第15話「俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃない!」

 事故の記憶は残っていないが、直前の記憶は覚えている。

 その日は、鷲尾とその妹で女子剣道部のゆかりと一緒に下校していた。

 夕方なのにうだるような暑い日だった。


「お兄ちゃん。練習で疲れているのは分かるけど、早く帰ろうよ。お父さん、久しぶりに帰ってくるんだから」


 兄によく似ている顔立ちのゆかりが、くたくたになっている鷲尾の腕を引っ張って、無理矢理急がせていた。

 鷲尾は「分かってるって」と言いながらゆったりとした歩調を変えない。

 俺は二人の父親が海外に単身赴任していて、約一年ぶりの再会だと知っていた。


「……あ、やべ。倉庫の鍵閉めるの忘れた」


 鷲尾がばつの悪い顔をして、足を止めた。

 ゆかりは「ええ? 先生に怒られちゃうよ!」と喚いた。


「学校に戻る。お前は先に帰ってくれ」

「お父さん、明日には帰っちゃうんだよ!」

「でも、閉めないと不味いだろ」


 兄妹が言い合う中、俺が「じゃあ俺が閉めてくる」と提案した。

 そう、提案したのは俺だった。


「そうか? 悪いな。後で埋め合わせするよ」

「なんか奢ってくれるのか? それでいいぜ」


 鷲尾は「頼んだぜ」と託した。

 ゆかりは「ありがとう」と礼を言った。


 それは厚意からだった。

 だから気に病む必要はないのに。


 青信号で俺は横断歩道を渡った。

 だけど、トラックが突っ込んできた。

 おそらく避けることができなかったのだろう。


 推測しかできないのは、直後の記憶がないから。

 そしてあの日以来、俺は鷲尾と話していない――



◆◇◆◇



 目の前の親友は一年ほど前とだいぶ変わっていた。

 端整な顔立ちは変わらないが、身体が引き締まった印象を受ける。

 頭は坊さんのようにつるつると剃っている。以前は短髪だったのに。


 鷲尾は俺に久しぶりと言ったきり、何も話さなかった。

 俺も返答した後、何も言えなかった。


「……おい、高橋。誰だよそいつ。知り合いみたいだが」


 怪訝に思ったであろう飛田先輩が俺に訊ねる。

 他の部員も俺の反応に戸惑っているらしい。


「……中学の同級生で、剣道部だった鷲尾です」


 俺が鷲尾から目を切らずに紹介すると、金井がひどく驚いた声で「鷲尾ですか!?」と言った。


「全中で活躍した、あの鷲尾翔ですか!?」

「……強いのか? そいつは」


 香田先輩の不思議そうな声に「そりゃ、強いですよ!」と金井がさらに説明しようとして――


「……やめてくれ。高橋の前で、そんなこと言わないでくれ」


 まるで痛みを堪えているような、とても耐えられそうになさそうな、苦しみに満ちた声に、金井は口をつぐんだ。


 鷲尾は今にも泣きそうで、その場から逃げ出したそうだった。


「俺は、そいつの前で……何も言われたくない」

「鷲尾……」


 俺は何か声をかけようとして――何もかけられないことに気づいた。

 お前のせいじゃないって言いたいけど、鷲尾にとって、そんな言葉は何の意味を持たない。


「三村先生。どうしてここに俺を連れてきたんですか?」


 三村さんを責める口調で鷲尾は言った。

 それだけは三村さんのせいだと言っているようだった。


「さっきも言いましたけど、悪趣味にも程があります」

「……入学してから、稽古に身が入ってないと思ってね」


 三村さんはあくまでもクールに言った。

 子供に責められても、何も感じないという態度だった。


「だから会わせたんだ。今でも剣道をしている、高橋くんにね」

「…………」

「彼に言いたいことがあるなら、今言いなさい」


 三村さんは突き放した。

 精神的に突き飛ばしたのだ。


 鷲尾は下を向いて、何も言えずにいた。

 俺もなんて言えばいいのか、分からなかった。


「……三村。もういいだろう。その子を連れて帰れ」


 板崎さんが俺たちの様子を見かねて言った。

 三村さんは「先生がおっしゃるなら、帰ります」とあっさり引き下がった。

 まるで俺たちが話せないと分かっていたようだった。


「でも、これだけは言っておく。鷲尾くん、あなたは向き合わないといけない」


