第19話声の主

 迷子になったのは、鏡の宿を出てから二日後のことだった。

 岐阜を通り過ぎた日の晩、俺たちの隊商を大雨が襲った。

 風も強く、まるで季節外れの台風みたいな有様の中、俺たちはその日の宿を目指して必死に歩いていた。

 しかし、川を前にした時、急にその川の堤防が崩れ、川の水が濁流となって隊商の側面を襲った。隊商の面々は散り散りになり、俺と九郎は濁流の氾濫から逃げるために北にある山を目指してがむしゃらに走った。

 そして、何とか山を登って難を逃れた俺たちだったが、その後いくら探しても吉次たちと合流することはできなかった。

「……まったく、いらぬ体力を使ったわ。わたしはいい迷惑だぞ、弁慶」

「……そのセリフ、そっくりそのまま返すわ」

 互いに「「いーっ」」っといがみ合ったまま、俺と九郎は吉次たちと合流するのを諦めて北西へ向かっていた。

 正直言って、この平野がどこなのかは分からない。ただ、岐阜を出てから五日は経っているから、関東に辿り着いたのは確かだろう。

 ここまでの道のりは、それはもう過酷なものだった。

 村にお邪魔しては、家事の手伝いをして馬小屋の藁を布団代わりにして眠る日々。正直言って春の夜は寒いし、馬の臭いと乾草の臭いで鼻が曲がりそうで一睡もできない。鏡の宿の畳が恋しかった。

 だが、それはいい。まだ我慢できる。それよりも許せないのは、九郎の奇行だ。

「お前さあ、もういい加減平氏びいきの家に火を放つの止めろよな?」

 そう。俺の横で汚れた着物を着て歩いているこいつは、自分の名を明かして泊めてくれない武家の家に火を放つ。それはもう、容赦なく。

 松明を数本作り、茅葺屋根の上に放り投げ、米の備蓄庫から屋敷まで何でも燃やす。

 俺も最初は、この時代の人間の蛮族っぷりにドン引きして罪悪感に苛まれていたが、それも十件を超えるころにはその感情も麻痺していた。何故なら――

「何を言っておる。平家に与するものは皆敵だ。ならば、少しでも戦力を削っておくのが定石であろう」

 ケロッとして言い放つ九郎に、罪悪感という気持ちは一欠けらも感じない。

 一緒に旅をする奴がこんな思考のせいで、今や俺はこいつの放火癖を万引きをしてしまった後輩を怒るような口調で諫めようとしている。

「お前なあ……。この辺りは坂東って言うんだろ? ってことは、この辺の武士は、元々源家の郎党ってことだ。そりゃ、平氏の目があるからお前を泊めるわけにはいかんだろ。それに、本当ならそこで捕らえられていてもおかしくないところを、義理と温情で見逃してくれてんだ。なんでそんな人たちの家に火を放てるんだよお前。もう源氏より放火魔って名乗った方がよくないか?」

 おかげで、俺たちの悪評は歩く速度よりも早く広まっていた。今じゃもう、この辺の屋敷で俺たちを泊めてくれる家はない。

 そして、九郎はそういった家々ももちろん燃やしていく。その数は、十件を超えていた。

 頭が痛い……。

「ふん。そんなことより弁慶。腹が減った。喉が渇いた。何か用意せい」

 憮然と言い放つこのクソ九郎に、ついに俺の堪忍袋の緒がブチッと切れた。

「お前バカか! 誰のせいで食うのにも寝るのにも困ってると思ってんだ!」

「なっ。主人に向かって馬鹿とはなんだ馬鹿とは! もう怒った! ――むむっ!」

「このやろっ!」

 こうして、再び脛の潰し合いになって体力を消耗する。完全に悪循環に陥っていた。

 もう二日ほど何も飲み食いをしていない。もう体力も限界だ。

 ひたすら脛の潰し合いをした俺と牛若は、平野を抜けて山の麓に辿り着いた。

 もう、正直言って山を越える体力なんて微塵も残っていない。針葉樹の森を歩きながら、俺たちは遂にその場にうつ伏せで倒れた。

 ああ。湿気た地面が気持ちいい……。

「……も、もうだめだ。腹減ったぁ……」

「……べ、弁慶。ほら、主が困っているぞ? その怪力を振るって、イノシシでも倒してこい。そして、そのままわたしの大好きなイノシシ鍋を作ってくれ。そうすれば、わたしは今までのお前が犯した数々の非礼を許してやるぞ?」

