第1話 サタン


 雑草が刈られ、綺麗に整備された庭。その一角に植えられた樹の下に腰をおろして、アリスはただ『なんでもない』時間をボーッと過ごしていた。

 何か楽しい遊びはないかしら?

 そんなことを思いつつ、ふと庭の端へ目線を移動させると、見知らぬ『人』の後ろ姿が視界に入る。


「……誰?」


 立ち上がり、警戒しながらゆっくりとその人物へ歩み寄った。

 長く黒い艶やかな髪を一本に束ね、頭部に白いウサギの耳を二本生やした女性らしき人。『それ』はアリスが自分を見ていることに気づくと、花が咲くようにふわりと微笑んでこう言った。


「ついておいで、アリス」


 風に揺らぐ風鈴のような、優しく落ち着いた声。誘われるがままにアリスがその『人』の後を追うと、なんの予兆もなく突然眩しい光に包まれる。

 思わず目を瞑るが、「大丈夫よ、目を開けて」と囁く声に大人しく従い、恐る恐る瞼を持ち上げた。

 すると、目の前に立って居たのは先ほど見た『誰か』とは別の人物で、アリスは思わず片手で目を擦る。


「やあ、アリス。久しぶりだね。それじゃあ早速、ゲームを始めようか」


 無造作に跳ねた白い髪から、ロップイアーを連想させる垂れ下がった黒いウサギの耳を二本生やし、アリスから見た右頬にハートのマークを刻んだ男は楽しげにそう言って、人が良さそうな笑顔を浮かべて見せる。


「アリス、僕たちから逃げて」

「……ど、どうして?」

「どうして? うーん、アリスは変なことを聞くなあ」


 そのウサギ男はくっくと喉を鳴らして笑った後、夕陽で染めたような赤い瞳を細め、吐き捨てるようにこう言った。


「僕らに捕まったら、殺されちゃうよ?」

 



 ***

 



 その言葉に質問を投げかける暇は与えられず、いつの間にか眠りに落ちていたらしい私は、遠い昔の夢を見た。とても懐かしくて、暖かい記憶。伝わってくるのはとても深い愛情と、それから……、


「アリス……アリス、」


 肩まで伸びた綺麗な黒髪。どう頑張っても癖がつき毛先が跳ねてしまう金髪の私には、彼のそれが羨ましかった。

 全てを包み込むみたいに、私へ向けられる柔らかい微笑み。優しさに飢えていた私は、彼のそれを見ることが幸せだった。

 私を本当の妹のように扱い、傍に置いてくれる彼。いつでも優しく、あたたかく、こんな私でも愛してくれる。

 私はそんな彼の事が――……。


「お兄ちゃま!」


 駆け寄って腰に抱きつけば、彼はいつも大きな手で私を包み込んでくれた。暖かい、体温。

 力いっぱいに抱きつく私の頭を、彼は小さく笑いながら撫でてくれる。お兄ちゃま、お兄ちゃま。私は、お兄ちゃまの事が、


「……リス……アリス、起きろ」

「……え?」


 鼓膜を震わせたその声と共に、ついさっきまで幼児だったはずの私の体はぐんぐんと成長し、地面が随分と離れてしまった。

 瞬きを一つする間に、お兄ちゃまの肩にかかる綺麗な黒髪が、一瞬でさらりと伸びて腰辺りまでの長さになる。それを後頭部で一つに束ねた見知らぬ男が、突然目の前に現れた。


「あ、あなたは……誰なの?」

「俺か? ああ、そうだな……名前、ではないが……サタン・ジョーカーとでも呼べ」

「サタン……? あなた、悪魔なの?」

「いいや、悪魔じゃない」


 不機嫌そうに眉をひそめ、短く吐き捨てる『サタン』と言うらしいその男。「あら、そう」と言葉を返せば、サタンはぽつりと呟いた。


「アリス。俺は、お前だけに力を貸してやる」


 そして、瞳孔の開いた蒼い瞳と、牙が覗く口元を三日月型に歪めて笑うと、黒い布で包まれた片手を私に差し出しこう続ける。


「殺されないように、な」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る