第6話「上等ですよ。俺、努力とか得意みたいですから」

 その次の土曜日も朝から道場に来て素振りを続けた――いや、素振りしかしなかったと言うのが正しい。

 へとへとになるまで、竹刀を振ったのだけど、今度は二時間経っても止めとは言われなかった。

 結局、午前中ずっと振り続けて、竹刀がもう握ることすらできない状態になってしまった。


「ふむ。根性は認めるが、まだまだだな」


 呼吸をするだけで精一杯で、大の字に倒れた俺を見下ろしながら、板崎さんは冷たく言った。

 心配そうに見つめている鈴木が視線に入った。


「休憩したら、面をつけてまた素振りしろ」

「……相手、してくれないんですか?」


 息も絶え絶えに言うと板崎さんは「その状態でわしが相手をしたら死ぬぞ」と低い声音で答えた。

 もちろん今の俺に必要なことは、片手で何度振っても疲れないことだが、それでもやはり何のためにやっているのかという思いが強くなる。


「今は死ぬほど振れ。堅くなったタコから血が吹き出るまで、振り続けろ」

「…………」

「息が整ったな。では面をつけろ」


 俺は片手でも結べるやり方――ネットで調べた――で面を結び、小手を身につけた。

 そしてまた素振りを続ける。

 竹刀の風を切る音は、まったくしなかった。


「高橋くん、顔色悪いよ。ほら、スポドリ飲んで」


 夕方になって土曜日の稽古が終わると、鈴木が俺に前と同じ水筒を差し出した。

 砂漠で彷徨う旅人のようにごくごくと飲むと、鈴木が「大丈夫?」と背中を擦ってくれた。


「生き返る心地だ。いや、死ぬかと思った」

「お昼ご飯、食べてないもん。下手したら死んじゃうよ」


 既に板崎さんは道場にはいない。

 俺がぶっ倒れるのを見て「今日はここまで」と言い残し帰ってしまった。


「パパが言ってた『弟子殺し』って本当だったんだね」

「……かもな。あのおじいさん、滅茶苦茶だ」


 片手での素振りを何度も繰り返すだけの稽古。

 時代遅れの指導法としか思えない。


「板崎さん、明日は道場に来ちゃ駄目だって。黄桜高校の生徒が練習で使うらしいの」

「黄桜高校って、名門じゃねえか」


 俺がスポーツ推薦で行こうとした高校でもある。

 そんなエリート校がわざわざ板崎さんの小さな道場に何の用だろう?


