第 2 話 水面下のデストルドー

 来たばかりの時より、彼の緊張が少し解けた様に見える。私が実用的かはさておき、誰に言ったらいいか分からない事柄を話せた事自体は良かったのだろう。


 事務所のあるビルを出て、大通りへと入った。人混みに飲まれながら、私達は駅を目指していた。


 駅と駅の中間という、やや辺鄙な所に事務所ビルが建っている為、駅までの距離は遠く、どの最寄駅を使うにしても十五分程は歩かなければならない。


「賀田さん、ご実家まではどういう方法で向かいますか?」

「電車に乗ります。そして、立川まで。簡単な地図を一応持って来たのでお渡しします」

「ありがとうございます。じゃあ、中央線ですね。混んでないといいなぁ」

「そうですね。座れたらいいんですけど、時間帯的に無理かなぁ」


 ぼんやりとした願いを互いに呟く。人が多い所に出たからか、先程よりももっと緊張が解けて来た様だ。緊張で固まっていた表情も幾らか解れて、柔らかくなってきた様に見える。


 賀田さんとご実家や例の時計について更に話しながら、ペンギンの様に前の人に並んで進んで行くと、駅名の書かれた看板が見えて来た。アナウンスの声が至る所で喋っているのが聞こえる。此処からでは、全て混ざって聴こえてしまい、どういう意図のアナウンスかは分からなかった。


 八個ある改札を人は慌ただしく通り抜けていく。私は上着のポケットからスマートフォンを取り出して、素早く通り抜けた。賀田さんも同じタイミングで出た様で、目配せがぶつかって、見つめ合ってしまった。


「ふふ、すいません」

「いえ、こちらこそ。ふふふ。行きましょう」

「はい」


 我ながら、コミュニケーションの取り方に難があると思って生きてきたが、それでも、変なタイミングで笑ってしまうのはやめたいと思う。今回は賀田さんが一緒に笑ってくださったから良かったが、これからは抑え目に生きていこうと思う。


 改札を抜け、階段を登るとホームがある。高架の為か、地上よりも風が強く感じられる。既に電車を待つ人々で上下線共に列が出来ていた。頭上ではアナウンスの声が絶えず行き交っている。


 私達は逸れない様に適度に距離を保ちながら、先頭車両の列に並んだ。車両の種類に特に意味はなく、どの車両で足を止めれば良いか測りかねて、先頭車両まで着いてしまっただけだ。


 賀田さんは私の左に立った。前方には、飛び込み禁止の為の柵が設けられている。場所によってはロープ型等もある様だが、ここの駅では扉全体をガードするタイプのものだった。電車の扉と合わせて、二重の扉になるのだ。


 彼の方に顔を向けると、逆光で夕焼けに焦げた様な顔があった。後ろを振り返ると、眩しい夕陽が今に沈もうとしていた。


「貴方にお話出来て良かったです」


 影の中でぽつりと賀田さんが呟いた。


「それだけで、今日来た意味がありました」

「いえ、まだ何もしていませんから。これからです」

「あ、そうでした。少し安心してしまったのかも知れません。漸く、話を理解してくださる方と出会えたから」


 照れ隠しに笑う賀田さんだが、私の所に辿り着くまでに嫌な思いもされたのかも知れない。私が一番最初に受けた印象より、彼は大分柔らかな印象になっていて、眩しそうに目を細めて、伸びた影を眺める様は酷く穏やかで優しげに見えた。


「こういった案件をうちの事務所に持ち込む方は、それなりにいらっしゃいます。皆さんとてもお困りなのが、よく分かります」

「ありがとうございます。こういう不思議な事例では、どの様な対応をなされるのですか?」

「現物を見ない事にはなんとも、としか言えません。物に憑いた場合は、今回ですと時計がおかしいという事ですので、まず時計の異常が物理的な理由で発生しているのか、そうでないのかを確認します。対応の仕方を考えるのはそれからです」


 電源押してもパソコンがつかない場合は、故障を疑う前に、まずコンセントが刺さっているかの確認からする。コード類にも問題なければ、そこで本体に手を付ける、という方針だ。


「大変なお仕事でしょう」

「そうでもありませんよ。いや、大変かな。ずっと閑古鳥が鳴いてますから」

「はは。そっちじゃないですよ。嗚呼、でも、そっちも大変だ」


 ホームに人が増え始める。私達の後ろにも列が出来ていた。正面の空はうっすらと藍色に染まりつつある。遠くで、十八時を知らせる鐘が鳴った。初めて聞く音だった。知らない内に変更されたのだろうか。


「無食さん。どうか、呪いを解いてくださいね」

「ええ」

「時計の呪いを解いてください。それはもう、私達ではどうにもならないのです。嗚呼、本当に、本当にすみません。妹を頼みます」

「えっ?」


 私は彼の言葉に違和感を覚えて、横を見た。だが、そこに賀田さんの姿はなかった。


「賀田さん。どこに行っちゃったんですか?」


 乗車を待つ人々の列から離れ、周りを見渡す。時間帯のせいか、似た背格好の人が多く、探しづらい。


『2番線列車が参ります、黄色い線の内側でお待ちください』


 機械的な女性のアナウンスが響く。


「賀田さん」


 呼び掛けに応じる声はない。酷く嫌な予感がしていた。


 私はホームを人にぶつからないようにしながら走った。周りをキョロキョロと見渡しながら走る私は、さぞ迷惑だったろう。不快な汗が流れ始める。画面に釘付けで忙しなく指を動かす人々は、怪訝そうに私を一瞥したりしなかったりで、それは逆に好都合だった。


