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 学校を出て、僕は川へ荷物を拾いに行った。靴を汚すわけにはいかず、裸足で川の中に入る。川は僕の足首程度の水しかなかった。ぬるっとした、もう水とは形容できないような感触が、僕の足を包み込んだ。

 すべての荷物を拾い上げるのには時間がかかった。沈み始めていた日は、半分以上身体を空の向こうに沈め、橙色の光が暗闇に支配され始める。僕の手元も段々と暗闇に飲まれ初め、次第に何がドロで、どこまでが闇なのか、全てが見えなっていく。

 いくつか見つからない物もあった。たとえば、お気に入りのロケット鉛筆。最新のデザインのそれは、キラキラと輝いたブルー色の透明なプラスチック製で、とうとう最後の最後まで見つからなかった。

 せっかくなけなしのお小遣いをためて買った物だったのに。でもどうせ見つかっても、きっとあのキラキラは失われているのだろうけど。


 完全に手元が見えなくなった辺りで、捜索を止めた。荷物を詰めたランドセルを持って川から上がる。


 泥だらけのランドセルは持ちづらくって仕方なかった。元から小汚いランドセルだったが、この件でさらに汚くなってしまったな、とそんな事を思った。

 放たれる異臭に鼻が曲がりそうになりながらも、僕はランドセルを背負って帰路についた。帰り道である住宅街を歩きながら、はたしてこの臭いは取れるのだろうかと考える。

 ドロは拭けば落ちる。洋服についたドロも、洗えば落ちる。けれどそれをするには、まず早く家に帰らなければならない。

 それにそろそろ、母が帰宅する時間だ。この汚れを見たら、怒られる事は間違いない。怒鳴られるだけで済めばいいけど、もし父に話されでもしたら殴られてしまうかもしれない。

 この間も、ボロボロに刻まれた教科書を持って帰ったら、「人の金を無駄にしやがって」と殴られた。外履きを隠されて上履きで帰った時には家にあげてすら貰えなかった。両親は、汚いものや物を大事に出来ない僕のことが嫌いだった。

 今日みたいに寒い秋の日に同じ事をやられたらと思うとゾッとした。ドロ水でしめった僕の身体に向かって秋風が吹き去って行き、ぶるりと身震いする。

 走って帰ることにした。このままトロトロ歩いていれば、帰る頃には完全に日が落ちてしまう。母も父も、家に帰ってくるのは日が落ちてしばらくしてからだ。なるべく早めに帰らなければいけなかった。


 ぼとぼと、と汚い雫を地面に落としながら帰り道である住宅街を走った。


 幸いにも辺りに人はおらず、僕の恰好をとがめてくる人はいなかった。あるのは、等間隔に道に並ぶ街灯だけ。夜が近くなったからか、うっすらと明かりがつき始めていた。


「どうして」という言葉が、ふいに浮かんだ。


 どうして僕なんだろう。

 

 世の中には何万の人がいて、狭いクラスの中にだって何十人もの人がいる。なのに、どうして僕なのだろう。

 どうして、僕ばかりがこんな目に合わなければいけないのだろう。


 世の中はわからない事が多すぎる。勉強以外にもたくさん。僕のトロくさい頭では理解できない。でも、なんで、どうして、僕なのか。僕が僕以外の誰かだったら、僕も皆と同じように、笑ったり遊んだり出来たのだろうか。ドロまみれになる事もなく、ただいまと言ったらお帰りと両親が微笑んでくれる、そんな子供になったのだろうか。


 夕暮れ時の住宅街に、ぼとぼと、という音が響き渡る。僕の服から落ちた大量のヘドロが地面に点々と跡をつけていく。


 それと一緒に僕の顔からもたくさんのしずくが落ちていた。後を辿ると、それは僕の目から流れている事がわかった。

 ヘドロと混じって、汚いしずくが僕の歩いた跡を残していく。


 と、そのときだった。


 ――タッタッタッタッタッ


 誰かの足音が、僕の耳に届いた。

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