20. 慰めてあげるね


 コスプレ喫茶・アポリネールは昼は11時から営業を始めて、お昼休憩を挟んで、夜は18時から再開する。


「夜の部は酒飲みの巣窟そうくつだからね。さすがに女子高生にやらせるわけにはいかないと思うから、しばらく昼の部だけ手伝ってもらおうかな」


 雇用の契約に必要な書類をまとめながら、バニラは言った。 


「ほぼリーマン相手だし、メニューもそんなに多くないから。難しくないと思う。ちなみにミイちゃんは料理できる?」


「少しならできます」


「カレーは?」


「普通のなら」


 ミイはコクンとうなずいた。


「家、定食屋だったので」


「そうだったね。じゃあ、仕込みも手伝ってもらおうかな。朝の9時くらいに来てもらって、そっから片付けまで。16時終わりで、どう?」


「ぜひ。頑張ります」


「やる気十分。良いね。ついでにサキくんが非番の日は、彼にも手伝ってもらおうかな」


「え? 俺?」


「当然でしょ。一応、そっちのマスターには話つけておくから」


「わざわざ俺が出なくても」


「目の届くところにいた方が良いでしょ。ここ一応新宿だし。何かないとも限らない」


 そう言われて、事務室の椅子にちょこんと座るミイを見る。パッと見は幼くて頼りない。女子中学生とも見間違えられかねない。昼間とは言え繁華街のど真ん中だ。心配にはなる。


万理ばんりある」


「じゃ、オッケーって言うことで」


「サキ兄も私と一緒に働くってこと?」


「ボーイとしてね。注文取りとドリンク作るくらいなら、できるでしょ。何なら、コーヒードリップしてもらうのも良いなぁ」


「良いですね、それ。素敵です」


 ミイが嬉しそうにクスクス笑った。屈託なく笑う姿を見ると、もう緊張も解けたようだった。馴染めなかったらどうしようと考えたが、そっちの心配はいらなそうだ。


 良かった。バニラに頼んで正解だった。


「という訳で、また明日ね」


 面接を終えて、駅までの道を帰っていく。ミイは上機嫌に俺の手を握った。


「バニラさん。良い人だね」


「まぁ、ちょっと変わった人ではあるよ。しょっちゅうサボってタバコ吸ってるし」


「そうだね。でも素敵な人。格好良いな」


 更けていく夜の街に目をやりながら、ミイは笑った。


「何だか、これからが楽しみ」


「なら良かった」


「こんな自由な世界もあるんだね」


 ビルの間から見える狭い夜空に、彼女は目を向けた。


「ついこの間までは、おりの中にいるみたいだった。どこにいても誰かに見られているみたいで、ずっと猫に話しかけてた」


「猫?」


「三毛の野良猫」


「もしかしてミャー助?」


「うん」


「懐かしいな。あいつ、俺ん家にも良くえさもらいに来てたよ」


 ミャー助は、俺たちの家の周りをうろうろしていた野良だ。機嫌が良いと触らさせてくれることもあった。勝手に名前をつけて、3人で可愛がっていた。


「あいつ、まだ元気だったんだ」


「この前ね。車にひかれて死んじゃったけど」


 ミイは淡々とした口調で言った。


「観光客のレンタカーにひかれてた。即死」 


「そっか」


「車のバンパーがへこんで、めっちゃ舌打ちしてた。大学生くらいのカップル。そいつらが死ねば良かったのにね」


 本当ムカつく、とイライラした様子で彼女は言った。


「ミャー助はいつも通り、道路を渡ってただけなのにね」


 道路に横たわる小さな身体を想像する。

 温かくて触るとかすかな声で鳴いた。ネズミを捕まえてくると、軒下のきしたに良く隠していた。強くてたくましい猫だった。


 姿が見えなくなった時、3人で探しに行ったこともあった。結局どこかのオス猫と喧嘩していたらしく、目の上に切り傷をつけて、のそのそと呑気に餌を食べていた。


 ミャー助という名前をつけたのは、幼なじみだった。


「サキ兄は、まだお姉ちゃんのこと、好きなの?」


 地下鉄の車内で彼女はボソリと言った。


 窓の外を見つめるミイは、どこかぼんやりとした感じだった。


「どうして?」


「だって話そうとしないから」


「別に話すこともないだろ」


「意図的に話すことを避けている。思い出すことを避けている」


 ガタガタと車内が揺れる。つり革に捕まる俺たちの周りの人はみんな、耳にイヤホンをしてスマホを見ている。


「ミャー助の話した時も、きっと思い出したはずなのに」


「思い出したよ」


「サキ兄はどう思っているの?」


「どうって」


「まだ好きなの?」


 目を閉じると地下を走る車輪のゴウゴウという低い音が、胸に響いてきた。


「分からない」


 珍しく本心を言ったような気がする。


「分からないよ。あいつへの気持ちなんて。もう連絡取ってないし」


「お姉ちゃんは良くサキ兄の話をするよ」


「へぇ」


 その言葉で感情が揺れ動くのが嫌だ。まるで心の中をのぞき込むように、ミイは俺の顔色をうかがっていた。


「何て言ってたか、気になる?」


「いや」


「本当に?」


「ちっとも。聞きたくもない」


 ミイはふうんと小さくうなずいた。壁にかけられた広告に目をやりながら、そのまま家に帰るまで何も話さなかった。不機嫌と言うより、何か考え込んでいるような感じだった。


「なんか食べるか」


 家に帰って冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中は、ミイが来てからかなり充実してきていた。野菜とか生肉とか。生き物を感じさせるものがたくさんある。


「インスタント麺。実家から送られてきたやつがあるから、それと豚肉で味噌ラーメンでも作ろうか」


 ミイはその言葉に返事をせずに、不意に俺の後ろから抱きついてきた。


「可哀想なサキ兄」


 小さな声で言うと、そっと身を寄せてきた。彼女の息遣いと言葉が、すぐ耳元で聞こえる。


「サキ兄が傷つくことなんてなかったのに」


 背中から感じる彼女の体温は、ミャー助の毛並みを思い出させた。日向ひなたが好きで、いつも太陽と草の匂いがした。


「私たち家族のために、傷つくことなんてこれっぽっちもなかったのに」


 はかなくて、頼りない。

 ずっとそばにいるとは限らないもの。


「私がなぐさめてあげるね」


 その手が俺の頬に触れた。振り返ると、彼女の顔がすぐ近くにあった。冷蔵庫に俺の身体を押し付けて、ミイは唇を寄せてきた。


「……ん」


 彼女の唇が動く。

 何かに急かされるように、強く何度もキスをした。


 2人の体重でガタンと冷蔵庫が揺れた。ミイの手が、俺の服の中に入ってくる。


「ミイ」


「なに?」


「お前が俺に身体を許すのは、さ」


 口にたまった唾液を飲み込む。


「本心か?」


 俺の言葉に、ミイはその手を止めた。


「そうだよ」


「どうして」


えない傷のために」


「それを癒すために?」


「それは違うよ」


 ミイは首を横に振って、再び手を動かした。


「互いの傷を確かめ合うために」


 それを聞いて少し安心する。

 俺にはミイのことを癒すことはできないし。ミイにも俺を癒すことはできない。


 傷は深く大きく広がっていく。現在進行形で今も傷つき続けている。


「……サキ兄……」


 俺たちのセックスは、その傷を忘れるための数少ない現実的な手段なのかもしれない。


 彼女を押し倒して、下着をずらして、膨らんだ乳首に歯を当てる。


 それが最低で愚かな手段だと言うことは、たぶんミイも分かっている。

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