 こうしてすぐ見つけられたのもそのお陰だろう。でも、見つけられただけだった。


「賀田さん!!」


 少し先で人だかりが出来ている。怒る様な声と、心配そうな目と、無関係を決め込んだ背中が乱雑に並んでいる。


 彼はホームドアを乗り越えようとしていた。


 周りの人達が、彼を止めようと慌てて手を伸ばしている。


 私は彼を見つけた瞬間に列を割って押し入り、彼に手を伸ばした。靡くスーツの端を掴んで引き落とそうとした途端に、手から生地が擦り抜けて行った。次の瞬間、ごーっと大きな唸り声をあげて、列車がホームに入った。目の前にいた彼の姿は見えない。


 電車は酷い音を立てている。ブレーキをかけようとしているのか。金切り声の様な音も聞こえる。パシャパシャと記録する電子音も聞こえる。


 私は目の前で起きた出来事を理解出来ず、そのまま座り込んだ。


「おい、これ」「人が轢かれた」「会社に連絡を」「電車止まるじゃん」「これあげたらめちゃリツイート来るかな」「縁起でもねえ」「カメラで撮るな!」「家帰る所だったのにふざけんなよ」「何考えてんだ」「急いでるのにどうしよう」「迂回路使うか」「ぐちゃぐちゃ見れるかな」


「ねぇ、お前」


 私の肩にぽんと手が叩かれた。その手は見ると獣の様に爪が伸びていた。振り返ると、美しい人がいた。夜明けのような薄藍色の髪に、鮮やかな星の様な黄色の瞳、着ている服は真っ白なワンピースだ。


 とても目立つ風体であるのに、周りの人間は誰もその人の事を気にしない。まるで見えていないみたいだ。


 その人はにこりと優しく笑っている。


 私が呆然としていると、一言「間に合わなかったね。これはお前のせいだよ」と言った。


「貴方は?」

「案内人を死なせたろう」

「彼は」

「殺されたよ、お前に」

「貴方は、誰ですか?」

「誰だろうね。きっとお前も直に知る。それより、他にする事があるだろう」

「他に?」

「依頼は終わってない。完遂されてない」

「でも、依頼人は……」


 私は不意に、彼が最後に私に言った言葉を思い出した。「時計の呪いを解いてください。」


 もし、彼が時計の呪いで死んでしまったのだとしたら、それは、時計の呪いの存在の証明になる。彼は自らホームドアを攀じ登った。そして、電車の前に躍り出た。それは、何を表すのか。自殺だとしたら、遺した言葉の意味は何だ。分からない。分からなかった。目の前の彼が言う、言葉の意味も分からない。分かる為に、私は時計の呪いを解かねばならないような心地がして来た。


「貴方はこの件に何か関わりがあるのですか?」

「んー、あるとも言える。無いとも言える。僕は自由なんだ」

「貴方のお名前は?」


 その人はまたにこりと笑って、「教えない!」と言ったかと思うと、姿は何処にも見当たらなくなった。


 ころころと表情が変わり、その全てが人懐っこくあるのに、発せられる声色は私を酷く不安にさせた。煙に巻かれている様な、言葉を間に受けていいのか分からなくなる、ぐらぐらと頭を揺らす様な。


 何か事件について知っていそうではあったが、素直に喋るタイプではなさそうだ。名前が分からなければ探しようもない。こういった感じで、形状し難い者と遭遇した事は過去にもあった。


 なんとなく、彼の顔を何処かで見た事がある気がした。


 それよりも。それよりも。


 私は立ち上がって、のろのろと歩きながら、人混みを線路から離そうとしている駅員さんに話し掛けた。


「あの、轢かれた人、知り合いなんです。名前とかも分かります」

「あ、ああ、そう、ですか。それは……。取り敢えず、こちらに来て頂いてもいいですか。色々訊きたい事があります」


 私は素直に従って、取り敢えず、駅員の人しか入らないような場所にある小部屋に通された。少々お待ちくださいと言われ、案内してくれた人が退室すると、側にあった椅子に座った。


 私はこれから、たった二時間前に出会ったばかりの人について話す。何を知っているだろう。何も知らないに違いない。こうして、思考を続けられるのは、きっと彼の事を私があまり知らないからだ。


 今も目の前で起きた凄惨な事態を全て受け入れられているとは思えない。でも、冷静さを手放さずにいられるのは、やはり私にとって彼が殆ど知らない他人だったからだろう。それは残酷な事だ。同時に自分の心を守る為の重要な線引きだ。


 ただ、もし彼の葬儀を執り行われるのなら、喪主は妹さんの可能性が高い。彼は独身で、お子さんもいなかった。せめて葬儀までに、彼の死の情報を集めて渡したい。彼がぞんざいに扱われる事が無い様にしたい。二時間と少し前に出会ったばかりの人間でも、人間であるからこそ、尊厳を侵したくない。


 これは感傷だ。


 そして、時計の呪いを解く事。


 これは仕事だ。


 私は携帯の時計を見た。十八時七分。


 もし、彼が時計の呪いで死んだのなら、彼の死が如何様にして齎されたかを紐解かねばならない。その為にも、まずは彼の実家に行く必要がある。幸いにも、事前に簡単な地図は貰っていたから、行く事は可能だ。


 ノックがされる。


 制服の男性が部屋に入る。私は話が終わり次第、一度事務所に戻ろうと決めた。





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