「あそこは私立で練習場も整っているはずだが」

「私にも分からない。でも休めるときには休んでいいんじゃないかな。パパも明日は運動せずに休むことを優先してだって」


 久しぶりにゆっくりできるわけか。

 ようやく動けるようになった俺は身体をほぐしながら、ゆっくりと立ち上がった。


「さてと。道場の掃除するか」

「動けるの? 掃除なら私も手伝おうか?」

「いや、一人でやる。道場を使ったのは俺だからな」


 雑巾絞って床を磨くように拭く。

 鈴木は退屈だろうに、ずっと見守ってくれた。


 一通り掃除が終わって、服を着替えて道場に一礼して、板崎さんに挨拶しようと家のほうに向かう。

 板崎さんは玄関の前に立っていた。多分、俺たちを待ってくれたんだろう。


「掃除、終わりました。今日はこれで帰ります」

「そうか。月曜日の夕方、待っているぞ」


 鈴木と一緒に頭を下げて、俺は敷地から出ようとする。

 すると門を大人が一人、くぐってくる。

 三十代くらいの女性。タイトなスーツを着ていて、かなりの細身だった。赤い縁の眼鏡に口元にはほくろがある。


 その人は俺と鈴木を見て驚いた顔をして、それから会釈をした。

 俺と鈴木は誰だろうと思いつつ、同じように軽く頭を下げた。


「誰だろう? 凄く綺麗な人だったけど」


 外に出るやいなや、鈴木がこっそり耳打ちした。

 少し考えて「孫か教え子じゃないか?」と返した。

 どことなくスポーツをしている身体だなと思ったからだ。


「ふうん。ちょっと意外。板崎さん、厳しい人だから、女の人を弟子にしないと思ったけど」

「じゃあ孫じゃないのか?」

「板崎さんはずっと独身だって、パパが前に話してたよ」


 ということは教え子か。

 一先ずそれで解決したので、俺はすっかりその女性のことは忘れてしまった。



◆◇◆◇



「歩。お前、何か悪いことしていないか?」


 家に帰った俺は、久しぶりに仕事が早く終わった父さんと一緒にご飯を食べている。

 不意に険しい顔でそんなことを言われたものだから、俺は面食らってしまった。


「はあ? 悪いことってなんだよ?」

「最近、帰りが遅いじゃない。帰宅部なのに。今日だってこんなに遅く帰って」


 隣の母さんもきつい口調で言う。

 俺は「友達と遊んでいるだけだよ」とご飯をスプーンで食べながら言った。

 今日の夕食は豚のしょうが焼きだった。


「その友達、不良とかじゃないよな?」

「違うって。女子だし――あ」


 疲れていたせいか、つい口を滑らせてしまった俺。

 すると父さんと母さんが顔を見合わせた。

 父さんはこほんと咳払いして「彼女でもできたのか?」と言う。


「違う。ただの友達……でもないな」

「やっぱり彼女なの?」

「母さん、違うって。そいつ、父親がジム経営してて、鈍った身体を鍛えてくれるんだよ」


 まだ剣道をやっていることは言えなかった。

 稽古は素振りしかしていないし、もしかすると反対されるかもしれなかったからだ。


「ジムか。料金はどのくらいだ?」

「タダだよ。向こうも……その、片腕の障害者を補助する勉強になるから」


 父さんにそう嘘をついたのは前述のとおりだ。

 すると母さんが「無理しちゃ駄目よ?」と不安そうに言った。


「中学のときとは勝手が違うんだから」

「分かっているよ」


 俺は細かく切られたしょうが焼きをスプーンで掬って食べた。


「しかしお前が運動をしようと思うとは。驚いたぞ」


 父さんは少しだけ嬉しそうな顔をした。

 まあ若い頃は野球をやっていたから、運動には大賛成なんだろう。


「よく見れば身体や顔が引き締まっているじゃないか」

「まあな……ごちそうさま」


 俺はこれ以上突っ込まれてぼろが出ないうちに、食卓から離れた。


「あら。もういいの?」

「ああ。今日はとても疲れたんだ。だから明日はジムも休む」

「そういえば、どこのジムなんだ?」


 父さんが何気なく訊いたので、俺は反射的に「スズキトレーニングジム。駅前近くにあるよ」と答えた。


 歯磨きして自分の部屋に戻ると、ベッドの上に寝転んだ。

 しばらく見ないうちに、父さん痩せたなと思った。


 怪我をして片腕を失くしたときは、二人とも大泣きしていた。

 ま、信号無視で車が突っ込んできたのだから、俺に非はないしそういう反応だろうと思った。

 ちなみに車の運転手は俺を轢いた後、コンクリの壁にぶつかって死んだ。即死だったらしい。


 加害者の遺族から多額の慰謝料をもらったが、父さんはそれでは足りないと思った。

 一生懸命残業して、お金を稼ぎ出した。

 母さんもパートをし始めた。

 全ては俺に最高級の義手を付けさせるためだった。

 もしくは俺に楽させようとお金を稼いでいるのかもしれない。


 そんな両親を見ていると、どこか痛々しいものを感じる。

 俺のために必死にならなくていいって。

 俺なんかにそんな価値なんてないって。


 直接言ったけど、聞き入れてくれなかった。

 それどころか一層仕事に熱を入れ始めた。


 だからもし、俺がまた剣道ができるようになったら。

 考えを改めてくれるかもしれない。

 そう期待してしまうのは、仕方のないことだった。


 日曜日はゆっくりと休んだ。

 したくもない宿題をやったり、動画を見たりして過ごした。



◆◇◆◇



 そうして迎えた月曜日。

 俺の身体というか、右腕に劇的な変化が起こった。


 道場にやってきた俺は、胴着と防具に身を包んで竹刀を構える。

 鈴木や板崎さんが見ている中、一呼吸置いて、竹刀を振った。


 びゅん、という音が道場に響き渡った。


「これは……!」

「ようやく、まともに振れるようになったな」


 満足そうに笑う板崎さん。

 鈴木も満面の笑みになった。

 俺も次第に喜びがこみ上げてくる。


「これまでは序の口だ。本番はもっとつらいぞ」


 板崎さんの言葉に、俺は挑戦的な目で応えた。


「上等ですよ。俺、努力とか得意みたいですから」

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