 三村さんは教師だ。

 だから生徒を導くのが仕事だ。


「あなたのため、そして高橋くんのためにもなるの」

「……三村先生の言っていることは分かります」


 鷲尾は覚悟を決めたように、俺に言った。


「お前、そんな身体で剣道できるのかよ」

「……できていると思う」

「ふざけんな。左腕があったときのほうが強いだろう」


 堰を切ったように鷲尾は俺に言う。


「どうして俺を責めない? どうして他の部員に理由を言わなかった?」

「…………」

「どうして――俺たちから離れたんだよ?」


 それは――申し訳なかったからだ。

 鷲尾は個人で全中に行けたけど、他のみんなは準決勝で敗れて、行けなかった。

 もし俺が大会を欠場しなかったら――

 もし俺が左腕を欠損しなかったら――


「なあ。答えてくれよ……」


 鷲尾の目から涙が零れた。

 俺は――


「……すまなかった」


 謝ることしかできなかった。


「俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃない!」


 鷲尾の悲鳴のような怒りの声。

 結局、俺は――変われなかった。



◆◇◆◇



「この前は大変だったねえ」


 月曜日、放課後。

 屋上で鈴木が俺のことを笑っていた。


 あれから鷲尾は、何も言わずに帰ってしまった。

 他の剣道部員は、何がなんだか分からないようだったけど、俺と鷲尾に何かしらの因縁があることは分かったらしい。


 角谷先輩は俺に深く同情した。

 飛田先輩は俺に説明を求めた。

 香田先輩は興味なさそうだったし、金井はよく分かっていないようだった。


 三村さんは帰り際、俺に言った。


「交流試合には鷲尾も出すよ。そしてあなたと戦わせる」


 俺は「どうしてそこまで俺に――俺たちに構うんですか?」と質問した。

 三村さんははにかんだ表情で言う。


「なんていうかな。見ていられないんだよ。若くて将来有望な子が、悩んでいる姿が」

「それは――おせっかいじゃないんですか?」

「迷惑だったかな? でも私は続けるよ、おせっかいを」


 今思えばはぐらかされていたけど、そのときは余裕が無くて、気づけなかった。


「それでさ。高橋くんはどうするの?」


 鈴木の言葉で現実に戻される。

 目を背けたくなるような、現実に。


「高橋くん、戦うんでしょ」

「……そのつもりで稽古してきたけどな」


 俺は鷲尾と戦うつもりで稽古に励んでいた。

 でも実際会うと、ちっぽけな覚悟は消し飛んでしまった。


「はっきり言えば、戦いたくない」

「…………」

「逃げ出したい気持ちだ」


 鈴木に本音を言うと「そんなの許されないって分かるよね」と笑われた。


「剣道部を引っ掻き回して試合に臨ませた。それなのに逃げるなんて。しかも鷲尾くんにしこりを残すような真似だもんね」

「……分かっているよ」

「分かっていない。だからそんなこと言えるんだよ」


 いつになく厳しいことを鈴木は言う。

 いや、俺が情けないだけか。


 中学の剣道部のみんなから逃げて、今もまた逃げ出したなら。

 俺は過去の反省から何も学んでいないことになる。

 本当に――だせえ話だ。


「しょうがないなあ、高橋くんは」


 鈴木は俺に近づいてきた。

 その顔は笑っていた。

 こんな状況で、笑っていた。


「今の高橋くん、格好悪いよ」

「分かっているよ」

「分かっているなら、無理矢理でも格好つけてよ」


 鈴木は笑いながら言う。

 俺は笑えない。


「虚勢でもいいから、格好良くならないと」

「どうすればいいのか、分からないんだよ」


 俺は弱音を吐いた。

 目の前の鈴木に向かって、弱い心を晒した。


「俺は戦えない。覚悟が無くなった、決心も鈍った。もうどうしていいのか、分からないんだよ」


 屋上に薫風が漂った。

 鈴木はふうっと溜息をついて。


「ねえ、高橋くん――」

「なんだよ?」


 俺に――質問した。


「生きるってどういうことだろうね?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る