジョーカーだった。


「……っ?!」


 偶然か、単なるマジックか。瞬きも忘れ硬直していると、黒ウサギは表情を崩さないまま言葉を続ける。


「アリス、気をつけてね。ジョーカーは何にでも化けて、簡単にアリスを騙し、混乱させる。この国では、誰も信じちゃいけないよ。自分自身のことも、ね」

「自分の、ことも……?」

「……可哀想で可愛いアリス。僕以外の嘘つきに、惑わされちゃダメだよ。それは“僕の仕事”だから」


 そこで言葉を切ると、黒ウサギは踵を返してもと来た道を戻り、森の奥へ消えていった。

 手元に残されたトランプを見ながら、なぞなぞのような言葉に頭を悩ませていると、真後ろから届いた声が鼓膜をノックする。


(えっ……? どうして? いつの間に? 足音が、しなかった)

「人の家の前で……ぼーっと立ってちゃ駄目だろ。空き巣だと思われる」


 ひやり、後頭部に当たる丸く冷たい物に、カチャリと鳴る音。

 この物体が何なのか、私は知っている。


「あ……」


 銃口だ。私の頭には今、銃口が密着している。背後にいる人物が引き金を引けば、私の頭はいとも簡単に吹き飛んでしまうだろう。


「……空き巣は、見つかったら始末されるものだし。ね?」


 ああ、

 

(確実に、殺される)


 こんな至近距離では、今サタンが来てくれた所で助かる可能性は無いに等しかった。

 そもそも、そんなにタイミング良く……さながら、お姫様を守るナイトのように、あの男が颯爽と現れるのかすら怪しい。

 つまりは、


(死ぬ、殺される……! 死ぬ、死ぬ。死んじゃう……!)


 涙が滲み歪み始めた視界に瞼で蓋をして、最期の瞬間を待った。だが、私の耳に届いたのは耳をつんざくような銃声ではなく、


「ばーん」


 という、気の抜けるような声。


「……え?」

「ジョーカーになっちゃったから、アリスを殺してあげなきゃいけない、っていうのはわかってるんだけど……うーん、なんか……めんどくさいよね。気分じゃないし、他のやり方があると思う……って、今回はアリスに言っても駄目なんだっけ?」


 後頭部に当てられていた物体が離され、慌てて体ごと振り向けば、くせっ毛だらけの長いクリーム色の髪を一本にゆるく束ね、首から複数の懐中時計をぶら下げた男がいた。


(誰……?)

 

 私から見て左側の目は長い前髪で隠されており、右の頬にはダイヤのマークが刻まれている。

 前髪に覆われていないエメラルドグリーンの右目は見るからに眠そうで、見るからにだるさ全開のその男は、先ほどまで私の後頭部に当てていたであろう銃を懐中時計に戻して胸ポケットへしまい、私と目線が交わった途端に慌てふためき始めた。


「あ、あー……ごめん。怖かった? いや、そうだよな。アリスを泣かせるつもりはなかったんだけど……」


 男性は「ごめんね」と言いながら、黒い革製の手袋で覆われた片手を私の頬に置き、指先で目尻の涙を拭ってくれる。


「……あなたは、私を殺さないの?」

「ん? うん。めんどくさい……それに、銃を撃つと反動で腕が痺れる……あの感じ、嫌なんだよな……」


 気だるそうに言ってのけ、ぽんぽんと私の頭を撫でてから、目の前にあった家の扉を何の躊躇いもなく開けてしまうその男性。

 勝手に入ったら家主に叱られるんじゃないかしらと焦りながら、恐る恐る玄関の敷居をまたぐ私をよそに、男性は部屋の角の書斎らしき場所に置かれた椅子に我が物顔で腰掛けてしまった。


「……アリス、何してるの? ニンジャごっこ?」

「ち、違うわよ!」

「ふーん……じゃあここ、おいで」


 彼が指差したのは、部屋の中央に置かれたソファ。


「勝手に入って、そのうえくつろぐなんて……大丈夫なのかしら……」

「……? 勝手にも何も、我が家だよ」


 背もたれに体を預け、『チョコチップ』と書かれた袋を抱えて中身をばりぼりと貪る姿からは、始終だるさしか感じられない。

 彼の中に、殺意と呼ばれる感情が存在した事はあるのかすら疑問に思えてきた。


「じゃ、じゃあ……失礼して……」

「うーん、堅苦しいな……」


 私よりは明らかに年上。それなのに、まるで小さな子供のようにチョコチップを食べ続けるその男性。

 ソファに腰掛けまじまじと観察していると、彼はチョコのついた指を舐めて思い出したような声を出した。


「あ、そうだ。時計屋、ね」

「……えっと……あなたが、時計屋……さん?」

「ん、そう。時計屋さん」


 空になった袋を丸めてゴミ箱にポイと投げ捨て、男性――時計屋さんは、のんびりとした動作でこちらへ向き直る。


「おかえり。あと……『また』よろしくね、アリス」

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