第2話 とある休日終わり

 自分が生きてきたこれまでの人生で、運が向いてきた、なんて思ったことは一度しかなかった。


『六条のこと、好きなんだよね』


 受話器越しに聞いた彼女の艶っぽい声。

 それは十五年経った今でも鮮明に思い出せる。


 たしかにあの瞬間、僕は人生で一番舞い上がっていた。あいつの告白のセリフだって一字一句はっきり覚えてる。一五年も前の記憶なのにだぞ? うわきも。


 まあ……そんな記憶にすがっている時点で、多分僕は色々終わってるんだろうなと思った。

 僕の人生はいつも下り坂だ。そこから登りになる可能性はあるのかというと、たぶんない。下りきった先には奈落があって、あとはもう底辺で落ちるだけかもしれない。


 小学時代――無邪気で子供たちの手による嫌がらせから始まり。

 中学時代――口にするのもはばかれる恐怖のいじめ時代。

 そしてそれから怒涛の地元公立高校の受験失敗! 大学時代での浪人と留年! 不景気の波に飲まれての就職難!

 思えば、両親には学費面で負担をかけてばかりだった。

 なんとか就いた今の仕事も薄給の割に労働時間ばかり長く、日々の生活で精いっぱいだ。親孝行すらままならない。

 僕の人生はそんな感じ。

 対価に見合わない苦労が常について回る。総じて、ぱっとしない人生だった。


 日曜日の夜はとくに憂鬱だ。

 仕事ってやつが背中に重くのしかかってきて、耳元に重苦しい吐息を吹き付けてくる。

 夜が明けてしまえばまた、行きたくもない社会というやつに身を投じなければいけない。テレビをつければサザエやまる子が残酷な休日終わりを突き付けてくる。


 とにかく、平日来るなぁ!いやだいやだぁ! と思いながら敷布団の上に寝そべっていた。

 終始無言だが、心の中は存外騒がしいのだ。


 そうやって今日も、貴重な休日が消費されていく……。


「なんと無力か……」


 言いながら、あくびが漏れ出る。眠気まで背後から忍び寄ってきていた。


「ん?」


 スマフォの震えを感知し、懐から取り出した。画面を確認すると、『母』という文字がでんっと大きく表示されていた。

 母さんから電話が来るのは一か月ぶりだ。


『はい、もしもーし』


 電話に出るとやけに明るい声が聞こえてきて、なぜか泣きたくなった。


「親孝行できなくてごめんね……」


 さっきまで考えていたこと、気づいたらそのまま口にしていた。


『は?』


 冷たい声で一蹴される。


「なんのようですかぁ……?」

『なにって、もう一月ぐらい連絡寄越さないんだもの。家で自殺してるんじゃないかって心配になって連絡したのよ』


 母さんは何事もなかったかのように話しはじめる。


『たまにはこっちにも顔出しに来なさいよ。ヒナも寂しがってるわよ』


 久しぶりに聞いた電話越しの母さんの声は、少しくたびれたように感じた。

 妹のヒナは今年で一五になる中学三年生だ。だいぶ年が離れている。

 ヒナは僕が中学の頃、気づいたら家にいた。まだ髪の毛もないへちゃむくれな赤ん坊だった。

 そんな赤ん坊時代から今日まで、ヒナの成長を両親と一緒に見守ってきた。そんな彼女が今や高校受験を控えている受験生だ。年月が経つのは早いなと、しみじみ思ってしまう。


「みんな元気なの?」

『元気よ。みんなのんびりやってるわよ』


 両親と妹は都内のベッドタウンの一軒家で暮らしている。築十年は経つそれなりに痛んだ家だ。社会人になってからしばらくは一緒に暮らしてたけど、いつまでも両親に甘えてはいられないと数年前に都心に部屋を借りて一人暮らしを始めた。

 当初は、もしも僕にカノジョなんてものが出来たら部屋に呼んだりとかするのかなぁなんて浅ましい妄想をしてたけど……現実はそんなうまくいかない。恋人ができる気配がないままアラサーになってしまった。


