第23話与一の野望

 俺が一通り運動して戻ってくると、辺りは既に夕暮れだった。

 こう見えても、俺は方向音痴になったことがない。おそらく、こうして那須の国までやって来られたのも、俺の類稀なる方向感覚のおかげに違いない。

 馬小屋に辿り着くと、持ってきたソレを置いて藁のベッドに寝転がった。

 長屋の方も確認したが、どうやら九郎たちはまだ戻っていないようだった。

 良かった。もし、九郎たちが帰っていたら恰好がつかねえ――

 と、ホッと胸を撫で下ろした時。遠くから少女の声が聞こえてきた。

 どうやら、僅差で俺が先に家に着いたらしい。

「……うむむ。やはり与一のようにはいかぬなあ。京の弓ならまだ引けるのだが……」

「坂東の弓は大きいですからねー。九郎様には、体格的にも難しいかと思います。ですが、気にすることはありません!」

 このアルトボイスと高い女の声は、間違いなく九郎と与一だろう。ようやく帰ってきたらしい。それだけでなく、九郎は獲物をあまり取れなかったようだ。尚のこと都合がよい。

 さあ、馬小屋に来るがいい。そして、九郎を驚かせてやる!

 外の足音と会話が、どんどん近づいてくる。おそらく、もう長屋の前だろう。

「疲れましたね、九郎様」

「ああ。少し、休みたいところだ」

「馬小屋には寄らなくてもいいんですか?」

「……ふん。あんな馬鹿なぞ知らん。勝手にしてればよいのだ」

 そこで会話が途切れると、ガラっと長屋の扉が開けられる音がした。

「ちょっと待てよおおおおおぉぉぉぉぉっ! 俺が待ってんだろおおお!」

「うわっびっくりした! なんだ弁慶! ……何か用か?」

 九郎は肩を震わせたあと、話し辛そうに視線だけをこちらに向けてくる

 そんな態度をとられると、勢いで飛び出した俺も思わず言葉に詰まってしまう。

「な、何か用って……その、だな」

「……何も用がないなら、呼び止めるではない。おれのこと……嫌いなんだろ?」

「嫌いじゃねえよ!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。九郎も与一も目を丸くする。

「ただ、好きかって言われると、それもよく分から――って、そんな話はどうでもいいんだよ! それよりこっちに来い!」

 話が脱線しそうになるのを避けるために、俺は強引に九郎の腕をとって馬小屋に連れ込んだ。

「ちょっ、何をするのだ弁慶! ――あ」

 九郎は嫌がりながらも馬小屋に入ると、瞠目した。

 馬小屋の奥。俺が寝ていた場所に、大きなイノシシが横たわっていた。

「べ、弁慶……これは?」

「どうせ、お前のことだから大した獲物なんか取れなさそうだったんでな。俺が狩った」

「狩ったって……一人でか!? 怪我はしなかったのか!?」

「ああ。塩が少し出ただけだ」

 ……そうだ。罠に掛かったイノシシの牙が足を掠めて、塩が少しだけな。

 だが、九郎がそれを真に受けることもなく、ただ目を丸くして呆然と俺を見上げていた。

「……主ばっかり働くのも違うだろ? それに、これがあれば――」

「何やってくれてんのよクソ坊主!」

 瞬間。俺の横腹に蹴りが飛んできた。

「ごふっ!」

 わけも分からず、倒れたイノシシに向かって頭から突っ込んでしまう。

 だが、直後に聞こえた甲高い声は間違いなく、与一だった。

「てめっ、何しやがる与一!」

 起き上がると、更に与一は俺の上に跨ってマウントを取った。

 怒りに満ちた顔が、ずいっと俺の鼻先にまで近づく。

「何しやがるは私の台詞よ! このクソタコ坊主! あのね! 那須国では、那須家の許可なく狩猟するのは禁じられているの! それを抜きにしても、春先のイノシシを狩ると、イノシシは人間に対して敵対心が強くなるの! あんたがイノシシを狩ったせいで、これから山の中でイノシシに襲われる人が増えることになるのよ!」

「ま、マジかよ……。で、でも待て与一! 俺の話を聞け! とにかく、イノシシを無断で狩ったことは謝る! でも、……九郎はイノシシ肉が好きらしいぞ? 俺が、これから未来の料理を振る舞ってやるから、一緒に手伝ってくれ」

 最後の方は小声で与一に伝える。与一はあからさまに不機嫌そうな表情を作る。

「……はぁ? 何よ未来って? 大体、なんで私があんたと――」

「好きな男の胃袋を掴むと、後は大体ことがすんなり運ぶって言うぜ?」

 俺が与一の耳元でボソッと言ってやると、与一の動きが止まった。

「あ、後のこと……。夜這い、妊娠、出産。以後十数回の繰り返し……」

 あ。今この女の中で、凄まじい勢いで未来設計図が組み立てられているぞ。

 与一はジッと俺を見下ろしていたが、やがて「ふんっ」と鼻を鳴らした。

「……いいわ。癪だけど、あんたの案に乗ってあげる。感謝しなさい」

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