 となりで、馬鹿九郎がバカなことを言ってやがる。誰のせいでこうなったと思ってんだ。

「……黙れ放火魔源氏。腹が減ったんなら、その辺の木でも齧ってろ」

「なにっ……? 貴様主に向かっていい度胸だな。こうしてやる。――むむっ……あぁ、もうだめ。念じる気力も湧かないぃぃぃ」

 木々のざわめきと、鳥の声を聴きながら、俺たちは遂に無言になった。今まで互いに口だけは忙しく動いていたのだが、ついにそれすらも出来なくなってしまった。

 俺は……こんな大昔のどことも分からない場所で死ぬのか。それなら、最後に特上の神戸牛を食ってから死にたかった。神様叶えてくんねえかなあ……。

 念じてみるが、鳥の鳴き声以外返ってくる音はない。

 神様贅沢言ってごめんなさい。せめて、喉の渇きだけでもなんとかなんねえかな。今なら、その辺の川の泥水でもがぶ飲みでき――

「――んぉ?」

 その時。俺の鼓膜が、微かに川のせせらぎを捉えた。

 ガバッと起き上がって、その音の方向を探る。

「……どうしたのだ弁慶。どこかに米の成る木でも見つけたのか?」

 横でバカが何か言ってるが、そんなのは無視だ無視。それよりも――

「川だ……。川のせせらぎが聞こえる」

「なにっ!? それは真か弁け――って、おい! どこへ行くのだ弁慶!」

 俺は九郎を置いて走り出した。川のせせらぎは、この針葉樹が生えた山道の先から聞こえる。音からして距離は一〇〇メートルも無いだろう。

 腹は満たされないが、せめて渇きだけでも潤したい!

 俺は無我夢中に森を走り抜ける。すると、木々の間に流れる小さな湧き水を見つけた。

 水は澄んでいて、俺は清水がいつも以上にキラキラと輝いて見えた。自然と、口の中の渇きが更に強くなった。

 手の平で掬ってみると、とても冷たい。手の平に水が溜まると、俺は勢いよく手の平に口を近づけ――

「源氏万歳蹴り!」

「のわっ!? 何しやがるバカ九郎!」

 突如として現れた九郎の飛び蹴りを、俺は体を仰け反らせて避けた。

 着地した九郎は、振り返ってぎらぎらとした切れ長の瞳で笑った。

「よく清水を見つけた。褒めて遣わすぞ弁慶。しかし、喉を乾かした主を差し置いて清水に手を付けるのは関心せんな。ほら、今すぐそこを退け。そこはわたしの場所だぞ」

「何言ってんだチビ。これは俺が先に見つけたんだ。お前は俺が喉の渇きを潤してから飲めばいいじゃねえか」

 俺と九郎の間で、火花がぶつかり合う。どうやら、平和的解決は望めないらしい。

 だったら、あとはいつもの取っ組み合いだけだ。

「このっ!」

「――むむっ!」

 俺が木の棒を構えて走り出したのと、九郎が念を送ろうとしたのは同時。

 今、清水をかけた俺と九郎の戦いが幕を開け――

 ――ヒュンッ!

 瞬間。俺と九郎の間を、一筋の軌跡が走った。

 鋭い音を立てて飛んできた何かは、俺と九郎が争う原因となった清水を穿ち、流れ落ちる水を二つに割った。

 虚を突かれた俺と九郎は、清水を割ったそれをまじまじと見つめた。それは、深々と岩に刺さった一本の――

「な、なんだ……矢か? これ……」


「そこで何をしているの?」


 森のどこかからか、そんな声が聞こえた。

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