『電話越しにため息しないでよ』

「はぁ……」


 ため息なんてしてるつもりなかった。無意識とは恐ろしい。


『それよりも次はいつ戻ってくるの?』


 正直、そろそろ顔を見ておきたいという気持ちはある。なんだかんだで両親も高齢だし、心配なのだ。

 実家は僕が住んでる場所からドアツードアで1時間ぐらいだし、行こうと思えばいつでもいける。

 でも仕事の疲労と、婚活による心労で、なかなか重い腰が上がらないのである。背中はびったり布団に吸い付いて離れないのだ。


「今月どっかで戻るよ……」


 とりあえず前向きなことを言っておく。


『あら、じゃあ戻る日は前日に連絡入れてね。良いもの作るから』

「記念日でもないのに余計なことしないでいいよ……。いつも通りでいいって」


 あまり居心地よさを発揮されると実家から動けなくなってしまう。会社に行きたくない病が悪化するに決まってる。


『そういえば、中学の同窓会の案内がまた来てたわよ? 今年はどうするの?』

「なにそれ?」


 覚えがなくて聞き返す。受話器の向こうで、母さんが言いずらそうにもそもそと話し出した。


『去年も来たじゃない。でも去年は同級生の訃報があって中止になったのよ……』


 なるほど、だから今年になったのか。

 訃報と聞いて色々思い出した。

 でも、だからと言って今の僕には関係のないことだ。

 あの頃の誰が亡くなろうが、生きてようが、僕は同窓会なんぞに行くつもりはなかった。


『自殺なんて嫌よね』


 自殺――


『あんたと同級生だった子なんでしょ? ちひろちゃんだっけ? 在学途中から登校拒否になったっていう』


 知っている。

 当時その子とは何度か会話をしたこともあった。

 僕以上に空気の読めない奴で――



 たぶん僕よりもずっと弱い人間だった。



 逢坂ちひろ。

 一時期クラスの女子から陰湿ないじめを受けていて、周りの扱いに堪えられず登校拒否になった。

 いじめがあったことを知ったのは彼女が来なくなってからだった。

 その後しばらくは保健室登校ってやつをしていた。クラスには顔を出さずに、保健室に通って勉強していたみたいだ。

 部屋の隅には彼女専用のベッドがあって、そこで教科書を読んでいる姿をよく目にした。


 結局彼女が教室に戻ることはなかった。

 卒アルの集合写真には端っこに顔写真だけが貼られてた。


 そんな彼女が去年の暮れに自宅で首を吊って自殺したことは、当時は結構衝撃だった。同窓会を企画してた連中もざわついていたみたいだ。


 まあいずれにしても、生きてまだ社畜をしている僕には関係のない話だ。


『あんた去年号泣してたよね。もう大丈夫なの?』

「それはもういいだろ……」


 わざわざ傷をえぐるような真似、しないで欲しい。


「同級生の訃報なんて、それなりにへこむもんだろ」

『で、どうするの同窓会?』

「去年もキャンセルなら、今年もキャンセルに決まってる」

『えー久しぶりに会いたい友達とかいるんじゃないのぉ?』


 いないから行きたくないんだよ。

 母さんは中学時代に僕がどういう経験をしたのか知らないから、そんなことが言える。


『そんなことより、あんたいい加減いい人見つけなさいよ。もう今年で三〇でしょ?』

「強引に踏み込んだね……? 前後の会話とつながってないよ」

『いつまでもふらふらしてないで、はやく初孫の姿を見せてもらいたいわぁ」

「はいはい」


 久しぶりの親子の会話は、そんな話題で締めくくられる。

 最後にしつこいくらいの結婚云々の話を聞き流して、電話を切った。

 適当にあしらうのにも慣れてきた。

 中学時代の同級生なんて、僕のトラウマの宝庫だ。わざわざそんな奴らのたまり場に顔を出すほど僕も馬鹿じゃない。

 当時の記憶は、今思い出しても気分が悪くなる。

 でも僕は、絶対にあれをいじめだとは認めたりしない。認めてなんてやるもんか。

 僕は最後まで学校に通い、胸を張って卒業した。

 それで十分じゃないか。


「寝るか……」


 立ち上がり、終身の準備に取り掛かる。


 鏡を見つめながら歯磨きをしている最中、心無い連中に過剰にいじられていた頃のことを思い出していた。

 陰湿というより、一部の不良に目を付けられていて、出会い頭に殴られたり、蹴飛ばされたりしていた。


『お前の目、気に食わないんだよ」


 不意に頭に浮かんだセリフに、背筋が凍り付く。思えばあの時期、僕の人生がジェットコースターの下りレールみたいに急降下していった。

 僕にはじめて恋人ができて、一週間でフラれたあの劇物を口に含んだような出来事のせいで、人生の歯車が狂っていったんだ。


 いつのまにか口の中は泡だらけになっていた。


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