第4話

 私が20を過ぎた頃にある大きな仕事の依頼があった。


 大陸で三本の指に入る宗教組織の静寂の耕地クワイエット・パディランドの前・大陸教導師長の血族の娘イサキ・パディランドの暗殺。


 継母から使用人まで関係する者は徹底してすべて根絶やしに殺すよう指令があった。


 なにぶん大規模な仕事だったので周到に準備を重ねる必要があった。


 先ず関係者の力押しで執事として私は館に入ることになった。私は殺しとそれに付随する様々なこと以外は概ね不器用だったので随分と無能な執事だと周囲には心配された。


 中でもイサキ・パディランドの遊び相手をすることについては戸惑いしか浮かばなかった。 


 子供相手に何をすればいいのか分からず、最初の内はただ人形のように何も喋らずに立っていただけだった。


 だが、お嬢様はそんな私を最初は恐々と眺めていたもののその内に好奇心と親愛を持って話しかけてくるようになった。


「ジュージはへんね、ほんとうにへん」


 お嬢様はよくそう言って笑った。


 そんなお嬢様は話好きのする方だった。


「ジュージの好きな食べ物は」


「食べ物…ですか?」


 思い浮かんだのは、路地裏で食べたねずみや黒虫。


 ねずみが手に入るのはまだマシな日でそれにも事欠いて黒虫を食べると虫が湧くせいか腹が死ぬほど痛むのだ。


「私がこの世で一番好きなのはお母様の作ったミートパイね、とっても美味しいのよ」


「美味しい…」


 思い浮かんだのはホテルの近くで富豪の男に雨の日に拾われた記憶。


 ルームサービスで頼んでもらったサンドイッチは美味かった。だがそのあとシャワールームで身繕いをされた後に死ぬほど折檻されたので胃の中の物はすべて戻してしまった。幼心に悲しい想い出だった。


「そうよ、とても幸せな気持ちになるわ」


 思い浮かんだのは、一時期飼われていた食人狂の主人の顔。


 私が獲物の人間を一通り解体すると、主人は内臓の一つを生のまま私の口元へ運んだ。


 勧められるまま口に無理やり含むとえぐみのある匂いと反吐が出るような味がした。


 許しを請うように見上げると主人は無慈悲にも“飲み込め”と言った。


 どうにか飲み下しえずく私を見て、主人はとても悦んで嗤っていたのが印象に残っていた。


「…お嬢様、恐れながらジュージは食事にまつわることで”幸せ”と感じたことがないようです」


 お嬢様は悲しそうな顔をしたので、私はなにかを言わなければならないと思った。だが何を言えばいいのか分からなかった。


 お嬢様は私の手を取って言った。


「大丈夫…大丈夫よジュージ。いつか私がお母様の作ってくれたミートパイをジュージに作ってあげる。絶対に美味しいんだから」


・ ・ ・


「ジュージはどうして空っぽなの?」


 執事になってから3ヵ月ほど経ったころお嬢様からこんなことを聞かれた。


 まだ肌寒い春先の庭園を二人で並んで歩いていた。その日は風の強い日だった。


 空っぽ。その言葉の意味が分からなかった。


 その頃には私の扱いと言えば館の使用人からはほぼ暇を出されているも同然で、端女はしためからも軽んじられるような有り様だった。


 誰に言われるともなく、そんな私の仕事と言えばお嬢様のお相手だけとなった。


 お嬢様は私がお嬢様のお相手以外特に何もせずに館にいることを時折からかって揶揄したりはするものの、私を見つけるとなぜか決まって嬉しそうな表情を浮かべるのだった。


「…空っぽとは…どういう意味でしょうかお嬢様?」


「だってジュージは何を聞いても好き嫌いもあってるも間違ってるも答えないじゃない?侍女のサリーなんて「お嬢様、私はそのようなお言葉遣いは嫌いです」とか始終うるさくいってくるのに。ジュージが何も言ってこないのってひょっとしてジュージには好き嫌いがないくらい空っぽなのかなって思ったの」


 言われてみれば確かにそうだった。


 イサキお嬢様の周囲の人間と比べるまでもなく、私は異質だった。


 例えば、往来を歩く仲睦まじい家族を見た時。


 他愛のない会話や言葉から、自分ではない誰かのための無私の愛情や友情の片鱗を感じる時。


 まるで私だけが人間ではない。違う生き物のように感じる時。


 それは微かな異音のように私の意識に忍び込み、その度に私はそれらを排除してきた。これは私には要らないものなのだ、と。


 それについて改めて考え始めると私の心の奥に昏いおりこごるのを感じる。


 だから私は考えるのを放棄する。


 考える必要などない。


 大丈夫。どうせ皆死ぬのだ。私が殺すのだから。


「ジュージ?」


 気が付くと私の手はお嬢様に強く握られていた。


「お嬢様…?」


 私がはっと我に返るとお嬢様はほっと安堵したような表情を見せた。


「よかった…今ジュージがなんだか怖い顔をしていたように思えたから」


 こういう時、私は何を言えばいいか、どんな表情をすればいいのか分からなくなる。


 その頃の私といえば、始終お嬢様のことが恐ろしかった。


 お嬢様の目の中に浮かぶものが恐ろしかった。


 それはおそらく“信頼”というものだった。


 その“信頼”というものがなぜ私をここまで恐怖させるのだろう。


 得体の知れないそれは、知るほどに私の醜怪さを白日の下に晒し。


 知るほどにそれと私の心は分かちがたく。


 知るほどに…温かく。


 私の胸の中にこごる何かはお嬢様の与えるその“何か”にずっと怯え続けていた。


「お嬢様は…どうして私を名前で呼ぶのでしょうか?」


「どうしてって…?…その方が安心すると思わない?」


「…なぜ私を外へ連れ出してくれるのでしょうか?」


「その方が私も楽しいわ」


 胸が苦しい。


 これ以上はもう駄目だ。


 もう二度とは戻れなくなる。


 この人がいなければ息も吸えなくなる。


 この人がいなければ…


 こんなにも頼りない思いなど私は知らないままでよかったはずだ。

 

「ジュージはそのままでいいんだよ…ってジュ、ジュージ……??」


 視界が歪み、嗚咽が漏れだすのを止めることはできなかった。


「お嬢様…申し訳ありません…」


 泣き続ける私を、それでも見つめるお嬢様の目に浮かんだ涙や。


 自分のことを想い泣く人が目の前にいるということを。


 私はどう受け止めればいいのか。


 そして、この人を殺さなければならないこと。その哀しみを。


 一体どう受け止めればいいのか。


 私には分からなかった。

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